夏目漱石の俳句「日は永し三十三間堂長し」は駄作か
【京都市・2024.2.9】
京都東山にある三十三間堂は、中央のひときわ大きな中尊と、左右に正確に縦10列、横50列の各500、合計1001体の、十一面千手千眼観音像を本尊としています。
それだけの数の仏像を祀るとなるとスペースも広大なものになり、とくに中尊を中心に101ならぶ横列は長大なものになります。三十三間堂は正式には蓮華王院といいますが、とにかく横に長く柱と柱の間が33あることから通称としてそう呼ばれているそうです。(横の全長は120m)
この三十三間堂が長いということを読みこんだ俳句があります。
「日は永し三十三間堂長し」、意外かもしれませんが、夏目漱石は生涯に小説だけでなく二千句をこえる俳句も残しています。
俳句は五七五ですから、日は永し / 三十三間 / 堂長し、と詠むべきで字余り字足らずではないのでしょう。それにしても文豪といわれたほどの人物が詠んだ句としては、作中の猫に詠ませたのかというほどに稚拙な作ではないですか。
ところが音として聞くのではなく、文字として読んだときに、「日永」は初春から春への季語であり、また「日は永し」の永いは、永久の平和、永遠の愛などのように「ずっとながく続く」という希望的な文字でもあります。
この俳句の出典を調べてみました。これは公に発表されたものではなく、漱石の没後に残されていた手帳(ノート?)に書かれていたもので、前後の俳句をふくめて「正岡子規へ送りたる句稿(俳句の原稿)」と記されていたようです。
日は永し、三十三間堂長し、正岡子規へ送る、この3つのワードを見ているうちに、この句を猫の余芸くらいに揶揄していたことに愕然としてきました。この句は漱石の哀切な祈りなのかもしれません。
さっそく三十三間堂を訪ねてみることにしました。
蓮華王院
夏目漱石と正岡子規は大学時代(東京帝大)の同窓生で無二の親友でした。
まじめな漱石が大学を卒業して教師になったのに対して、行動派の子規は大学中退後新聞記者になり満洲へ渡りますが、途中肺結核のため喀血し帰国します。
子規がそのまま神戸の病院で静養していた時に、漱石は奇遇にも子規の故郷である四国・松山に教師として赴任していました。そこで松山に戻ってこないかと連絡したところ、子規はふたつ返事で応じ、実家ではなく漱石の下宿先に転がりこみます。それほど仲が良かったのでしょう。
その居候ののち松山から東京へ向かう途上で子規は奈良を旅し(これが子規にとっては人生最後の旅になりますが、このときの旅費も漱石が用立てていたようです)、自身の代表作ともいえる俳句を新聞に発表しています。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
この句、出来栄えだけでいえば絶賛するほどのものではないかもしれませんが、俳句を写実的であり写生的なものに変えたという点では画期的だったのでしょう。
ところがここでひとつ不可解な事実があります。
この句が発表される二か月ほど前に、漱石は同じ新聞紙上に、かつて訪れた鎌倉で詠んだ句を発表しています。
「鐘突けば銀杏散るなり建長寺」
あまりにも似ています。それでは子規は漱石の句を盗作したのでしょうか。
三十三間堂(蓮華王院の本堂)
三十三間堂長し、その長さをなんとか写真で表現できないか、いろいろ試してみました。
写真で三十三間堂の長さを伝えることはどうにもできませんでしたが、堂内に入れば、その「長さ」の真実が体感できます。
(堂内撮影禁止のため画像はありません)
横120mにわたってじつに1001体の菩薩像がならびます。千手千眼観音はその千の手で生きとし生けるものを漏らさず救う、慈悲を表現する菩薩です。
千の手には千の眼があるとされています。
その菩薩が1001体、無数の目に見守られながら、無数の手に慈悲を感じながら堂内を端から端まで歩いたならば、少なからず肩の力が抜けてゆくはずです。
正岡子規の病状は奈良の旅から東京にたどり着いて後いよいよ悪化します。
結核が脊椎に浸透して脊椎カリエスを併発し、ついには背中や尻に穴が開いてそこから膿がにじみ出るほどになり痛みに悶絶する日々をおくります。しかし子規の俳句に対する創作意欲は衰えることなく、血を吐いた日には、その吐血を題にして20、30の俳句をつくったといいます。立派というよりも壮絶なまでに生きること、表現することにこだわり続けたのでしょう。
千手千眼観音の具体的なご利益としては、病気平癒があります。
漱石はこの長い三十三間堂のなか、1001体の菩薩に見守られ歩きながら、畏友の命の火がいつまでも燃え尽きることなく、永く生き続けてくれることを祈ったのではないでしょうか。
盗作とは、盗まれた本人が被害意識をもったときにはじめて盗作といわれるようになります。
漱石にとっては、自分の句をもとにして子規が日本史に残る俳句を残してくれたことは喜びでしかなかったはずです。
「正岡子規へ送りたる句稿」、それは出歩くこともできなくなった子規の目となり耳となって、自分の俳句からあらたな子規の俳句を作ってもらいたいという友としての思いの表れだったのかもしれません。
見上げると、梅のつぼみが膨らみ、いくつか花開き始めていました。
「日は永し」の季節です。
(追記)
子規が漱石の俳句をもとにして「柿食えば – – -」の句をつくったのはほぼ間違いのない事実です。
しかし、漱石の「日は永し – – – 」の句についての解釈は、あくまで個人的な想像によるものです。俳句の理解が正しいか否かよりも、このように想像を膨らませながら見て歩けば、旅はいっそう興味深くなるということがお伝えできれば本望です。
【アクセス】京阪七条駅から徒歩5分
【料金など】三十三間堂の拝観料:600円
【満足度】★★★★★