軍神・上杉謙信を訪ねる春日山城

【新潟県・上越市 2023.10.31】
「戦国武将番付」なるものがあったとすれば、上杉謙信はまちがいなく横綱か大関に列せられるはずです。異名は「越後の虎」あるいは「軍神」。
その謙信の居城となれば、戦国歴史ファン、あるいは城郭ファンにとってはそれこそ死ぬまでに絶対見ておきたい城ランキングのトップ3かトップ5には入るはずです。
おつむの劣化以外はいたって健康でまだ当分は死ぬことはなさそうですが、それこそ人生なにがあるかわからないので、早いうちに謙信の城は見ておきたいと常々思っていました。その城が春日山城。
今回の新潟の旅は家内同伴ですが、城に興味のない家内をどこか置き去りにしてでも、絶対に行きたいと期待に胸ふくらませ上越市に入りました。

林泉寺

春日山城から移築したとつたわる惣門
山門 / 江戸時代末期に地震で倒壊、大正時代に再建
山門を抜けながら見上げる
内側からみた山門 / 「第一義」は謙信の揮ごう
本堂

林泉寺は謙信の祖父が自身の父を弔うために建立した、長尾家の菩提寺です。
(上杉謙信の幼名は虎千代、成人して長尾景虎に改名。長尾家の直系で、鎌倉公方を補佐する関東管領の地位につき名族上杉姓を授かります)

なお謙信は虎千代時代に、この林泉寺で歴代の住持(寺の長である僧)から仏教の教義をうけ、ふかく仏の教えに帰依します。
「第一義」は謙信の座右の銘だったそうです。第一義とは、究極の真理といった意味の仏教用語です。

謙信の墓がある墓地へむかう
謙信の墓 / 意外とこじんまりしていました

春日山城へ

登城口にあった案内板から抜粋
春日山神社 / 上杉謙信を祭神として祀っている
上杉謙信の像 / 茶屋がある手前の広場から見上げる
山肌に階段状の曲輪が見られます
青苧は木綿が普及するまで服地の主原料でした
麻にちかく、麻よりも柔らかいものの防寒性に劣る

春日山城

三の丸跡(謙信の養子である景虎の屋敷があった)

春日山城ですが、そもそもの築城は当時越後国の守護であり長尾家の主君であった上杉氏によって造られたようです。
そののち謙信の父・長尾為景が主君の首をすげ替え、傀儡として守護職の座にすえる一方、自身は春日山城の改修をすすめ、難攻不落の城に造り替えてゆきます。

二の丸跡

為景のあとをいったんは嫡男の春景が継ぎますが、その穏健な性格が災いして長尾家は衰退、そこで弟の景虎(のちの謙信)が家督を継ぐことになり(ここでは争いはなく、兄から弟への禅譲だったようです)、そのまま春日山城の城主となります。

謙信も父・為景がそうしたように春日山城の大改修をおこなったのは確かですが、どこまでが為景で、どこからが謙信の手によるものかは正確にはわかりません。

下に二の丸、その先に上越市の街並み
本丸へ上がってゆく / 土塁、堀が随所に
本丸から天守台跡をみる / ここも堀が仕切っている
本丸から一段低くなった曲輪に、井戸跡がのこる

本丸から西へ

ここにも堀切があります
上へあがると、謙信のもうひとりの養子・景勝の屋敷跡
重臣・柿崎景家の屋敷跡

謙信は心底仏教に帰依していたようで、生涯不犯(ふぼん:男女の性交渉をしない)だったと言われています。
ですから当然実子はおらず、跡継ぎが絶えることを危惧して、景勝(上田長尾家の当主・長尾政景の次男)と景虎(北条氏3代当主・氏康の七男)のふたりを養子としていました。

養子が2人いながら跡取りを決めずに謙信が急死したため、跡目争い(御舘の乱)に発展するのですが、その詳細はまたあらためて。

本丸から東へ

護摩堂跡、諏訪堂跡 / まるで仏教伽藍跡のようです
さらに、毘沙門堂
直江屋敷跡 / 階段状に曲輪が続いているのがわかります
虎口跡 / 道を屈曲させ、土塁をあげて防御機能を高める
大掛かりな竪堀があります
土を堀り土塁をあげた空堀
左右を隔てる竪堀であり、上から転がり落とす空堀でもある
千貫門跡
春日山神社下まで戻ってきました

春日山城にはもともと石垣はありません。発掘調査によっても石垣らしき大きさの石はまったく発見されていないので確かなことです。
もちろん城郭建築と呼べるものも残っていません。
しかし曲輪跡、土塁、多種多彩な堀や堀切などが鮮明に残されています。「城郭ファン」「戦国歴史ファン」を自称する方であれば、どなたでも十二分に楽しめることと思います。
城郭、寺、城あわせて所要時間は3~4時間が目安です。

【アクセス】レンタカー利用
【料金】林泉寺拝観料:500円
【満足度】★★★★☆