細川ガラシャが幽閉されていた三土野をたずねる
【京都府・宮津市 2024.10.20】
まず細川家の説明から始めます。
細川氏は南北朝時代に足利尊氏のもとで要職について勃興しますが、その後も脈々と家系を存続しつづけます。
明治維新後も細川氏の系譜から侯爵、子爵、男爵と計8家もの華族がうまれ、平成の時代に誕生した細川姓の総理大臣もこの家系の人です。
応仁の乱ののち勢力をうしなった細川氏本流にたいして、室町時代も末期になって分流ながら足利義昭をたてて幕府再興をはかったのが細川藤孝(のちの幽斎)。
それを援けたのが明智光秀。光秀は(一説では)美濃の国衆であり、一時期美濃を掌握した斎藤道三と縁故関係にあり、さらに道三の愛娘・濃姫が織田信長に嫁いでいた縁から信長に接近。ここで義昭をともなって上洛し天皇の詔(みことのり)をえてあらたな将軍に据えることで、将軍家にたいしては大きな貸しを、朝廷に対しては太いパイプをつくる利を説きます。
この計略はあらたな将軍となった義昭が信長の思惑どおり操り人形となることを嫌い独立独歩の態度を示したことで破綻、それどころか信長の逆鱗に触れ義昭は追放、信長は独力で天下統一にむけて驀進してゆきます。
ここには明らかに歪みがあります。
義昭はこのとき将軍のままなので信長は幕府の存在(意向)を完全に無視、また相手方から頼まれて義昭を新将軍たらしめる詔をくだした朝廷も完全に無視。
一説では本能寺の変の黒幕は、幕府とも朝廷ともいわれています。
一方明智光秀と細川藤孝はともに信長に仕えながら戦功をあげ、城もちの家臣として取り立てられます。さらに家同士の関係強化のため信長の勧めもあって、光秀の三女・玉(のちに洗礼を受けてガラシャ)が藤孝の嫡男(跡取り息子)忠興に嫁ぎます。
それから4年後、本能寺の変。
もともと盟友でもあり親友でもありさらに互いの娘と息子が婚姻しているゆえ光秀としては細川家が味方してくれるのは前提としていた感すらあるのですが、想定外なことに藤孝は拒否の返事こそ寄こさないものの剃髪して引退し、家督を忠興にゆずります。明智光秀とは関わりはないし今後も関わる気はないとの宣言といえます。
南北朝時代からえんえんと「家」をまもってきた細川家のこと、状況を細心に判断し光秀に与しても利もなければ与するだけの理もないと判断したのでしょう。
忠興はどうかというと、明智光秀が主君・織田信長を討ったことはまぎれもなく謀反であり、「家」の存続を考えるなら光秀の実娘の玉の存在は厄介そのもので、通常ならば離縁したはずです。ところが夫の忠興には愛する妻を離縁することはできませんでした。
宮津
忠興は玉を心底愛していました。
しかしその愛は偏愛であり、しだいに狂愛のおもむきを帯びてきます。
宮津の城で暮らしていたときには、玉を誰にも見らないよう屋敷の一番奥の棟に監禁するように住まわせていました。
もちろんいっさいの外出を禁じていたといいます。
天橋立の先、入り江部分に宮津の街がひろがっています。そこに宮津城はありましたが、おそらく玉(ガラシャ)は最後まで天橋立を見ることはなかったのではないでしょうか。
忠興の狂愛についてはいくつも逸話が残っています。有名なところでは屋敷に出入りする庭師が偶然にも室内にいる玉の姿をのぞき見てしまい、そのことに激怒した忠興が即座に庭へ駆け下り刀で首をすっ飛ばしたとか。
この逸話はよく耳目にふれますが、はっきり否定しているものはないのでけっこう真実なのかもしれません。
三土野へ
本能寺の変のあと、忠興は丹後半島の山中深くにある三土野の地に玉の身柄を移します。いうまでもなく大名の正室ですから身辺の世話をする侍女数名、さらに護衛のための武人と男手十数名程度がしたがいます。
宮津城で暮らしたところで人に見られないよう屋敷奥に軟禁しているのですからわざわざ山奥に移さなくても良かろうにと突っ込みを入れたくもなりますが、資料によってはいったん離縁したと書いているものもあるので、もしかすると世間には離縁したこととし身柄を隠したのかもしれません。
ここまででもずいぶん山奥へと入ってきましたが、三土野はさらに山奥の奥です。
それどころかさらに奥へと進んだところ道が荒れはてて通行止めになっており、Uターンしていったん山をくだり違う道からあらためてアプローチすることになりました。
とにかく車でたどり着くのさえ大変です。
案内板によると昭和初期には多少なりとも家屋が建ちならんでいたようです。
では玉が幽閉された当時はどうだったのか、そのことを記す資料を見たことがないのでわかりませんが、あまり多数の民家があり村人が暮らしていたのではどこから噂が漏れ伝わるかもしれず、村人がいたとしても数家族だったのではないでしょうか。
