家康の生誕地・岡崎をたずねる

【愛知県・岡崎市 2024.3.4】
「青春18きっぷ」が使える時期になったので、さっそく「普通列車でぎりぎり日帰り旅行できる土地」を精力的に訪ねてみます。
今日は、昨年の大河ドラマ「どうする家康」で脚光をあびた、その生誕地である岡崎を訪ねます。ちなみに大阪市内から岡崎まで普通列車(快速、新快速はつかえる)で片道3時間半ですが、料金は往復で8000円のところが2510円ですませられます。

大樹寺

大樹寺山門
境内から見ると、山門、総門を通して岡崎城がみえる

大樹寺は家康の先祖である松平家の菩提寺です。
家康は遺命により位牌はこの大樹寺に祀るよう言い残したそうで、3代将軍家光により大造営がおこなわれ、そのさい境内から山門を通して、その先の総門の真ん中に岡崎城がみえる粋な計らいをしたようです。

本堂 / 梅
瓦には徳川家の家紋である、三つ葉葵
シルエットが美しい多宝塔

伊賀八幡宮

石鳥居から神橋、随神門

「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)は家康がもちいた旗印ですが、「けがれた現世を厭い、平和な極楽浄土を心から願い求める」といった意味があります。
その願いをこめて家康の先祖がこの伊賀八幡宮を建立したとのこと。

ところで極楽浄土は仏の世界のもので、なぜそれが神をまつる神社に、というのは今の世ゆえの矛盾で、松平、徳川のころは神仏習合の時代ゆえ仏と神は一体化していました。

髄神門
拝殿と本殿、手前はさざれ石
随神門の内に祀られた東照大権現

伊賀八幡宮の正式名称は、「東照大権現伊賀八幡宮」となっています。
そもそもは開運、勝運の八幡神を祀っていたところに、東照大権現すなわち神格化した家康をともに祀るようになったということで、神と仏を一緒にしたり、あらたに神様をつくって祭壇に追加したり、日本人の信仰にたいする寛容さには、ときに苦笑させられます。

松應寺

廟所門から鳥居、廟

家康が父・松平広忠の菩提を弔うために建てたのがこの松應寺ですが、ここにも不思議があります。
本堂のうらに廟所がありますが、門があり、その奥に鳥居があり、そのさきに廟があります。
鳥居があるということは、そこから先は神域ということで、神を祀っていることになります。
家康は東照大権現として神となりましたが、いつから父親も神になったのでしょうか。
松平広忠に神号は与えられていないので、誰かが神様の父なら神様でよかろうと判断したのか? ここまでくると寛容というより、いい加減。

岡崎城

家康は岡崎城で生まれましたが、それほど長い期間ここで暮らしていたのではありません。
以下、年表形式で書き出してみます。
天文11年(1542)松平広忠の嫡男として岡崎城に生まれる。幼名は竹千代。
天文16年(1547)松平広忠は今川義元の勢力に屈し、竹千代は今川氏の駿河へ人質として送られる、ことになるが、どのような事情があったのか(諸説あり)、尾張の織田信秀(信長の父)に身柄を奪われ尾張で暮らすことになる。
天文18年(1549)今川義元は人質としていた織田信広(信秀の嫡男、信長の異母兄)と、尾張にとらわれた竹千代を交換することで、その身柄を駿河に引き取る。なおこのころ岡崎城は今川家の家臣が城代として入っており、すなわち今川家の城ということになる。
久治3年(1557)今川義元の妹を妻とした、重臣の〇某(諸説あり)の娘(のちの築山殿)をめとり今川家の一族にくわわる。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いでは今川軍の先方として出陣。ところがその先方には目もくれず信長は本陣を急襲して義元本人を討ち取ったため、今川軍は総崩れとなり、家康も九死に一生を得るかたちで逃げ延びる。
しかし転んでもただでは起きないのが偉人の偉人たる所以で、その大混乱のすきに岡崎城をまんまと取り返し、かわりに今川一族の名も返上する。
ここから家康ははれて岡崎城の城主となります。

三つ葉葵にかざられた陸橋から大手門へ
城内二の丸にのこる能楽堂
家康産湯の井戸
岡崎城天守
春海堀越しに天守をのぞむ
巽閣
石垣、木立越しに天守をのぞむ
もとは水堀だった?
龍城堀と神橋

