かつての大坂、信長vs本願寺ゆかりの地を歩く
【大阪市内 2022.3.21】
今日はかつての大坂、現在の大阪市内で織田信長と本願寺の戦いにおける、ゆかりの地を訪ねてみたいと思います。
なお、かつて大阪は大坂と書かれていたので、文中でも使い分けています。
まずは大坂城へ
自宅から地下鉄(大阪メトロ)の駅に向かっていると、早咲きの桜が咲いていました。
大坂城公園内・大坂本願寺跡地
ここは浄土真宗本願寺派8世宗主・蓮如上人ゆかりの地です。
そもそも浄土真宗とは、親鸞を開祖とする南無阿弥陀仏を一心にとなえればだれでも極楽浄土へゆける、これを基本に据えた教えです。
その浄土真宗のなかで本願寺派とよばれる宗派は、他派にくらべてずいぶん衰退していました。
ところが蓮如上人が宗主につくと、おもに近江地方で精力的に僧坊をたて、布教につとめ、おおいに盛り上げてゆきます。
ところがいつの時代も目立つものは潰される、このときも比叡山延暦寺に襲撃され、僧坊をことごとく焼かれてしまいます。
それでも蓮如上人はくじけず近江から摂津や河内の地を転々としながらついに山科本願寺をつくりあげます。その後も休むことなく、大坂のこの地にも御坊をたて、それがのちに石山本願寺となって隆盛します。
ところで蓮如上人は有り余る精力があったのか、生涯に5人の妻を娶り、13人の男子と14人の女子をもうけたそうです。
しかも最後の子は84歳のときの子だとか、ちょっと信じがたい話ですが。
大坂城本丸跡地にあった旧陸軍施設を再利用した「ミライザ」はレストランや土産物屋のはいった複合施設です。
この建物内に大坂城紹介コーナーがあるので立ち寄ってみます。
本願寺に関する資料はこのイラスト一枚があるだけでしたが、その場にいたボランティアガイドの方から、北御堂へゆけばもっといろいろ見られると教えていただき、そちらへ向かうことにします。
北御堂は御堂筋沿いにあるので、ここから西へと向かって歩きます。
極楽橋の名は、かつてこの地にあった大坂本願寺に由来するとも言われています。
大坂城公園から西へ歩く
堺筋までくると旧小西家住宅(小西儀助商店)があります。
このあたりは道修町とよばれ江戸時代には薬種問屋が軒をつらねていました。
いまも多くの製薬会社がここに本社をかまえています。
そして旧小西家住宅の道向かいから横に入るとすぐに、神農さん、あるいは少彦名神社とよばれる社があります。
薬の街・道修町にあるのですからもちろん「病気平癒、健康成就」
ところで御祈祷は本人でなくても代理人でもOKと書いていました。たしかに重病人は来られないのでわかりますが – – –
北御堂・南御堂
北御堂まで来ました。
御堂筋の名は、いうまでもなく北御堂、南御堂がこの地にあったことに由来します。
それでは北御堂に併設されている、北御堂ミュージアムに入ってみます。
ミュージアムでは興味深い資料を見ることができます。
入館無料です。
不思議な光景かと思います。
ビルの奥に南御堂があるのではなく、このビルが南御堂の山門です。
日本初・寺院山門一体型ホテル
https://www.sankei.com/article/20191101-3PXMBU2BNRJ75F3VD3NQ7GK4M4/
北御堂と南御堂の違いについてお話しておきます。
大坂城で見た蓮如上人は8世宗主でしたが、11世宗主・顕如上人のとき織田信長とのあいだではげしい武力闘争がもち上がります。「石山本願寺の戦い」と呼ばれていますが、じつに11年にわたる戦いの末、顕如上人は紀伊へ門徒とともに退きます。
ところが長男の教如はその後も一部の門徒とともに徹底抗戦をつづけます。最終的には教如も退くのですが、顕如上人が亡くなり、教如が12世宗主になってからは、自分とともに最後まで戦った門徒にとくべつに目をかけ、それがもとで本願寺内部に亀裂が生じてしまいます。
そして分裂するのですが、もとの本願寺が西本願寺となり大阪では北御堂であり、教如上人が引き連れたのが東本願寺となり南御堂です。
東本願寺と西本願寺では仏壇・仏具もちがう
https://www.e-butsuji.com/difference-of-obutsudan/
三津寺砦・四天王寺砦
御堂筋をそのまま南へ歩き、三津寺にきました。
ここは石山本願寺の戦いの際に、本願寺側が三津寺砦を築いた跡地です。
驚くことに、ここもホテルになるようです。
こちらは、寺院一体型ホテル
https://www.yomiuri.co.jp/economy/20201207-OYT1T50175/
その後、長堀通りを東へあるいて谷町筋まで戻りました。
大阪では縦(北南)にはしる道を○○筋といい、横(東西)にはしる道を○○通りといいます。
通りと筋の呼び名の由来(関西編)
https://style.nikkei.com/article/DGXNASIH1600G_X11C13A0AA1P00/
いまは青蓮寺というお寺になっていますが、かつて本願寺に対して信長軍が四天王寺砦を築いていた場所です。
明智光秀はここに籠っていた時に本願寺勢の急襲をうけます。その報を受けた信長はすぐさま救援に駆けつけ、みずから怪我を負いながらも獅子奮迅の戦いをすることで光秀を救います。
この時点では、信長と光秀の関係はいたって良好だったのではないかというのが多くの史家の見方です。
【アクセス】大阪メトロ・森ノ宮駅から 大阪メトロ・四天王寺前夕陽ヶ丘駅まで歩く 18,000歩
【料金】すべて必要なし
【満足度】★★★☆☆