小早川隆景が統治の要として築いた三原城
【広島県・三原市 2023.12.14】
秀吉が天下人となってから指名した五大老は、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景の五人です。
毛利輝元はもちろんのこと、小早川隆景も毛利家の重臣であり輝元の叔父です。そうしてみると、秀吉みずからのこの人選はなんだかイビツに思えてきます。
そもそもの発端は、秀吉が毛利氏に属する清水宗治がまもる備中高松城を水攻めにした際、その最中に秀吉の主君である織田信長が本能寺で討たれますが、そのとき秀吉と毛利軍の頭をつとめる小早川隆景のあいだで急転直下和睦がむすばれ、清水宗治はみずから切腹、こうして秀吉はメンツをつぶされることもなく、さらに毛利家に追撃されることもなく疾風迅雷の勢いで畿内へとって返し(中国大返し)、鎧袖一触のもとに逆臣・明智光秀を討ち取ってしまいます(山崎の戦い)。
そこから秀吉は一気に天下人へと駆け上がるのですが、このあたりの経緯があまりにも出来過ぎており、筋書きがあったのではないか、さらに突っ込んで言えば秀吉と隆景とのあいだに密約があったのではないかとさえ考えてしまいます。
秀吉が天下統一に邁進するとともに、毛利家そのなかでも小早川隆景にたいする秀吉からの優遇は誰の目からもあきらかです。四国平定がすむと伊予一国をあたえ、九州平定を終えると筑前、筑後、さらに肥前の一部のあわせて37万石を加増しようとします。
三原城
三原城は港湾に接してもいれば、海水を引きこんだ水路で周囲をかこみ、平城とも海城ともいえる、しかもずいぶんと大きな巨城だったようです。
そのため終戦後市街地の整備をする際にも、三原城の遺構をすべて残すとなると市街地化の整備が進まず、かと言って歴史保存のためにいくらかは残さねばならず、結果として天守台だけをのこし、さらにその天守台も一部は駅のホームの下にのこる、という大胆な案を採用したようです。
関ヶ原の戦いで小早川隆景は西軍に属していたため、三原の地から追われそのあとに福島正則が入封します。
小早川時代に組まれた北西隅の石垣は縦横サイズが同じようなものを単純に組み上げていますが、のちの福島時代の北東隅は、縦横サイズが長、短、長、短と交差するように組んでいます。これは算木積みといわれる手法で、このように組むことによって強度が増し、また石垣により急な傾斜を持たせることができます。
冒頭の話にもどりますが、備中高松城で密約があったとして、単純にかんがえると秀吉ばかりが恩を受けたかのようですが、実際のところ毛利家としては秀吉軍だけならまだしも、信長全軍との戦はとうてい勝利し難いと考えていたはずで、むしろ毛利すなわち隆景の側から和睦を持ちかけていた気配はあります。
すなわち秀吉がその後隆景を優遇したのは恩返しのためではなく、「あの件は黙っていろ」と暗黙に伝えていたのではないでしょうか。もちろん隆景は「あの件」を暴露するつもりはなく、自分の胸だけにしまって墓場まで持ってゆくつもりだったでしょう。
ところが秀吉には、ほかの奸計もあったようです。隆景と毛利家を優遇し、あたかも同士のように扱い自分のふところに抱き込んでしまう。そしてついには自分の義理の甥である金吾(のちの小早川秀秋)を毛利家の養子として送り込み、金吾が毛利家の当主となった段階で、毛利家をすべて我が物にする – – – 秀吉ならこれくらいはやります。
しかし隆景もさる者。秀吉の魂胆を見抜いていたのか、四国平定後に伊予一国は受領したものの、九州平定後の37万石加増はひたすら辞退します、その理由はいまある自領の統治だけで手一杯でとても受けかねるというもの。また金吾の養子に関しては、毛利本家の養子になると本家そのものを奪われる危険があるため、苦渋のすえ自身の小早川家で授かる決断をします。これなら小早川家が消滅することはあっても、毛利家はなんとか生き延びられるという算段です – – – 隆景ならこれくらいはやります。
米山寺
隆景はそののち金吾(小早川秀秋)に家督をゆずり、隠居してしまいます。
とはいっても、おそらく秀吉をはじめとした他の武将やらなんやらとの付き合いが億劫になったのではないでしょうか、三原城にもどりここで城を改修し、そして地元を平安に統治することに力を注ぎます。
さて小早川隆景は「あの件」をだれにも語らず墓場まで持っていったと自分で書いたのですから、その墓を見にいってみます。御墓は三原城から10kmほど西の米山寺(べいさんじ)にあります。
JR三原駅から本郷駅まで電車で移動。
【アクセス】三原城:JR三原駅のつづき / 米山寺:JR本郷駅から行きは登りで徒歩50分・帰りは下りで徒歩40分
【満足度】★★★★☆