難攻不落の月山富田城、たしかに落とせそうにない

【島根県・安来市 2024.8.1】
月山富田城は鎌倉時代に冨田氏が築いた城でした。しかし時代は移りかわります。
宇多天皇の流れをくむ宇多源氏のなかで、近江一帯でおおいに隆盛したのが佐々木氏(佐々木源氏)ですが、やがて信綱の時代に四家に枝分かれします。そのなかで宗家である六角氏を圧倒するように栄えたのが分家の京極氏です。
京極氏の繁栄は、ひとえに佐々木道誉(京極道誉)が足利尊氏に協力して室町幕府創立におおいに貢献したことによりますが、このときの功績で京極氏は近江、若狭、摂津など京都周辺のほかに出雲の守護も務めることになります。
もちろん京極氏みずからが守護職を務めるすべての国を管理することはできないので、ここでは血縁関係にある(道誉の孫からの分家?)尼子氏を守護代としておくことにします。
その尼子氏ですが、応仁の乱のゴタゴタに乗じて勢力を拡大し、乱ののち当主となった尼子経久が京極氏から出雲における支配権をうばい実質的な守護になります。そして尼子氏は下剋上の典型のように守護大名から戦国大名として月山富田城を拠点に四方へ勢力を拡大してゆきます。
経久のあとをつぐ晴久の時代には、山陰山陽11か国のうち実に8か国をおさめる大大名にまで駆け上がりますが、ここに毛利元就が登場します。

月山富田城・下段

登城途中にあった案内板より抜粋

まず月山富田城のイラストを掲載します。
いまは建物は復元物をのぞくとなにも残っておらず、このイラストとはずいぶん違います。
ここでは城郭構造が下段、中段、そして山頂の主郭の3段にわかれていることを確認してください。

下段にあたる部分から歩きはじめます。
千畳平から城下を見る
安来市観光協会提供の案内図より抜粋

迷子にならないように、ここで縄張図も掲載します。
左上の駐車場🅿から千畳平まで上がってきました。千畳平は城下を見張ると同時に、城下から攻めてきた敵を防衛するための最初の拠点です。

このあと太鼓壇をぬけて、中段の花の壇から御殿平に向かいます。

曲輪と曲輪の間には大きな堀切(天然か?)
馬場とおもわれる細長い曲輪
山中鹿之助の像

当時は太鼓をたたいて城内の兵に伝達をおこなっており、その太鼓をすえた櫓がこの曲輪にあり太鼓壇とよばれていました。

その一角に山中鹿之助(幸盛)の像があります。

月山富田城・中段

御殿跡のある中段へとむかう/前方に山上主郭が見える

山中鹿之助は尼子氏の家臣ですが、系譜のうえでも尼子氏につながる武家に生まれたようです。
13歳のときに敵の首を獲ったとか16歳のときに近隣にその名をしられた豪傑を一騎打ちで打ち負かしたという記述もありますが、それは話半分としても武勇に秀でていたことは間違いありません。

家屋を復元した花の壇 / 後方は山上三の丸の石垣

一方の毛利元就ですが、まだ鹿之助が生まれる前のこと、大内氏にしたがって出雲を攻めます。(第一次月山富田城の戦い)
しかしこのころはまだ尼子氏に勢いがありました。ともに攻め立てていた味方の中からつぎつぎに寝返るものがあらわれ、さらに尼子氏側の果敢な抵抗にあい、ついには攻める側が陣を支えきれず逃げだすという惨敗を喫します。

御殿平(曲輪)をささえていた石垣

毛利元就は智将・勇将・猛将のいずれでもなく、「謀将」とでもいうべき人物で、奸智にたけた梟雄(きょうゆう)とでもいえばよいでしょうか。数々の計略で敵対するもの、邪魔になる相手をつぎつぎに葬りながら自己の勢力を急拡大させます。
そして晴久が急死し尼子家の内部が動揺しているときを逃さず出雲へと侵攻します。(第二次月山富田城の戦い)

