吉田松陰は長州・萩の草葉の陰でなにを思う

【山口県・下関市~萩市 2025.3.20~21】
幕末から明治維新の日本について考えるとき、とくに長州藩(いまの山口県)での吉田松陰の取り上げられ方は少々持ち上げすぎではないかと常々疑問に思っていました。
松陰がのこした数々の名言のなかのひとつに「賢者は議論よりも行動を重んじる」というものがあります。
では松陰が実行した目立った「行動」といえば、ペリーが日米和親条約締結のために再航した際に近くにあった小舟を盗んで黒船に乗りこみ密航を試みるも失敗 → 投獄 → 死罪を申し渡される寸前でまわりの助命嘆願のおかげで長州へ送り返され幽閉、幽閉から蟄居時代に近隣のものに諸学を教えたことからやがて叔父の玉木文之進が教える私塾・松下村塾を受け継ぐことになります。

松下村塾からは、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、吉田稔麿らそうそうたるメンバーが生まれ育ち、かれらが倒幕そして維新への道を拓く原動力となったのは事実です。
では松陰本人はなにをやろうとしたのか。幕府に日米修好通商条約の破棄と攘夷を迫り、受け入れられないなら要人の暗殺も辞さず、あるいは示威のためか長州藩から武器や弾薬を借り出そうとしてそのたびに門下生から自重を求められ、ついには攘夷が実行されないのは根本的に弱腰の幕府に問題があるとして倒幕へと傾注してゆき、ついには(幕府ではなく)長州藩の手で幽閉されます。
そして(幕府によって)この長州藩での幽閉地から江戸の牢獄へそのまま移送され、いわゆる安政の大獄に連座して処刑されます。享年29歳。

「大器をつくるには、急ぐべからずこと」、これも松陰がのこした名言のひとつです。
後世に名言をのこすだけでなく、自分自身も志を成しとげるには、急ぐべからずことと肝に銘じて生きてゆけば – – – とつい考えてしまうのですが。

下関(壇ノ浦)

功山寺へむかう途中に立ち寄った壇ノ浦
源義経(左)と平知盛の銅像 / 後方は関門橋
幕末攘夷の時代に設置された大砲(レプリカ)

下関(功山寺)

山門

力づくで(戦をしてでも)攘夷を実行しようとする過激な公家と背後の長州藩にたいして、平和裏に攘夷を進めようとする会津藩、薩摩藩などは孝明天皇の勅命を得て、ついにかれらを京から追放してしまいます。
これが八月十八日の政変ですが、このとき追放された公家7名のうち5人がこの功山寺に身を寄せたと伝わっています。

また吉田松陰の一番弟子ともいえる高杉晋作が、幕府による長州征伐に対して抗戦を訴え、奇兵隊、力士隊、遊撃隊などの諸隊をひきいて挙兵したのもこの功山寺です。

仏殿から法堂をみる
法堂から仏殿をみる

下関(東行庵)

東行庵

東行庵の由緒は、山県有朋(高杉晋作が創設した奇兵隊の軍監、のちに陸軍大将、第3代総理大臣)が山麓に草庵をもっていたことから、結核のため早逝した高杉晋作をこの地に葬り、晋作の死とともに出家した愛人おのうに草庵ごとゆずって菩提を弔うことに尽力したものです。

高杉晋作像
近くの長府歴史博物館に展示されていた、
大砲の砲弾、左が日本製、右が欧米列強のもの

幕末には各藩とも攘夷を主張していたものの、欧米のすぐれた技術力を見るにつけ海外から文明をとりいれる必要性を痛感しはじめます。
また長州藩は武力に訴えてでも攘夷を遂行しようと試みますが、いざ列強と戦ってみるとその戦力の決定的な差に立ちすくんでしまいます。たとえば大砲にしても、日本の丸い砲弾は射程距離が短いだけでなく命中率がきわめて悪く、列強が海上の戦艦からはなつ砲弾に一方的にやられてしまいます。

角島大橋、元乃隅稲成神社

角島大橋
下関から萩へとむかう途中SNSですっかり有名になった、
角島大橋と元乃隅稲成神社へ立ち寄りました。
元乃隅稲成神社
ベストショットと思われるものを各1枚掲載します。

萩(東光寺)

