奈良はなぜ京都にくらべて観光客がこれほど少ないのか
【奈良市 2024.9.17】
平城京跡を見に行くのに合わせて、近辺の寺院をまわってみました。
訪ねたのは、法華寺と海龍王寺。
3連休明けの平日、奈良市内で人気の東大寺や法隆寺からは遠く離れている、しかも9月後半とはいえこの日の現地の最高気温は34℃。たしかに大勢の観光客がくりだす要素はありませんが、それにしてもそのあまりの少なさには愕然としました。
なにしろ法華寺での滞在時間は45分ほど、その間に境内でみかけた観光客(参拝者もふくむ)はというと、たった1人。海龍王寺にいたっては30分ほどの滞在時間中に自分以外は誰も見かけませんでした。
さらに最寄駅から寺へ、寺から寺への移動中も観光客らしき人の姿は皆無です。
これが京都であれば、清水寺周辺や嵐山など人気の場所を遠く離れても、(本音として一人静かに散策したいと願ったところで)必ず前にも後ろにも他の観光客がいます。
おなじ日本を代表する古都でありながら、この差は何なのでしょうか。
法華寺
仏教の布教に力をそそいだ聖武天皇は全国に国分寺と国分尼寺の建立を詔します。
そのなかで、全国の国分寺を管轄する総国分寺が奈良の大仏さんで有名な東大寺であり、国分尼寺を総括するのがここ法華寺でした。
すなわちこの寺はとんでもないほどに由緒ある御寺です。
また天皇の皇女や摂家の貴女が住職を務めているため、いわゆる(尼)門跡寺院でもあります。
創建当時は広大な敷地に壮大な伽藍が建ちならんでいましたが、京への遷都ののち次第に衰退、荒廃します。
なんとかその衰亡の危機を救ったのが秀吉の室である淀殿であり、淀君の支援により再建され、縮小されながらもいまに姿をとどめています。
さて法華寺の拝観料は700円。
ここでは写真撮影のできない本堂での仏像拝顔については触れていません。
それにしても、評価の基準を大阪人の好きな「元が取れたか」という点に絞ったとして、さてさて、おおいに不満が残りました。
ところで法華寺は真言律宗の下にありましたが、いまは離れて光明宗を称しています。
この件についてはあとで触れます。
京都と奈良との差について語るなら、まずは人口の差について触れておかねばなりません。
京都市の人口は143.8万人(2024)、奈良市の人口は34.7万人(同)、ところが奈良市の場合は中心街からはなれた市の北西部の富雄、登美ヶ丘、学園、あやめ池といった地域に1/3以上の人が住んでいます。これらの住民の多くは大阪に職場または学校があるなどの理由で、大阪への交通至便なこの地を離れないようです。
またこのあたりには観光目的で訪れるような寺社はありません。
すなわち奈良市民のうち観光客が訪れる地域内に住む人はせいぜい15万から多くて20万人弱に過ぎず、そのなかで観光業に直接間接にかかわる人がどれだけいるか考えるなら、これは観光客が少ないと生活に差し障りが生じる人が京都にくらべて格段に少ないということになります。
これはなにを意味するかというと、 市民そして自治体の観光業にたいして取り組む熱量がまるで違ってくるということです。
法華寺への道は、風情もなければ、かと言って立ち寄ってみようかという店があるでもなし、これでは気の向くままに散策する気にもならないし、散策しなければ新たな発見や感動もないでしょう。
すなわち観光客がふえる要因がありません。
海龍王寺
法華寺からこのあたり一帯はかつて藤原不比等の大邸宅があったところです。
天皇家と藤原家の血を合わせて継ぐ聖武天皇の、その妃となった、藤原不比等の娘である光明子(光明皇后)は邸宅の跡に法華寺を建立しますが、この海龍王寺はその邸宅内にあった寺がそのまま残されたものとつたわっています。
それゆえ海龍王寺もたいへん由緒ある御寺ではあるのですが、歴史の上では法華寺と同じように次第に衰退してゆきます。
