天守閣から大山をのぞむ米子城

【鳥取県・米子市 2023.10.1】
因幡の城もそうでしたが、このあたり伯耆の城も振り返ると獲ったり取られたりの歴史をたどっています。
そもそもの城の原形(砦レベル)がつくられたのは、応仁の乱により世が震撼していた当時のようですが、その後因幡の守護となり初期城郭としての鳥取城を築いた山名氏が、ここにも城郭レベルのものをつくったと思われます。
そこに出雲を拠点としていた尼子氏が侵攻してきて奪い取る。ところが毛利氏の反撃により尼子氏を駆逐、ふたたび山名氏の管下となる。
ところで尼子氏といえば、山中鹿之助(幸盛)。その鹿之助率いる尼子再興軍が乾坤一擲(一説では周到な準備をしていたとも)米子城、尾高城などこのあたり一帯の城を瞬く間に奪還します。
しかし兵力の差はいかんともしがたく、再度毛利氏の重鎮・吉川元春に打ち負かされ(このとき鹿之助は捕えられ、のちに殺害されます)、元春の家臣が城主となります。
本能寺の変ののち秀吉が天下人に駆け上がる段階で、元春の跡継ぎである吉川広家が伯耆をふくめたこのあたり一帯の領主(大名)となり、本格的に米子城の改修(というよりも新たな築城)を始めたようです。
ところが関ヶ原の合戦で毛利家は西軍に属していたため、敗戦後に広家は岩国へ改易。この時点では築城工事は7割がたおわっていたものの完成ではありませんでした。
あとに入城したのは、もと豊臣家の三中老のひとりで徳川に寝返った中村一氏の嫡男、一忠。寝返りと関ケ原での奮戦の功で伯耆17万石の大名となります。その一忠が5層の天守と4層の副天守をもつ山陰一といわれた壮麗な城を完成させるのですが、その一忠が急死し、跡取りがいなかったことから中村家は断絶となります。
その後は鳥取藩の池田氏が因幡・伯耆すべての領主となったことから鳥取城が主城となり、支城の米子城が日の当たる存在になることはありませんでした。

米子城・三の丸から二の丸へ

三の丸手前から、二の丸の石垣(中央)と本丸(山上)を見る
三の丸広場隅になった案内板より抜粋 / 赤いラインにそって歩き登り、本丸から中海方向へ下りてみます
ここが三の丸への虎口であったところ
二の丸へあがる

本丸へ

二の丸周辺で撮影した写真をあやまって削除してしまったため、掲載することができません。そこの部分はカットして本丸へ向かいます。

本丸へあがる整備された道
本丸をのぞむ
途中、登り石垣を見ることができます

登り石垣とは、山腹からの侵入者をふせぐため山麓の曲輪から山上の曲輪まで、直線的に(必然的に登り勾配になる)結んだ石垣のことを言います。
堀の場合は、周囲を囲むのではなく、山腹に縦に掘ったものを竪堀(たてぼり)と言いますが、それの石垣バージョンであり、それゆえ「竪石垣」とも別称されます。

本丸、天守台

山上の本丸を支える石垣
画像①
画像②

これらの石垣は戦国時代末期から江戸時代初期に造られたものゆえ、きれいに整っています。
画像①の石垣は、あるていど形を整えた大きな石を積み、その隙間に小さな石を詰め込んで強度を高める「打込接ぎ」
画像②はきれいにカットした石を隙間のないように積んだ「切込接ぎ」。さらに石垣の隅角部分は、横長の石を長辺と短辺を交互に組んで強度をたかめる「算木積み」の技法が用いられています。

虎口から本丸に上がります
本丸跡
天守台を見る
中海から境港市方向を見わたす
鳥取の街と、左に大山が霞んで見える(見えます?)
天守台跡 / 礎石がのこる / 真正面に大山
天守台にあった巨石

巨石に穴が刻まれていますが、これは「矢穴」です。ここでいう矢とは、クサビのこと。
石を割るとき、割りたいラインにそってノミで穴をあけ(その穴が矢穴)、その穴に鉄のクサビをあてがい大槌でたたくときれいに2つに割れるという寸法です。

入った虎口とは反対方向から出ます
途中で中海がばっちり見えました
あっという間に下りてきました

眼前の丘上に見張り場のような曲輪跡(?)らしきものがありましたが、いまは木が密に生い茂って何も見えませんでした。

この石垣の上は駐車場になっていた

山の麓をぐるっと回ると、最初にみた二の丸石垣の西端に着きます。ここからも城には上がれるのですが、このまま道をすすむと最初の東側の入口にたどり着きます。

【アクセス】JR米子駅~三の丸虎口~二の丸~山上の本丸~湊山公園~米子駅
【満足度】★★★☆☆