山本勘助の縄張かどうかわからんまま小諸城をたずねた

【長野県・小諸市 2024.11.7】
小諸城は以前からあった小城を武田信玄が奪い信濃地方進出の橋頭保とするため山本勘助に命じて縄張りをさせあらたに造り直したもの、と伝えられています。
どうじに同じくらい多くの書籍やウェブサイトで山本勘助は小諸城の縄張りにまったく関わっていない、と書いています。
両者ともに多数の意見があるので、真相はよくわかりません。わからないけれどわからんままに訪ねてみることにしました。

小諸城は穴の底にある

大手門 / 城郭から線路をへだてた市街地にある

小諸城が山本勘助の縄張りでつくられたものか否かは判然としませんが、武田信玄の命によりつくられたことは確かです。

そしていくつかの他にはない特徴があります。

三の門 / 入口に向かって徐々に下がる?
城内が一段下がった位置にあることがわかる
このため小諸城の別名は「穴城」
桝形虎口
南丸の石垣 / この石垣上から狙われると侵入は困難
城内の案内板より抜粋

ところで山本勘助はさておき信玄がこの城をつくらせたときにはまだ石垣は本格的に組まれてはおらず、江戸時代になって仙石久秀が改修していまの形に仕上げたようです。

仙石秀久といえば秀吉の近習ともいえる家臣で小田原征伐のさいの戦功で小諸に所領をいただく大名でしたが、秀吉が亡くなるとちゃっかり家康にくら替えし、秀忠が中山道をとおって関ヶ原へ向かうさい上田城の真田氏と一戦交えますが、そのさいには秀忠の本陣としてこの小諸城を提供しています。

小諸城は多彩な防御で谷もつかう

二ノ丸へ
上がったところからふり返る
南の丸跡

石垣とはそもそも積みあげた土が端から崩壊するのを防ぐため、「土留め」の目的で使われたのが最初ですから、おそらく信玄の時代の縄張りではこのあたりは随所に土塁が盛られていたものと考えられます。

なんと堀ではなく自然の谷をこえて本丸へ
本丸をまもる石垣
本丸跡には懐古神社が鎮座する

明治時代に城跡を旧小諸藩士らが払い下げをうけて取得、そののち宗教法人懐古神社の所有となり、いまは小諸市が懐古園の入場料から土地の賃料を払っているそうです。

小諸城は石垣にも興がある

石垣を回りこむ
天守台
天守台からのびる本丸の石垣
本丸に上がる / 左側はの直線はもとは馬場
(ジャイアント馬場は関係なし、馬を走らす馬場)

小諸城は城の中に森がある

城内はいたるところに樹木がしげる
城壁から見下ろすとそこは森林
見晴台からの眺め

小諸城はまわりを樹木で覆われているだけでなく、城内にも多数の木々が繁茂しています。
なにかで読んだのですが、城郭が一段低い位置にあるため城下町から城内が見えないよう視界を遮るために樹木を植えたとか – – –
それならなぜ最初から一段高いところに城をつくらなかったのか。
シンプルな疑問ですが、穴城にどのような利点があるのでしょうか。その答えを明確に述べている記述は見当たりませんでした。

【入場料】懐古園内散策のみ300円、懐古園散策と動物園・徴古館・藤村記念館など入場500円
【満足度】★★★★☆