残念だった撫養城、さらに残念だった勝瑞城

徳島県に城と城跡を見にゆき、ぜんぶで5城を訪ねました。
もちろんすべてに大満足を期待してはいませんが、あらかじめネットで調べて訪ねるか否かを判断してのことゆえ、「まずまず」の成果は得られるものと信じています。
しかしです、その「まずまず」にもいたらなかった、残念だったものもありました。

撫養城

【徳島県・鳴門市 2024.5.9】

鳴門の渦潮 / 瀬戸大橋をわたるバスの車窓から

淡路島の洲本市にて洲本城を見学したあと、鳴門行きのバスに乗りました。

ところでこのバスですが、神戸⇔洲本は頻繁にあるものの、洲本⇔鳴門・徳島は激減します。
せめて神戸⇔洲本便の半数でも走らせてくれないかと不満に思っていたのですが、いざバスに乗ってみると乗客はわずか3人。たしかに便数を増やすわけにはいかないか – – – ゆったり瀬戸内海を眺めながらバス旅を楽しませてもらいましょう。

撫養(むや)城のある妙見山までは鳴門駅前から徒歩20分
いまは山上の曲輪に神社があるため鳥居をくぐる
およそ300段ありました
天守が見えてきた
これは模擬天守です
もともと撫養城には天守はありませんでした
天守横の神社の奥に石垣がすこし残っています
社殿の左から
社殿の裏を抜けられる
社殿の右へ
前に見える木立の中にかつて城があった
後ろ側に下りてきた / 崖が堅い守りになる

模擬天守とは、もともと天守がなかった、あるいは天守の有無がのこされた資料からはっきりわからない場合にも、とりあえず見栄えをよくするために造ったものです。
それゆえ観光目的で見に来たのであれば、天守がないよりも見た目がきれいな天守があった方が良いでしょう。
ですから一概に「残念だった撫養城」とは言えないかもしれません。
あくまで城・山城ファンからすると、よけいな天守はあるし、石垣は申し訳のように残してあるだけだし、ということになります。
【アクセス】鳴門駅から登城口まで徒歩20分
【満足度】★★☆☆☆

勝瑞城

【徳島県・板野郡藍住町 2024.5.11】

勝瑞城については、鎌倉時代から室町時代さらに戦国時代にいたるまで阿波の国の守護所であっただけでなく、この地域自体が近隣の讃岐、淡路をふくめた3国の政治、経済、文化の中心地として大いに栄えていたそうです。
ところが終焉はあっけなく訪れます。
応仁の乱のあとも阿波の守護は細川氏がつとめ実質的に一帯の実権をにぎっていましたが、三好氏がしだいに頭角をあらわしてきたころの守護・細川持隆のときに異変がおきます。
持隆には小少将(こしょうしょう)なる側室がいました。この小少将ですがたぐいまれな美女であり艶女であり、持隆は完全にその色香に溺れてしまい、政務も軍務も放り出してしまいます。そこに目をつけたのが三好実休(三好長慶の弟)、謀反によりあっさり主君を自害させます。
三好氏にとってもそこまではよかったのですが、三好実休もやはり男、小少将の色香には抗しきれなかったのかもともと抗する気がなかったのか、あっさり継室(後妻)として勝瑞城ともども乗っ取ることになります。
ここから三好氏の没落がはじまります。
小少将は実休とのあいだに嫡男(長治)を産みます。ところが実休が戦で斃れたあと本来ならば当時の習慣で武将の室は髪をおとして尼になるものですが、小少将は色欲を抑えられないのか仏門に入る気などさらさらなく、我が子がいる同じ城で家臣を誘惑しては淫靡な夜を(昼も?)送ります。
あまりの荒淫ぶりに重臣が諫めたところ、家督をついでいた息子の長治に泣きついたのか、逆に重臣が討ち取られてしまいます。この母にしてこの息子あり、長治も酒におぼれ政務も軍務も顧みず、そこへ土佐で台頭してきた長曾我部氏の侵攻にさらされ落城。ここに二百数十年つづいた勝瑞の歴史は消滅します。

城郭部分は三好氏の菩提寺・見性寺になっている
この堀は当時からあったものらしい
阿波三好一族の墓 / やたらに新しい
案内図右上の城郭から左下の居館部分へ行ってみます
なにが見られるのか期待して来ましたが、
発掘調査で数々の遺産が見つかったとはいえ、
が
一般の来城者が目にできるのは、草っ原だけ

歴史的価値が高いということなのか、勝瑞城は続日本百名城に選定されています。
日本百名城のつぎに選定されたのが続日本百名城ですから、その意味では101番から200番目までの名城ということになります。
いかに歴史的価値があっても、これのどこを見て名城として偲べばよいのでしょうか。

【アクセス】JR勝瑞駅から徒歩10分
【満足度】★★☆☆☆