いつだれが石垣を組んだのか、疑問だらけの感状山城

【兵庫県・相生市 2023.12.10】
兵庫県の瀬戸内海沿い、そのずっと西寄りに相生市はあります。むかしの言い方だと、播磨国の西寄りゆえ西播磨とよぶのでしょう。
当時このあたり一帯は、名門村上源氏のながれをくむ武家・赤松氏が支配していました。感状山城はその赤松氏の主城のひとつと考えられています。もともとは地元で瓜生(うりゅう)との地名が残っているように、瓜生何某という土豪が築いた城もどきをもとに、大規模な城郭に修築したようです。
鎌倉時代末期に足利尊氏が、後醍醐天皇から討伐の勅令をうけた新田義貞との戦いに敗れて敗走する際、当時の領主であり城主の赤松則祐が追走する新田の軍勢をこの城を拠点にして50日間足止めにし、おかげで足利尊氏は窮地を脱しただけでなく体勢を立て直してふたたび上洛することができたということです。その助太刀に対して赤松則祐が感状を授けられたことから「感状山城」とよばれるようになった、そこまでは史実として記録されています。
ところがこの感状山城に関しては、そのあとのことがまったく記録されていません。
たとえば感状山城には多くの石垣と石垣跡が残されていますが、赤松則祐が活躍した鎌倉時代末期には城を石垣で守るという発想すらありませんでした。それゆえ村上源氏がどれだけ名門であろうが、赤松則祐がこのとき城に石垣を組んでいたことはありえません。
本格的に城に石垣が組まれるのは近江にのこる六角(佐々木)氏の観音寺城が最初と言われていますが、それとて築城当初から石垣があったとしても室町時代の中盤以降です。
いったい誰が感状山城に石垣を組んだのか、そして何時どのような事情で廃城になったのか、ここは疑問だらけの城です。

感状山へ

瓜生東バス停より感状山をのぞむ
バス停より直進ではなく、西(左)麓へ回り込む
羅漢の里入口にあった案内板 / 羅漢石仏は跡にして
さきに城に上がってみます / 登城口にあった縄張図
長い階段を上ります、この階段登りがけっこうキツイ

登城口の案内板には、階段歩きが10分ほどと書いていますが、実際には下りが10分、上りはその人の体力次第。

案内板に正直に従うと、このまま物見岩を通って城郭に着きますが、途中で階段道をはずれ大手門跡に向かってみます。

大手門跡

どこまでが石垣跡で、どこからが自然の落石なのか
大手門跡 / 石階段が半壊ながら残っています
大手門から見上げる / これは攻めづらい
随所にくずれた石垣が残っています
井戸跡 / 落葉の下に水が見えました
上から見下ろすと / 両側の丘上に兵を置き敵を迎え撃つ

Ⅲ曲輪 ~ 南曲輪 ~ Ⅱ曲輪

Ⅲ曲輪(三の丸に相当する)
曲輪周辺にも石垣跡がたくさん残っています
南曲輪にむかう
南曲輪から山麓を遠望する
Ⅱ曲輪の石垣 / もっとも初歩の野面積みです
経路がまがり防御機能を高めた虎口になっています
虎口から上がってきた、Ⅱ曲輪の南側(二の丸に相当)
Ⅱ曲輪もそこそこ広い / Ⅱ曲輪の北側

Ⅰ曲輪 ~ 北曲輪 ~ 出曲輪

Ⅰ曲輪にむかう途中、大きな石塊が残っていた
Ⅰ曲輪(本丸) / 右側に、建物があったことを示す礎石跡
Ⅰ曲輪から階段状に曲輪がつづく
北曲輪から歩いていると、出曲輪がありました
出曲輪にのこる石

石垣が部分的とはいえ随所に残っているのですが、それ以上に驚くほどの数の石塊が散在しています。残念なのはどれが石垣のくずれた残骸なのか、どれが礎石なのか、それどころか自然の落石の区別さえつきません。
おそらくですが、発掘調査をした人も完全には認識できないのではないでしょうか。
そうなると、各自の想像におまかせ、ということになります。- – – もしかすると、とてつもない石垣群があったのかもしれませんよ。

物見岩

最後に物見岩に寄ってみます
いまは樹木に遮られ、物見はできません

羅漢石仏

羅漢石仏の道は一周しても20分ほど
短い道程ですが、たいへん趣のある道です
そのまま進みます
ここも危険はまったくありません
石窟に石仏 / 石仏自体は期待外れでしたが、
あるく道がなんとも素晴らしい
ここは今年歩いた、the best path
堪能しました

【アクセス】JR相生駅 ➡神姫バス・ 瓜生東バス停~羅漢の里~感状山城~羅漢石仏の道~瓜生東バス停 ➡ 相生駅 / 12000歩、3時間30分
【満足度】★★★★☆