北条早雲は本名・伊勢宗瑞、備中国の高越城に生まれる
【岡山県・井原市 2023.12.13】
戦国時代に関東の覇者として名を馳せたのは北条氏ですが、そもそもは新九郎なる素浪人が、あの手この手で小田原城を奪取し一代で相模国の領主になったのが始まりと伝えられてきました。
ところがその後の調査研究で、この新九郎、浪人どころか、室町幕府将軍の執政を担当する名門・伊勢家の直系で、本人も応仁の乱ののち9代目将軍となる足利義尚の申次衆(将軍御所にて、将軍本人へ諸事を取り次ぐ役)として取り立てられていたようです。
小田原城を奪取するのも、そもそもは相模国内での内紛が収まらないようなので手配してくるよう、将軍直々か管領か、ともかく幕府のトップから指名があり、幕府の仕事として赴いたようです。
そこからは何があったのか、手練手管か権謀術数か、寝技裏技もつかって城ひとつを奪取してしまい、ついには相模国の領主におさまります。
本人のために弁護しておきますと、領主となってからは、他国が常識的に六公四民、よくて五公五民で年貢を徴収していたのにたいして、なんと四公六民という民が暮らしよいよう配慮した税制にあらためたため、自国では百姓は歓喜し、近隣国からは相模国に併呑されることを期待されるほどの人気ぶりだったようです。
ところで新九郎はその後出家して宗瑞と名乗りますが、苗字はずっと伊勢のまま。北条と名乗るのは息子の氏綱の代からで、また戒名が早雲庵宗瑞だったことから、後々に北条早雲として伝えられてきたようです。
※北条早雲の出自や生誕地については異説があります。
さて今日は、その北条早雲が生まれたとされる備中(岡山県西部)、後月郡荏原(しつきぐんえばら:いまの井原市江原)にある高越城を訪ねてみます。
高越城へ
今日の道程ですが、現在地の駅から⑤宝蔵院へ向かい、紫の点線の東平井コースを登って②山頂へ、⑥摩利支天をみて緑の点線の東谷コースで下り、④早雲供養碑に立ち寄って、①法泉寺へ。
その後は、荏原駅へもどるかこの案内図にはないさらに西の井原駅まであるくか時間次第で決めます。
ひとつ西にある横山(最初の写真で、高越山の手前にある低い山)にこの出城(横山城と名)はあります。
さてこれは出城とよぶべきでしょうか、出丸というべきか。
出城とは城としての機構をととのえた、本城(いまの場合は高越城)に対する支城をいいます。
それに対して出丸とは、本城の防御のために曲輪程度のものを、本城から離してつくったものをいいます。たとえば大坂城の守りのために幸村がつくったものは、出城ではなく出丸ゆえに真田丸とよばれました。
高越城
こうしてみると、(時代的に)石垣こそ組んでいませんが、山の斜面を大規模に削って切岸とし、一の郭(本丸)からはすべて見渡せるように郭を配分し、ずいぶん計画的につくっていることがわかります。
横山に出城(出丸?)をつくったのも、すぐ西に丘陵があってその先に視界がきかないので、ウィークポイントとみなしてのことでしょう。
山をくだる
法泉寺
法泉寺は、高越城の城主でありやはり室町幕府将軍の申次衆をつとめていた早雲の父・盛定が建立した、備中伊勢家の菩提寺です。
また早雲は幼少のころ、この法泉寺において武芸や学問を学んだそうです。
まるで雰囲気を壊してしまう不似合いなのぼり旗が多すぎます。なんだかなあと残念な気持ちをかかえて井原駅まで歩きました。
ところで、摩利支天はあまりにもつまらないので写真撮影していません。
早雲供養碑は見に行くのが面倒になり立ち寄っていません。
法泉寺には早雲の墓があるとのこと、後で知りました。しかし早雲の墓は高野山にもあるし、箱根の早雲寺にもあるし、ほかで見た方がしっくりきそうなので、まあいいかで済ませました。
【アクセス】井原鉄道・早雲の里荏原駅~高越城址~法泉寺~井原駅 / 17000歩、3時間30分
【満足度】★★★☆☆