鎌倉時代に真言律宗の宗祖である叡尊により復興され、朝廷や幕府の庇護のもとそれなりの存在感を示しながら存続しつづけますが、明治維新下での神仏分離令により幕府(あるいは政府)からの援助がなくなるとにわかに窮してきます。
真言律宗にかぎらず奈良仏教は学問としての仏教であって、人々の死後の世話をするものではありません。すなわち檀家をもたず、それゆえ墓地もなく、法事もおこなえないので寺としての収入源がありません。
金のことを婉曲に先立つものといいますが、その先立つものがないのですから伽藍の保護保存さえままならないといった状況でしょう。
(さきに書いた法華寺が真言律宗をはなれ独自に光明宗を興したのは、ゲスの勘繰りからすると法事にかかわれるようにするためではないかと思います。)
さらにもうひとつ奈良の歴史にとって不運(不利というべきか?)なことは、奈良が都として栄えたのは平安京へ遷都される8世紀末までのことで、その後京都が平安時代から江戸時代まで天皇がおられるという意味で国の中心であったことに比べるとあまりに差があります。
たとえば京都市北区にある大徳寺の歴史を例にあげると、後醍醐天皇の庇護を受けたものの足利幕府が興ると政敵であった足利尊氏は故意に大徳寺を粗略に扱ったとか、一休さんでおなじみの一休宗純らを輩出したとか、応仁の乱で焼けたあとにその一休が住持となり復興のために尽力したとか、信長の死後に秀吉がここで大々的に葬儀を行ったとか、さらに塔頭・総見院を建立してそれが織田家の菩提寺になるとか、千利休が山門・金毛閣を寄進したところその上層に利休の像が安置され秀吉の怒りを買ってそれが利休切腹の一因になったとか、とにかく歴史がてんこ盛りです。
それに引き換え、奈良市・西大寺の歴史を例にあげると(西大寺は東大寺と対につくられたかつての巨刹であり、いまは当地の地名にもなっている由緒ある寺)、以前にこの寺のことをブログで取り上げましたが、称徳天皇(女帝)の勅命で建立された、ぐらいしか書くことがない。そこで道鏡を参加させて二人の間の下ネタを取り上げるくらいしか興味のつなぎようがないといった有様でした。
とにもかくにも京都と奈良ではその歴史における知名度があまりに違います。
京都の観光宣伝に関して「そうだ、京都、行こう」というフレーズがありましたが、これは京都だからスッと意識に届くのであって、認知度のそこまで高くない奈良であったなら同じ効果はなかったでしょう。
平城京跡
平城宮跡歴史公園は国営、ですから国の出費で造営されつつあります。
国民に日本の歴史を学んでもらおうという意図があるからか、資料館などの建物も駐車場もすべて無料です。無料の効果もあるのか、ちらほらと観光客の姿は見られました。
(この広大な敷地に対して何人の観光客が居るかと人口密度的なものを算出したならきわめて少ないとは思います)
おそらくこの平城京復元プロジェクトは日本の歴史を後世に伝えるために国が中心になって進めているのであって、奈良市や奈良市民が観光客を呼び込むための起爆剤にしたいと期待しているとは考えませんが、敢えて言っておきますと、これが完成したところでわざわざ見に来ようとする人がどれだけいるでしょうか。
大仏であるとか聖徳太子であるとか目玉になるものが何もないのですから。
「そうだ、京都、行こう」のコマーシャルが盛んに使われていたころ、奈良は奈良で「わたしは、奈良派」のフレーズで近畿日本鉄道(近鉄)が観光客を奈良へ誘う広告を打っていました。
京都を意識しながらも奈良には奈良の魅力があると割り切っているかのような姿勢に好感をもちました。
訪れる観光客数で京都に追いつくなんてことは未来永劫ないでしょう、そのぶんオーバーツーリズムによる弊害に悩まされることもないでしょう。実際のところ個人的にお気に入りの明日香村が観光客であふれるなんてことは想像したくもありません。
ちなみに「わたしも、奈良派」です。
【アクセス】近鉄新大宮駅~法華寺~海龍王寺~平城京跡~近鉄西大寺駅 12000歩
【拝観料】法華寺:700円、海龍王寺:500円
【満足度】★★★☆☆