山中城は城跡ではなく公園として訪ねるべきか

【静岡県・三島市 2024.1.16】
三島市の中心街から北東へ、ちょうど箱根に向かって国道1号線を登ってゆくと山中城跡があります。
北条氏の始祖・早雲が韮山城を拠点に関東全域へと進出してゆく過程で、小田原城を落としますが、その小田原城を居城とするのは早雲の子である北条氏2代目氏綱の時代からとされています。
北条氏は小田原城を改修し天下に聞こえた総構えの巨城へと変貌させる一方、その周囲には支城をつくり防御を鉄壁なものにしてゆきます。
山中城は3代目氏康により造られた、小田原城から見て西の防御の要となる城で、東海道を箱根に向かって上がってきた敵軍を、まさに待ってましたとばかりに迎え撃つ絶好の地に造られました。
(後北条氏が北条を名乗るのは2代目氏綱が壮年になってからで、元の性は伊勢。早雲については終生、伊勢宗瑞を名乗っていました)

山中城へ

国道1号線を走るバスの車窓から富士山を望む
バスは三島スカイウォークの前を通ってゆく

山中城跡

バス停横にあった案内板より一部抜粋
三の丸堀の脇を進みます
田尻の池
箱井戸 / 田尻の池とも生活用水として利用
二の丸・西の丸へと上がる道 / 整った土塁がつづく

西の丸、畝堀・障子堀

なんだか整いすぎているような – –
西の丸 / 曲輪というより公園みたい
畝堀 / 西の丸から西櫓台方向を見る
畝堀と障子堀 / 整いすぎていませんか?
障子堀 / 撮影所のセットを見ているような

空堀の底に穴をほり直交するように畝をのこして敵の進行をより困難にしたのが畝堀です。

さらに障子の桟のように畝をつくり、敵が堀の底を進むには難く、畝の上を歩けば味方にとっては討ち取りやすく、しかも水溜めにもつかっていたという優れものが障子堀です。

これほど畝堀、障子堀がたくさん残っているのは、ここ山中城だけです。

山中城から富士山を見る

障子堀越しに富士山を望む

山中城を訪れるのには、わざわざ1月を選んで来ました。
理由の一つは、富士山がもっともきれいに見える。
もう一つの理由は、PCで検索した画像で見るかぎり山中城跡は手入れが行き届きすぎている、たとえば戦国時代に土塁の上に植木をうえ、さらにそれらをきれいに剪定するなどあるはずがありません。そこで植木が枯れる1月頃であれば、少しは当時の姿をイメージできるのではないかと考えました。

北の丸、大空堀、天守台

北の丸 / 周囲を土塁が囲んでいる
北の丸と本丸をへだてる大空堀
空堀にはこのような橋が架かっていた(橋は再現)

整備するにしても、これぐらいのレベルにとどめてくれたら、往時をイメージしやすいのですが。

天守台、本丸、二の丸

天守台 / 中心部を意図して盛り上げている
天守台から本丸を望む
本丸脇の畝堀 / 保護のため表面になにか吹き付けている?
二の丸から西の丸を望む / これではほぼ公園

山中城は秀吉による北条討伐の際に、攻め寄せる6万とも7万といわれる敵軍に対してわずか半日で落城したそうです。これだけ鉄壁の防御をそなえた城がなぜそれほど簡単に落ちたのか。
そのとき城をまもっていた兵数はわずか3千。これだけの巨城であれば、3千の兵数では四方に目が届くはずもなく、周囲をかこまれ徐々に包囲網を縮められたらなすすべもなかったでしょう。

御馬場曲輪

御馬場曲輪の堀

道路をへだてた向かいの曲輪群にも足を伸ばしましたが、どうやらここは史跡として残すよりも公園として集客する方に力を入れているようです。

見終わっての感想ですが、山中城は割り切って公園に遊びに行くつもりで訪れるほうが賢明です。
富士山をのぞむ絶好の場所には、いかにもらしく桜が植えられていました。いっそ4月初旬に桜と富士山と、ついでに城跡見物をするぐらいの目的で訪れるのがベストではないでしょうか – – – おそらくものすごい人出でしょう。

三嶋大社

三嶋大社 / 左は厳島神社、右は神池

三島市街の中心にある三嶋大社を訪ねます。
三嶋とは伊豆諸島のことをさし、祭神である三嶋大神は伊豆諸島を司る神とされています。
平安時代初期に伊豆諸島で火山の噴火が頻発し、その恐怖から三嶋大神は畏怖され、神階(神の位)がこの時期に急速に引きあげられていたことが記録されているそうです。
いかにも「神頼み」の有様がリアルに伝わります。

なおこの「三嶋」が三島市の名の由来だそうです。

正面が神門
神門
舞殿(手前)から本殿
本殿

【アクセス】山中城:JR三島駅~(東海バス)~山中城跡バス停 / 三嶋大社:JR三島駅から徒歩10分
【満足度】★★★★☆(富士山の素晴らしい眺望により加点)