真田の郷を訪ねる、まずは砥石城
【長野県・上田市 2024.11.7】
上田城のある中心街から10kmほど北東に位置するかつての真田の郷を訪ねます。
見どころは豊富ゆえ7時すぎに出発、まずは真田氏本城の外城といちづけられる砥石城へ。
真田氏が歴史の表舞台に現れるのは、武田氏の家臣となっていた真田幸綱(あるいは幸隆 / 昌幸の父)が砥石城を攻略して落とした時ではないでしょうか。
そのころ砥石城は村上義清の出城でしたが、これを甲斐から信濃に触手をのばす武田晴信(のちの信玄)が攻めますが大敗します。戦国最強といわれる信玄もまだこのころは成熟途上だったのか、あるいは村上義清が苦手だったのか連敗しており、とくにこのときの敗北は「砥石くずれ」とのちに記録される惨敗だったようです。
そのことが真田幸綱抜擢につながります。
砥石城攻略を命じられた幸綱は激戦の末ではなく、けっこうあっさり落城させてしまいます。真田家の居所はこの砥石城から間近で抜け道も熟知していれば、城内には敵とはいえ知らぬ中でもない同郷のものもいたのでしょう。どうやら武力ではなく調略で落としたようです。
この功により幸綱はもともとの自領である居所周辺を安堵され、さらに砥石城をふくむ一帯をあらたに与えられ、ここから真田家三代の激動の歴史が始まります。
※真田家三代とは、幸綱 → 昌幸 → 信之・信繁兄弟の三代をさします。
※近年には幸綱を幸隆と紹介した時期がありますが、幸隆は晩年の名乗りで若年壮年時には幸綱を実名としていたようです。
※信繁については幸村の呼び名があまりに有名ですが、本人生存中に幸村と名乗ったことはなく、死後にかかれた記録文から見られるようです。
登城
早々にコンクリートでかためた階段、そして嘘くさい城門があらわれ興ざめしますが、ここだけです。
これは現地についてから知ったことですが、砥石城とは後世の呼称で、本来は東太郎山の尾根に築かれた城のなかで本城(主郭部分)を中心に、南西に米山城、南に砥石城、北に桝形城を出城としてもつ広範囲の城郭群があり、なぜか出城のひとつであった砥石城の名が総称になったようです。
米山城
砥石城
砥石城本城
桝形城
下の駐車場に車を置いているのでそういうわけにもいきませんでしたが、桝形城からそのまま真田の郷へ下ってみるのも楽しそうです。
【満足度】★★★★☆
このあと真田の郷を歩きました。
個別にブログを書くべきなのでしょうが、あまり感興をそそられるものがなかったので以下に写真のみ掲載します。
真田の郷
真田氏館跡
天白城
真田本城
長谷寺