武田信玄ゆかりの地をあるく1⃣ 武田氏館 / 信玄はまことに偉人か
【山梨県・甲府市 2024.12.9】
まちがいなく武田信玄は戦国時代最高の武将のひとり、なのでしょうか。
いかに戦さに強かったか – –
生涯に70回以上といわれる戦さをしながら敗れたのは若いころ村上義清に2敗したのみ、と言われています。
これだけ聞けばたしかに勝率が尋常ではないようですが、まず引き分けがやたらに多い、なかでも上杉謙信との川中島の戦いは計5度に及びますが、うち4回は小競り合いのみ、あるいはそれさえなく睨み合いのみでの引き分け。唯一の激戦となった第4次の戦いにしても武田軍の勝利とうたっているのは甲斐武田側であって、越後上杉側は我が方の大勝利とうたい現に謙信は勝利を祝して家臣に感状(賞状、感謝状のようなもの、くわえて与える報奨についても書かれている)を発給しています。(信玄がこのとき感状を発給した記録はありません)
若いころの信玄の戦さはそれほど調略を重んじず、どちらかというと力任せにぶつかっていました。村上義清に2度負けたのも、義清が格別に強かったというより力任せの攻撃ゆえ裏をかかれたり隙をつかれたのが原因でしょう。
信玄にとって人生最大の敗北とされる「砥石くずれ」、これは義清の家臣がまもる砥石城をせめたさい城兵の果敢な応戦に手を焼き、さらに背後から義清の本隊に襲いかかられ惨敗をきっします。
ところがその翌年、外様から取りたてた真田幸綱(真田幸村のじいちゃん)がその砥石城を調略でもってあっさり開城させたことから、戦さのやり方を根本的にあらためます。
まず老若男女数百人単位の間者(いわゆるスパイ)をかかえ、かれらが商人、僧侶、渡り巫女などに姿を変えて諸国に潜伏し、〇〇の家臣の●●は働きづめでそのわりに給料が少ないと不満をもっているとか、◇◇の◆◆は美人妻に対する上役からのセクハラに憤っているとか、そのような?情報をあつめて本国に送ります。
すると信玄の参謀である知恵者がでたらめの手紙や密書をつくってターゲットとなった相手の手元にいかにも自然に届くよう策動します。
こうして不満と不信をはびこらせ、機が熟したところでターゲットに接触して当方に味方してくれればコレコレの知行を与えようと持ちかけます。そのターゲットが頭をさげるかニンマリ笑えば調略成功。十分に調略をおこなってからの開戦であれば負けるはずがありません。
もし調略がうまくいかず勝てる保証がないときには戦さに及びません、すなわちこれがすべて引き分けです。

武田信玄の活躍の全容については江戸時代になって書かれた『甲陽軍鑑』によるのみで、しかもこの書はずいぶん武田氏をもちあげた記事ばかりで、あまり信用できないことは通説となっています。
それゆえ武田信玄はあまりにも有名であるにもかかわらず実像がいまひとつ掴めません。
この座像にしても、近年の研究では信玄の実の姿とはかけ離れていると言われています。
このようなずんぐり体型でもなければ、厳めしい顔でもなかったようです。
(多くの人々にとってこの姿が認知され、また多くの山梨の人に親しまれているのであれば、いまさら変更するまでもないでしょうが)
武田氏館(躑躅ヶ崎館)/ 武田神社






曲輪群



信玄(出家前は晴信)の父・信虎が領地を広げるとともに居館が手狭になったのかここに本拠を移します。
その呼び名が武田氏館であり通称は躑躅ヶ崎館ですが、どうしてどうしてこれは立派な城です。
背後の要害山(丸山)に敵に攻めこまれたさいの詰城(つめのしろ:最後の防御拠点)として山城を築いており、ここが「館」とよばれるため防御機能が弱いかのように思われがちですが、見るかぎり防御もじゅうぶん考えています。






濠をまわり大手へ






「人は城、人は石垣、人は堀」とは信玄の有名な言葉ですが、この言葉から有能な人は城に匹敵する→だからあえて城は必要ない→だから信玄は城を造っていない、と誤解している向きがありますが、この名言には続きがあります。
「情けは味方、仇は敵なり」家臣(武士)だけでなく百姓、商人ら領民にも情けをかけてやれば、人は石垣となり堀となりあたかも城のような存在になってくれる、それゆえ人を大切にしなければならないという意味が込められています。
同時に、人が石垣となり堀となりあたかも城のような存在とするためには有益に用いるべきだという意味も併せもっていると考えるべきでしょう。

武田信玄の墓は供養塔などもふくめると甲州信州を中心に多数あります。(関西にも高野山に墓があります)
この墓は比較的新しいものですが、武田氏館から1㎞ほどのところ、散歩がてらあるいて来られます。
【アクセス】JR甲府駅から武田氏館まで徒歩30分
【満足度】★★★★☆