朝倉氏が越前に築いた文化都市・一乗谷
【福井市 2023.10.17】
朝倉氏は元からの名門ではありません。
そもそもは但馬の田舎に根をはる氏族であり、その一派が北陸にうつり、越前朝倉氏7代目・孝景の時代に名門・斯波氏が守護として管轄していた越前国をかわって管理する役につきます。これが守護に対して、守護の代理ゆえ守護代とよばれる役職です。
朝倉孝景は類いまれな戦上手で、越前の土豪や一揆勢など反対勢力を完全に切り従えた功で守護代に就くのですが、さらに京の都の将軍家後継騒動に端を発した応仁の乱のドサクサに便乗して、斯波家の後継問題にも介入し、西軍についたかとおもうと東軍に寝返り、あげくに斯波氏の力をそぎ落とし、実質的に越前国を統治します。(役職としてはこの時点では斯波氏が守護、朝倉氏が守護代のままです)
孝景の次の8代目か9代目のときに斯波氏は没落し、朝倉氏が名実ともに越前国の守護となりますが、斯波氏同様に将軍家も何の力も持たない据物となっていたため、朝倉氏は実質的に越前国の支配者になります。すなわち「守護大名」というわけです。
そして11代目の義景にいたり武よりも文に重きをおいたのか、強兵は二の次で、まるで京の都を模したかのような文化都市をつくります。もっともその当時の京は荒び廃れて見る影もない状態だったため、京の都をしのぐといった方が正しいかもしれません。その文化の華が咲き誇ったのが、いまの福井市中心街から南西に10km余、山麓の谷間にひろがる一乗谷です。
一乗谷へ
一乗谷の自然の要害を利用して、谷間がもっとも狭くなる部分に城戸(きど)という堅牢な出入り口を設けていました。
下城戸が手前、上城戸が奥で、その間隔は2kmほど。すなわち縦2km × 谷幅の空間に一乗谷の町が広がっていたということになります。
一乗谷朝倉氏遺跡
朝倉屋敷跡
土塁や堀切はあるものの、ここは根本的に戦国時代における防御を念頭に置いた屋敷でも、ましてや城郭でもありません。
他国の軍が(たとえば最終的にこの地へ襲いかかる織田軍のように)攻め込んでくることは、まるで想定していなかったのか、平和ボケの象徴を見るようです。
一乗谷は「朝倉氏遺跡」とあるとおり、現存する遺構は城でもなく館でもなく、遺跡とよぶ程度にしかありませんが、そのぶん想像をたくましくすると色々な景色をイメージすることができます。そのさい復元された街並みや、唐門や庭園はイメージづくりの良き助けとなります。
山城へ
山上の城まで上がるには、上手から順に「英林塚コース」「馬出コース」「下城戸コース」の3コースがあります。
名前からして「馬出」は当時から使われていた道だと思いますので、登りは朝倉屋敷跡から登り道につづく「英林塚」、下りは「馬出」を使ってみます。
一乗谷朝倉氏遺跡博物館
JR一乗谷駅まで戻ってきました。
出発するときには気づかなかったのですが、100メートルほど反対方向になんとも場違いなほど立派な(失礼!)建物がありました。
入館料はそこそこしますが、入る価値はありそうです。
一乗谷には立派な石垣が残っているわけでも、現存天守が見られるわけでもありませんが、しずかな山里に往時をしのばせる遺跡群が点々とのこり、自分の想像力でイメージづくりをしてゆくと無限大に楽しめます。
【アクセス】JR一乗谷駅~下城戸跡~平面復元地区~復元街並~朝倉氏屋敷跡~山上の城跡~一乗谷朝倉氏遺跡博物館~一乗谷駅、17000歩:4時間30分
【料金】復元街並と一乗谷朝倉氏遺跡博物館共通入場券:820円(個別だと330円+700円)
【満足度】★★★★☆