ところで玉ですが、離縁されなかったことを良しとし、この山奥に幽閉されて暮らすことをそれでも幸せと感じたのかどうなのか。
あるいは運命と受け入れたのでしょうか。
ここでの生活がキリシタンへと改宗する下地になったようにも思います。
女城跡
玉の暮らす女城と護衛の兵が住まう男城をこれだけ遠く隔てたのは、ここまできても玉を他の男の目に触れさせまいとする忠興の企図からでしょうか。
もしそうならば狂愛のあまり判断がまともにできなくなったのでしょう、護衛のはずが、男城から女城まで駆けつけるにはどうみても10分以上はかかります。
玉は2年間この三土野で暮らし、やがて山を下りることになります。
まず幽斎が明智光秀を討ち破った秀吉に誼をつうじます、そのあと光秀の娘である玉が生存していることを聞かされた秀吉は、忠興と玉に許しをあたえて自分への忠誠を誓わせる方が得と判断したのでしょう。
玉は大坂城下にある細川屋敷で暮らすことになります。
秀吉による朝鮮出兵がはじまります。
忠興も朝鮮へと渡ることになりますが、玉が女好きの秀吉の毒牙にかからないか心配して朝鮮の地からいくども注意勧告の手紙を送っているのはまだ微笑ましいのですが、やがて忠興は狂気の沙汰を見せはじめることになります。
忠興が朝鮮出兵で長期間にわたり日本を留守にしてるあいだに、玉はキリスト教にふかく帰依し洗礼をうけます。もちろん忠興にはなんの相談もしていません。
さらに間が悪いことに、玉が洗礼をうけたと同じ時期にキリスト教の信仰の力に危機感をいだいた秀吉は急きょキリスト教の禁止と伴天連追放令を発布します。
忠興が帰国して玉が正式にキリスト教信者になったことを知ったのはそのあとのことです。
忠興はもともとキリスト教に対して反感や嫌悪感をもってはおらず、キリシタン大名の高山右近とも親しく付き合っていました。しかし主君である秀吉がキリスト教を禁じたとあっては細川家の系譜をまもるためにも妻がキリシタンであることはタブー以外のなにものでもありません。
忠興はしつようにキリスト教を棄てるよう玉に迫ります。どれだけ口で言っても玉が耳をかさないとわかると、玉といっしょに洗礼をうけた侍女をひとりずつ引き出し、玉の眼前でその耳と鼻をそぎ落とし血のしたたる刀を突き付けながら棄教するよう脅迫します。
どのようにしてこの脅迫が中止となったのかはわかりません。
玉が侍女をかばい先に私の耳と鼻をそぎなさいと抵抗したためとも、あるいは忠興が侍女の血でぬれた刀を脅しのつもりで玉が着ている着物の袖で拭いたところ、玉が何日でもその血のりのついた着物を着つづけるため忠興の方が気味悪がってあきらめたとも諸説つたわっています。
男城跡
女城はまだしも男城を訪れる人はいないのか、どこからが男城なのかわかりませんでした。
さらに日が暮れるとともに、鳥とはちがう他の動物の鳴き声が響きはじめ、不気味なので途中から戻ることにしました。
時が過ぎ、秀吉が亡くなり家康が台頭し、豊臣家を守らんとする石田三成と新たな天下をうかがう徳川家康との抗争が勃発します。関ヶ原合戦にさきだち三成は徳川方につこうとする武将らを牽制するため大阪屋敷でくらすその妻らを人質にとることを考えます。
三成の指示で豊臣方の兵士が細川忠興の妻らを拘束すべくその屋敷を囲んだところ、玉は人質となることをきっぱりと拒否し、キリシタンゆえ自害はできないので家来に槍で胸をつかせ屋敷に火を放ちます。
その後の話です。
忠興は長男であり嫡男の忠隆を廃嫡し追放しています。理由は、忠隆は関ケ原合戦では忠興とともに戦場にありましたが、そのとき忠隆の妻は玉と一緒に大坂の屋敷におり、玉が死を選んだにもかかわらず彼女はさっさと逃げ出した、というそのことに忠興は激怒し、忠隆に対してその妻と離縁するよう強制、忠隆が拒否するとさらに激高し廃嫡追放してしまいます。これなどは玉への狂愛の残滓とでも言えばよいのでしょうか。
次男の興秋は関ケ原合戦で豊臣方に味方したため、勝利した徳川家康にたいして申し訳が立たないということで切腹させています。そもそも興秋は万が一にも豊臣方が勝った時のために保証として豊臣方に味方したのではないかと推測されます。そうなると次男は細川家の系譜をのこすための捨て駒に使われたことになります。
細川氏は関ヶ原のあと肥後熊本に加増転封されて大大名となり家督は三男の忠利が継ぐことになります。
【アクセス】公共の交通機関なし、歩いて尋ねるのは困難
【満足度】★★★☆☆