萩における毛利家の菩提寺・東光寺 / 山門
大雄宝殿

関ケ原合戦において当時西国の雄であった毛利家は、西軍(豊臣方)の総大将となりますが終始不戦を通します。
当主・輝元の従弟にあたる吉川広家が東軍の優位を冷静によみ、あらかじめ徳川方に内応しており強引に毛利家全軍を不戦に導いた感はあるのですが、結果としては毛利氏ひきいる2万ともつたわる軍勢が動かなかったがために西軍は敗退します。
このとき吉川広家だけでなく毛利家の面々は、毛利が戦わなかったがゆえに東軍(徳川方)は勝利できたのであり、自領を安堵されることは当然と考えていたはずです。
ところが家康は、徳川について勝利に貢献した東軍の武将たちにあたえる褒美(所領)を確保するため、また西軍の雄であった毛利の力をここで削ぎ落すべきと考え、毛利氏が領する10か国120万石を周防・長門2か国36万石へといともあっさり大減封してしまいます。

萩(萩城址)

萩城址

江戸時代を通じて長州藩(毛利関係者)の幕府・徳川家への恨みはすさまじいものがありました。

わざわざ西枕にして足を東(徳川のいる江戸)にむけて寝たとか、藩士は草履の裏に「徳川」と書いて毎日その名を踏みつけながら歩いたとか。
これらは俗説でしょうが、臥薪嘗胆のきもちで恨みを忘れないようにしていたのは事実であり、その恨みが長州藩にあっては倒幕の巨大なエネルギーになりました。

萩(明倫館)

明倫館の遺構としてのこる南門(正門)

明倫館は長州藩の藩校として造られ、吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎、井上馨、乃木希典ら倒幕から近代日本への道を拓いた数多の人々が学んでいます。

いまにのこる遺構は正門などわずかで、学舎は昭和初期に明倫小学校として建てられ平成26年まで使われていたものです。

禁門の変とは、前年の八月十八日の政変によって京都から追いやられた長州藩がみずからの無実を訴え、京都での要職にもどることを希求して蜂起したものです。
動機はどうあれ、やり方が悪かった、なんと御所に押しかけ、直接天皇が住まう皇居にではないものの御所にむかって大砲をむけ、実際に蛤御門には銃弾が撃ち込まれています。
このときは会津藩や薩摩藩の奮戦で長州藩は撤退しますが、御所に押しかけ実弾を撃ち込んだことはあきらかに天皇に対する脅迫、あるいは軽視として記憶されます。

当然のことですが、勅命により長州征伐がおこなわれます。勝てば官軍と言いますが、勝つも負けるもこの時ばかりは戦う前から幕府の征伐軍が官軍であり、長州は賊軍すなわち悪玉です。
結果的には大政奉還から倒幕そして明治維新をへて、元長州藩である山口県は日本の近代化にもっとも貢献したと歴史に記録されることになるのですが、同時に天皇を武力で脅迫した悪玉との汚点は陰影のように残りました。
この汚点を払拭するためには、日本の近代化への道を拓いた長州藩士の、その師であった吉田松陰が「良い人」「偉い人」「かけがえのない人」であることが求められたのでしょう。

萩(松下村塾)

一帯は松陰神社の境内になっています
松下村塾の建物はこれだけのものです
隣接してある、一時期松陰が幽閉されていた家

松下村塾といっても、これだけのものです。
失礼を承知でいえば、この大きくもない廃屋が萩観光の目玉のひとつとなっています。
萩市がどれだけ意識したかはわかりませんが、萩観光を宣伝するため松下村塾を前面に出してアピールするうちに、「良い人、偉い人、かけがえのない人」であった吉田松陰はさらに誇示され、ついに巨人になってしまったのかもしれません。

玉木文之進旧宅、吉田松陰の墓

玉木文之進旧宅

玉木文之進は松陰の叔父にあたる人です。
この家の正面に見える一室で私塾をひらき、このあたりの地名が松本村だったことから松下村塾と名づけました。
松陰は生徒として通ってはいましたが、ここで教えた記録はなく、玉木文之進の教育法を受け継いだことで松下村塾の名前を継承したようです。

吉田松陰の墓

東光寺の近くにある松陰の墓は一般庶民の墓と区別がつかないほど質素なもので、後方にある高杉晋作の墓と比較すると貧相にも見えました。

もっとも、「小人が恥じるのは自分の外面である、君子が恥じるのは自分の内面である」との名言を残している松陰のこと、自分の墓の小さいことなど気にもかけないでしょう。
むしろ死後いつのまにか自分がこれほどの巨人に祭り上げられたことに、さて草葉の陰でなにを思っているのでしょうか。

【アクセス】車と徒歩
【料金】建物内や資料館に入る入らないでずいぶん違います。
【満足度】★★★★☆