豊臣秀次の城下町を基礎とする近江八幡を歩く

【滋賀県・近江八幡市 2022.2.26】
近江八幡は豊臣秀吉の甥にあたる秀次が居城を構えることで城下町として発展してゆきますが、入城した当時の秀次は若干18歳。すべては近江を軍事・経済両面の要衝とすべく着々と手をうつ秀吉が、その中心に飾り物として据えたにすぎません。
秀次はその後すぐに尾張清須へ移封となり、さらに秀吉の勘気にふれ追放、切腹。そして近江八幡城もわずか10年で廃城となります。
しかし街はいわゆる近江商人の活躍の場となり、その後も商業都市として発展してゆきます。

安土から近江八幡へ

近江八幡市街へむかって歩く
ふり返ると安土山、繖山

じっさいにはここからしばらく南へ歩いてJR近江八幡駅、その手前で西へ進路をかえまたしばらく歩くのですが、ざざっと省略します。
近江八幡市街の古い町並みに到着です。

近江八幡の古い町並み

後方に見えるのが、このあと登る八幡山
八幡堀

ここが近江八幡のイメージとしてパンフレットなどに頻繁につかわれる八幡堀です。
昔のままなのか、昔のまま風なのか – – –
よけいな詮索はやめて観光に徹します。

近江商人について(伊藤忠商事HPより)
https://www.itochu.co.jp/ja/about/history/oumi.html#:~:text=

日牟禮八幡宮

楼門

日牟禮(ひむれ)八幡宮に到着しました。

日牟禮八幡宮はさかのぼれば持統天皇だとか藤原不比等だとかも参拝したという、たいへん由緒ある社で、その後は近江商人の信仰をあつめ今に至っています。

拝殿
拝殿から本殿をみる
神馬(しんめ)

神が乗るものとされた神馬(しんめ)は神社神宮に祀られる定番ですが、茶色の像はめずらしいのではないでしょうか。

生きた神馬のいる神社
https://uma-the-world.com/sacred-horse/

八幡山にのぼる

八幡宮の端に、八幡山へのぼる登山口がありました。
それほどの標高ではないので登ってみます。

こんな道を登ってゆきます。
画像で見るよりずっと楽で、散歩がてらに登れます。(じっさいに小型犬と一緒に登っている人がいました)

八幡山城

八幡山城は石垣が残るのみ
瑞龍寺

本丸跡には秀次の菩提寺である村雲御所瑞龍寺が京都から移築されています。

八幡山より安土方向をのぞむ
八幡山より琵琶湖をのぞむ

八幡山城址は物足りませんが、山上からの眺め、とくに琵琶湖の夕陽は格別でした。

豊臣秀次像

豊臣秀次像

秀次は秀吉の甥にあたります。(秀吉の姉の子)
秀吉には血縁者が少なかったため、この秀次が人質として他家へ養子に出されます。おじさんが秀吉であったばかりに、良い目ではなく、悲しい目を見ることになったわけです。
それでも秀吉に実子がなかったため、一時は秀吉のあとを継いで天下人かと期待される時期もあったのですが、秀吉にひょっこり息子が生まれ(のちの秀頼)、そこから身勝手な秀吉にうとまれ始め、ついには追放、切腹と過酷な運命をたどってゆきます。
近年では秀頼は秀吉の実子ではなかった、それどころか秀吉は淀殿の浮気を黙認して子を授かるように仕向けたとさえ考えられています。
もしこれが事実なら、秀吉は血のつながりのない秀頼を溺愛し、その反動から血のつながる秀次を死に追いやったことになります。

あまりにも悲しい人生です。

豊臣秀次は本当に「殺生関白」だったのか
https://mag.japaaan.com/archives/179619

八幡堀の夕陽

八幡堀の夕陽

八幡堀まで戻ってきたところ、夕陽の映えるちょうど良いタイミングでした。
最後に記念の1枚を撮影して、帰途につきます。

【アクセス】安土から歩いてきました。帰りはJR近江八幡駅より
【入場料】必要なところへは入っていないので無料
【満足度】★★★★☆