奥出雲に三沢城をたずねる
【島根県・仁多郡奥出雲町 2024.7.30】
出雲駅近くでレンタカーを借り、カーナビで「三沢城」を目的地に指定したところ距離にして40km、時間にして1時間30分と表示されました。
出雲市街は東西とくに東にながく拡がっており、南へ走るとじきに田園風景にかわります。田園風景はやがて山間部にはいり、信号も渋滞もなく50分ほどで三沢城に到着しました。山並みは低山ばかりで秘境にきたという印象はありませんが、集落がたまにあるだけでいかにも山深くに入ってきたと実感しました。ちなみに一帯ではスマホのネットは繋がらず難儀しました。
三沢城
鎌倉時代に当時の武家政権の総領である北条義時にたいして、朝廷側の後鳥羽天皇が勅命で軍を起こしたのが承久の乱です。
この承久の乱ですが、朝廷側の敗北におわり後鳥羽上皇は隠岐の島に流されます。
いっぽうの北条氏はそれまで朝廷の領地であった主に西日本一帯に息のかかった武家を配し、力を拡大してゆきます。
このときあらたに領地をあたえられ守護管理のために赴いたものを新補地頭とよび、それ以前からいた本補地頭と区別します。
信濃国の豪族である飯島為光は、承久の乱における戦功で新補地頭として奥出雲の地に赴きます。
為光としてはとんでもないところへ行かされると悲嘆したかというとさにあらず、この地は当時から砂鉄が採取されており、いわゆるタタラ製鉄法で(当時としては)良質な鉄を生産し、領地経営の基盤を築きます。
そして一帯をみわたせる鴨倉山(別名、要害山)に城を築きます。
三沢城の名は、この地がむかしから三沢と呼ばれていたこと、また為光も当時の慣習にしたがって飯島から三沢と氏をあらためていたことによります。
登城
主郭部
三沢城はのちに山内氏から尼子氏、さらに毛利氏が勃興してこの地を攻める時代まで機能していますが、典型的な中世の山城です。石垣といっても石組ていどのものが部分的に見られるだけで、技術的には目を見張るようなものはありません。
しかし鳥居丸から本丸へとつづく長大な切岸やこれでもかというほど深くえぐった堀切などを見ていると、どれほどの汗水をながしてつくったのだろうかと感動すら覚えます。
寄り道しながら下城する
【アクセス】レンタカーにて
【満足度】★★★☆☆