錦帯橋の頭上に岩国城か、岩国城の眼下に錦帯橋か
【山口県岩国市 2025.3.18】
岩国城は吉川広家により江戸時代初期に築城された城です。
吉川広家について書いておきます。
戦国時代に中国地方の覇者となった毛利家の宗主・毛利元就は、長男が早世したためその嫡男・輝元に家を継がせ、次男・元春については地元の有力国人である吉川家に養子入りさせ、後にその家督を継承させます。(要は家督の乗っ取り)(三男・隆景は小早川家に養子入りして後に家督をつぎます)
その元春のあとを継いだ次男(長男は戦死)が広家です。
広家は秀吉にその武と智を認められ、豊臣姓を名乗ることを許されるほどに厚遇されますが、どうやら秀吉の一番の側近である石田三成を嫌悪していたようで、その嫌悪ゆえに関ヶ原の役では情勢を冷静に分析して東軍・家康に内通することを決めます。
関ヶ原で天下をかけた合戦がおこなわれている最中に陣から動こうとしない吉川軍にたいして西軍から矢のような催促がなされますが、広家は「いま昼飯の弁当を食べている」といかにも人を喰ったような言い訳をして不動を決めこんだため、この逸話は「広家の空弁当」としていまに伝わっています。
ところで広家としては関ヶ原で不戦をきめこむことで実質的に東軍に味方したわけで、家康から毛利家の全領土の安堵を約束してもらったつもりでいたのですが、そこは役者が数段上の家康のこと、あっさり約束は反故にされ毛利家は10ヶ国120万石の大大名から周防・長門2か国36万石へと大減封されてしまいます。
ここからの広家の立場は微妙です。
毛利家では白い目でみられ毛利領の東の端である岩国に追いやられ、江戸時代を通して岩国は藩とは認められず長州藩の家臣として冷遇されます。一方徳川家からは相応の待遇をもってむかえられ一国の領主であり大名として遇され岩国の地にあらたな城を築くことを認められます。
そうして築かれたのが岩国城です。
錦帯橋の頭上にみえる岩国城

錦帯橋をわたったあたり一帯が居城であり、山上の城は詰城に相当します。
※詰城とは戦時に最期にこもって拠点とする山城のこと
ところで晴れ男を自認する私にとっては珍しい雨模様、旅先で雨に遭遇するのはいつ以来でしょうか。傘を携帯するなど考えてもいなかったので駅そばの店で折り畳み傘を買いました。

雨は上がりました

石垣




天守

さすが晴れ男、山城に到着したら青空

唐風とか南蛮風とよばれる様式だそうです



昭和の時代に天守を復元するに際して、山麓から天守がよく見えるように、また錦帯橋とセットにした図柄の見栄えも計算して、もとあった位置(この天守台の位置)から30メートル南寄りに築城したようです。
またこの天守台の石垣も掘り起こして組み立てなおした復元物です。
堀、北の丸



案内図によると、ここは水堀だったようです



錦帯橋の頭上に岩国城か、岩国城の眼下に錦帯橋か、どちらの眺めも素晴らしいものですが、城の天守を南に動かして再築した事実を考えれば、前者は観光用につくられたものと言えます。しかも私にとっては前者の眺めは雨のもと、後者は晴天のもととなれば、自ずと軍配は後者となります。
岩国を訪れた際にはぜひ山上まで上がって錦帯橋をふくめた眼下の絶景をお楽しみください。
(ロープウェイも運行しています)
【アクセス】錦帯橋を渡った地点から山城まで徒歩30分、下りは20分
【料金】錦帯橋:往復310円、岩国城・天守入城料:270円
【満足度】★★★★☆