北ノ庄城も福井城も北ノ庄
【福井市 2023.10.17】
柴田勝家が信長から越前49万石をあたえられて築いた、その規模は信長の安土城をも上回ると言われたのが北ノ庄城。しかし勝家は本能寺の変で信長が横死してのち、しだいに秀吉にその地位を脅かされ、ついに賤ヶ岳の戦いでの敗北から越前へと敗走、さらに北ノ庄城での自害にいたります。
このとき清須会議ののちに妻とした、信長の妹・お市の方も結婚生活わずが半年余りでともに果て、火をかけた七層とも九層ともつたわる豪壮な天守ともども灰燼と帰します。
この越前の地に、関ケ原の合戦ののち68万石で入封するのが徳川家康の次男であり、幼少のころは秀吉の養子に、その後は関東の大名・結城家の養子となっていた結城秀康です。
秀康はこの地で松平の姓を名乗り、その姓にも与えられた石高にも恥じないようにと、6年の歳月をかけて巨城を築きます。(勝家の北ノ庄城の遺存した部分をもとに改修したとの説もあります)
秀康存命中はこの地域は北ノ庄、そこにある城ゆえ北ノ庄城と呼ばれていたようですが、その後「北」が縁起が悪いとかゴチャゴチャいう人があって、福が居る → 福居 → 福井、そのため福井城と改名したそうです。(この改名のいきさつについては、どの程度信じてよいものか分かりませんが)
勝家の北ノ庄城
城ファンには4つのタイプがあるようです。
①天守や櫓、門、塀など建物をみて楽しむ
②石垣と堀が遺っていれば、建物がなくても楽しめる
③土塁や空堀、曲輪跡があれば、自分でいろいろイメージして楽しむ
④なにも残っていなくても、その現場に立つだけで想像力で楽しんでしまう。
自分の場合は不勉強なのか精進が足りないのか、①②③までで、④の境地にはいまだ到っていません。
それゆえ福井の関係者の方には大変申し訳ないのですが、これでは来た甲斐があった、とは言い難いです。
勝家とお市の方ファミリー
この3人娘はのちに日本史に多大な影響を与えるほどの劇的な人生を送ることになります。
長女の茶々は秀吉の側室となり、跡取りの秀頼を生みます。次女のお初は名門・京極家に嫁ぎます。三女のお江は徳川将軍家2代目(すなわち家康の嫡子)秀忠に嫁ぎ、まず長男は3代目・家光、長女は先の秀頼の正室、次女は加賀藩主・前田家3代目に嫁ぎ、三女はここ福井藩主松平家に嫁ぎ、五女は後水尾天皇の正室となり、男子も成したため、天皇家にはその血が脈々と受け継がれて行くことになります。
福井城
石垣
この天守台にかぎって言えば、石の加工法は切込接ぎ、石の積み方は布積みになります。
石垣の組み方については、下記のサイトが分かりやすいと思います。
https://shirobito.jp/article/554
この城のもっとも顕著な特徴は、石垣に使われている石にあります。笏谷石(しゃくだにいし)と呼ばれ、1600万年も前に降り積もった火山灰がかたまってできた凝灰石で、比較的軽いので粘土を焼いた通常の瓦のかわりに、この笏谷石で屋根も葺いているそうです。
歴史博物館の裏手には復元した舎人門(とねりもん)があります。
門も石垣も復元したものですが、発掘調査に基づき、出来るかぎり正確に再現しているそうです。
【アクセス】JR福井駅から徒歩圏内
【満足度】★★★☆☆