大坂城の記憶から淡路島にのこる洲本城を訪ねる

【兵庫県・洲本市 2024.5.9】
いまの洲本市の中心地は地理的に淡路島の中心にあるだけでなく、戦国時代のころから淡路一国の政治、経済の中心地として栄えていました。
この地に最初に城を築いたのは三好氏の家臣であり淡路水軍をひきいた安宅氏といわれています。
世が戦国時代に突入すると、中国地方の大勢力である毛利氏と東から勢力を拡大する織田信長との間に挟まれ、淡路のなかでも両勢力のどちらにつくか意見が割れますが、安宅信康は織田氏へ、それに対して菅平右衛門は毛利氏につきます。
淡路での攻防はまず先手を取ったのは毛利氏。淡路島の北端にある信康のまもる岩屋城が落とされると平右衛門は岩屋城主にとって代わります。しかしほどなく信長の命をうけた秀吉により淡路が平定されると、平右衛門は遁走していずこかに身を潜めます。
ところが本能寺の変により信長が謀殺されると、明智光秀に呼応した長曾我部氏の後押しもあって平右衛門は表舞台に復活し、その時は仙石秀久の下にあった洲本城を電光石火というよりもドサクサ紛れに奪い取ります。
ところがところが、それもつかの間のことでいわゆる中国大返しで備前から畿内へもどる秀吉の遠隔操作による派兵であっという間に追い出され四国の長曾我部氏のもとへ逃れたということです。
菅平右衛門は戦下手だったのでしょうか、そこのところはよくわかりませんが、この武将の最期には胸を打たれるものがあります。
平右衛門は紆余曲折をへて秀吉の家臣となり、水軍をひきいて朝鮮の役にも加わったようです。そして関ヶ原の戦いでは西軍についていたため敗軍となり領地を没収され蟄居します。ここでまた表舞台から消えるのですが、やがて大坂冬の陣で豊臣方が敗れると、徳川方との講和条約として大阪城の外堀を埋めることになります。そのさい平右衛門は堀をうめる工事の一部を担当させられます。
ところが講和条約では外堀だけを埋めることとなっていたにもかかわらず、工事が進むにつれて当たり前のように内堀までも埋めるよう指示が下されます。
平右衛門はこの講和条件を無視する行為を武士の道に反すると反発し、一歩もひかぬ抵抗をしめしたのでしょうか、ついに切腹を命じられます。
この話が記憶に残っていて、菅平右衛門から洲本城に関心を持つにいたりました。

平城

街の南に位置する洲本城 / 三熊山上に天守が見える
山城よりも先につくられた平城の石垣と水堀

登り石垣を見る

山上へは整備された道がつづく
途中にも石垣はたくさん残っています
登り石垣が見えました

山上の山城と麓の平城をつなぐように石垣を築き山腹からの侵入をふせいでいます。これを「登り石垣」と呼びます。
そもそもは豊臣軍が朝鮮侵攻にさいして拠点とすべく築いた城(倭城)に取り入れられた築城法で、それゆえ歴史的にはそれ以後に築城、あるいは改修された城にしか見られない独特の石垣です。

立入禁止にはなっていないので道らしき道はありませんが、近くまで行ってみます。

下から見る
上から見る

山城へ

登り石垣の先には、大規模な石垣が見られます

この石垣群は秀吉治下の時代に脇坂氏、さらに江戸時代になって蜂須賀氏により大改修され築かれたものと考えられています。
それゆえ菅平右衛門が攻め取ったり取られたりした城とはずいぶん違っているはずです。

城跡にあった案内板より抜粋

この案内板でいうと、上すなわち北からの道を登ってきたことになりますが、いったん下すなわち南の赤文字で「現在地」とあるところまで移動しました。
ここから石垣を見ながら本丸へむかい、東の丸を通って武者溜りへと抜けてみます。

石垣を楽しむ

ここからは見事な石垣の造作を楽しめます
本丸への大石段
本丸虎口

本丸

本丸からの眺め・海側
本丸からの眺め・内陸側
天守

本丸の北寄りに天守があります。
コンクリート製の模擬天守であまりにもちゃちで、正面からの写真を堂々と載せると、せっかく見事な石垣の印象が台無しになるのでチラッと見える写真で代用します。

南の丸、東の丸、武者溜り

本丸から南の丸を見わたす
日月の池
このあたりが東の丸
広々とした武者溜り

街へもどる

一般道をくだって街にもどります
淡路島弁財天より三熊山を仰ぎ見る

【アクセス】洲本バスセンターから三熊山上の城跡まで徒歩30分
【満足度】★★★★☆