渇え殺しの鳥取城、それを見張る本陣山・太閤ヶ平
【鳥取市 2023.9.29】
鳥取城の元になるのは、戦国時代に因幡の守護をつとめた山名氏が久松山の地形を活かして山城を築いたのがはじまりです。
その後山名氏の家臣が主家を追い出して占拠したかと思えば、山名氏も山中鹿之助ら尼子氏の協力でふたたび奪還 – – -など獲ったり取られたりを繰り返します。
しかしこの鳥取城が後世の人々にふかく記憶されるのは、なんといっても織田信長による中国攻めの途上、羽柴秀吉による「鳥取城の渇(かつ)え殺し」とよばれた、凄惨をきわめた兵糧攻めによる落城ゆえでしょう。
その兵糧攻めの手法はネットで調べていただけば詳細がわかると思いますのでいまは省きます。
ここで注意すべきは、そこまで徹底した兵糧攻めでしか落とせなかったこの鳥取城は、いかほどに堅城だったのかということです。
鳥取城だけでなく、その兵糧攻めに際して秀吉方が陣を敷いて落城の日を待ち受けた、本陣山にもあるいて行けるので両方をまわってみたいと思います。
鳥取城・山下ノ丸
かつての鳥取城内に立てられた鳥取県庁の最上階の食堂は一般にも開放されており、食事内容はまあまあですが、鳥取城が築かれた久松山をばっちり眺めることができます。
山頂の剥げたように見えるのが山上ノ丸、麓の左半分にひろがる石垣が山下ノ丸、両方をあわせてひとつの城になっています。
凄惨な兵糧攻めによる落城の際の城主は、毛利家の重臣・吉川経家でした。
そのあとには秀吉の家臣である宮部継潤が任せされおもに山上部分を改修、さらに江戸時代になってからは池田氏が入城し、おもに山麓の山下ノ丸を大改修しました。江戸時代になると戦らしい戦もなく、山上の城郭は必要なかったわけです。
そのような歴史を経ているため、ひとつの城のなかでもその時代々々の石垣が遺構としてのこっています。
天球丸、巻石垣
球面の巻石垣は、石垣本体を補強するために江戸時代末期に後からつくられており、いま目にしているものは平成になって修復されたものです。
このような巻石垣による補強は河川工事などでは多用されていたそうですが、城の石垣に使われるのはたいへん珍しい例とのこと。
なおこの曲輪を「天球丸」と呼ぶのはこの球面巻石垣とは無関係で、そもそも江戸時代における初代藩主・池田直吉の姉・天球院がここで暮らしていたことに由来します。
山上ノ丸
山下ノ丸全体は石垣修復がすすみ、またたいへん見やすく、あらゆる角度から石垣を眺められるよう通路を設けてありましたが、山上ノ丸については崩れかけた石垣にはあまり手をつけず、元の状態を想像する楽しみを残してくれています。
右前方に見えるのは日本海、中央を流れるのが千代川、中央やや左寄りには湖山池が見えます。
本陣山へ
太閤ヶ平
順序が逆になりますが、どのように歩いたか分かりやすいように、下山した際に登山口にあった案内板を一部抜粋して載せておきます。
なお案内板上の【現在地】は下山した最終地点です。
ここ太閤ヶ平(たいこうがなる)は鳥取城を攻めるにあたり秀吉が本陣としていました。
もっとも攻城とはいっても兵糧攻めですから、ここに腰をすえて相手が飢えと渇きで干上がるのをじっくり待っていたということです。
敵とはいえ相手を渇え殺しにしながらそれを見張りつづける神経とは、殺す殺されるが当たり前の時代に生きた人間でしか理解できないものなのでしょう。
おかしな建造物がないのが良いと書きましたが、じつは隣接して本陣山の山頂には電波塔がすっくと立っています。しかしこれは致し方ないことでしょう。
写真撮影のさいにはそれらが写り込まないように留意すれば大丈夫です。
当時からあった道なのか、そこそこ整備された道をくだってゆくと30~40分で街中に戻ります。
【アクセス】JR鳥取駅~鳥取県庁~鳥取城・山下ノ丸~久松山・山上ノ丸~本陣山・太閤ヶ平~県庁~鳥取駅 20000歩、所要5時間
【満足度】★★★★★