岡崎城の天守は、鉄筋コンクリート造りの復興天守ゆえ、天守だけアップした画像をみるとオモチャのように見えますが、じっくり周囲を歩いてみるとなかなか味のある遺構がのこっており、それらの遺構と天守をあわせて観るなら、「けっこう良い城」と思えてきます。


岡崎城を居城としてからの家康ですが、駿河・遠江を領する今川氏と甲斐の武田氏、東の二大勢力とにらみ合いが続くなか、どちらが言い出したのか尾張を掌握しつつある西の織田信長と同盟をむすびます。
さらに永禄10年(1567)、嫡男のちの信康と、信長の娘・徳姫とをおたがい9歳同士で結婚させ、同盟関係を強化します。
ところがこの二人の結婚がのちのち災いします。
元亀元年(1570)遠江から今川氏を駆逐した家康は、居城を東へ移し浜松城を築きます。
では岡崎城はというと、嫡男の信康と徳姫夫婦の居城として譲るのですが、ここで不可解なのは正室の築山殿も浜松城へは移らず岡崎城に残ります。通説では信康を後見するためとされていますが、たとえ息子とはいえ城主(信康)を女が後見するというのは通常考えられません。ここは家康か築山殿か、あるいは両人ともども浜松で一緒に暮らすことを拒んだとみるべきでしょう。
天正6年(1578)一説では、徳姫が夫・信康と姑・築山殿のふたりが共謀して甲斐の武田氏(このときはすでに信玄亡きあとで勝頼が主君)に内通していると父・信長に密告したとされています。これに憤怒した信長は、家康にたいして信康の切腹と築山殿の追放を命じます。この命にたいして家康は苦渋の決断をくだし信康を切腹させ、築山殿を殺害することで、信長との同盟関係が破綻することを回避したとされています。

おそらくこれは違います。
まず信長ですが、短気ではあっても短慮ではなく、もしこういう事態がおきたら、逆に有効利用することを考えたはずです。たとえば、家康にたいして自分で考えて対処しろとつたえ、どのように決断するかでその忠誠心をはかる絶好の機会とする。
一方の家康ですが、後世に「たぬきおやじ」とあだ名されたように、もしかすると信長より役者が一枚上だったかもしれません。
まず築山殿については、結婚当初から自分が名門今川家の出であることを鼻にかけ、家康や周囲のものを三河の田舎者と見下していたようで、浜松城でいっしょに暮さなかったことでもわかるように、すでに夫婦としての関係は冷え切っていました。
信康については、武勇はおおいに秀でていたようです。しかし性格が粗暴で、ただ気に入らないという理由だけで相手を斬ってしまう狂暴さも持ち、家康としても手を焼くことがあったようです。そして看過できないことには、岡崎城内の家臣たちとともに「岡崎派」を構成し、家康にしたがう「浜松派」を駆逐し取って代わろうとする動きがあったとも言われています。
さて家康ですが、謀反を起こしたわけでもないのに、内通しているという、それも確証のない情報だけで息子と正室を処断したとあっては、評判を落とすことは必定、悪くすると三河者の結束にヒビがはいるかもしれません。
そこに、くだんの件について信長から通達が。内容は家康本人宛ですからどう書いてあったか家康本人しか知りえません。「そうか、信長公がこれほどに厳しい命を下されるとは – – - ここは苦渋の決断じゃ – – – 」
家康はうそ涙を浮かべながら – – –

※ここに書いたことはすべて私個人の推理と想像によるもので、真相がどうであるのかはわかりません。
ただ、「どうする家康」では築山殿を有村架純さんが瀬名という女になって演じており、まったく違うむしろ悲劇のヒロインのような描き方ですが、それはあくまでお茶の間でだれもが楽しめるテレビドラマである以上、後味の悪いものは避けるため、と考えるべきかと思います。

六所神社

階段をのぼって楼門へ
楼門より拝殿をみる
拝殿

六所神社は安産の神様として崇敬されています。
社のHPによると、松平氏が三河に入国以来その崇敬は厚く、竹千代君(家康公)生誕のおりには産土神として礼拝いただいたとのこと。

産土神(うぶすながみ)とは、生まれてきたその人とその土地を終生守護してくれる神様。

楼門から拝殿をみる
本殿

【アクセス】愛知環状鉄道・大門駅~大樹寺~伊賀八幡宮~松應寺~岡崎城~六所神社~JR岡崎駅 / 25000歩、5h30m
【入場料など】大樹寺:本堂と宝物殿拝観料400円、岡崎城:天守入場料300円
【満足度】★★★★☆