御殿平の全景
周囲は土塁ではなく石組で囲まれている
虎口 / 土塁から石組に変わったのは尼子氏の後の時代

この毛利氏の攻撃にたいして、鹿之助が防衛のため奮戦した記録はいくつも残されてます。
しかし晴久が亡くなったあとの尼子氏には昔日の戦巧者のおもかげはありません。
しかも武将として円熟の域に達した元就は、月山富田城をぐるりと囲んでまもる支城を調略でもって落としながら包囲の輪を狭めてきます。

月山上の主郭

山上主郭部へは七曲りの道を登らねばなりません
七曲り道を登りながら御殿平をふり返る
山頂・三の丸の石垣

とはいえ月山富田城は難攻不落と畏怖された城です。
下段を攻め落としても次は中段があり、そこを征圧しても急峻な山上にある主郭部までは城兵の攻撃に身を的にしながら七曲りの坂を登らねばなりません。
そして奇跡的に山上にたどり着いたとしても、曲輪ははるか上にあります。
あきらかにこの城を落とすのはただ事ではないでしょう。

三ノ丸から二ノ丸方向をみる
二ノ丸にむかいながら三ノ丸をふり返る
二ノ丸と本丸を仕切る大堀切

元就は力攻めではこの城は落とせないと考えたのでしょう、周囲を厳重に囲んで城と外部との連絡を断ち兵糧攻めにもちこみます。
この兵糧攻め(尼子側からすると籠城戦)がどれくらいの期間つづいたのか正確にはわかりませんが、毛利軍は1565年春から城の攻撃を本格化させ、その年のうちに兵糧攻めに変更、翌年11月に尼子氏はついに降伏し城を明け渡します。

本丸側からふり返る
本丸
本丸からの眺望

山中鹿之助はこうして尼子氏が滅亡してからのち数年間は全国各地を牢人として歩き、やがて尼子家再興の思いを抱いて行動を開始します。
再興のためにはいかなる苦難も厭わないとの思いを込めて「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話はこのときのものです。

二ノ丸をまもる石垣
戻りは主郭曲輪の下を歩いてみます
三ノ丸をべつの角度から見る

さて不撓不屈の精神を代弁するかのような鹿之助の名言をすっかり白けさせてしまう話をします。

この名言は当時の資料にはまったく残っていません。どこで出てくるかといえば、太平洋戦争前に国語読本(当時の国語教科書)の編者を担当していた井上赳氏が書いた「三日月の影」に書かれており、なぜ有名になったかと言えば昭和初期から終戦時まで国語読本にずっと載っていたゆえです。

三ノ丸下の曲輪から城下を見わたす

そもそも「三日月の影」は歴史の研究書ではなく読み物すなわち創作です。
戦前の国語読本は全国すべて共通で、すなわち日本国民全員が読んでいた、あるいは読まされていたということです。
また終戦とともに掲載が中止になったという点も考えあわせれば、どうやら楠木正成の「七生報国」と同類のものではないかと思えてきます。
すなわち国によって、大日本帝国のためにつくられた – – –

だからと言って山中鹿之助の生きざまを揶揄するものではありません。間違いなく英雄として称えられるべき人物です。

さいごに山中鹿之助の子孫について書いておきます。大阪人としてはむしろこちらに興味津々です。
鹿之助の長男・新六は摂津の鴻池村にくらす親戚者にあずけられて育ちますが、武人の身分をすて酒造りの世界に飛びこみます。そして酒どころの伊丹で酒造家として一本立ちするだけでなく、それまで酒といえば濁り酒だったものを濁り酒から清酒への醸造に成功し、これを上方だけでなく江戸にまで出荷し富を築きます。
その新六の息子たちも有能者ぞろいで、酒造業から醸造業へ発展させるもの、あらたに海運業をはじめるもの、両替商をいとなむもの、さらに孫の代になると新田開発にも着手します。
こうして出来上がったのが、日本有数の大財閥であった鴻池財閥です。

鹿之助の子孫がさまざまな事業で成功し得たのは、ひとえに鹿之助から脈々とうけつがれた不撓不屈の精神あってのものなのかもしれません。

【アクセス】レンタカーで回る
【満足度】★★★★★