萩の城下で毛利氏はなにを思い江戸を見ていたのか
【山口県・萩市 2025.3.21】
毛利氏は戦国時代には10か国120万石の大大名でした。
当主の輝元が秀吉亡きあと豊臣政権下の大老であったことに加え、西国最大の大名ということもあって関ヶ原の戦いでは西軍の総大将に祭り上げられます。
輝元にとって西軍の総大将になることが本意だったか否かはここでは深く探りません。輝元の従弟にあたる吉川広家が東軍が優位であると冷静に判断して、毛利家を存続させるため徳川家に内通し、結果として西軍のなかで最大勢力である毛利家が不戦を決めこんだたため西軍は敗北します。
(一般には小早川秀秋の裏切りが東軍勝利の決め手になったと語られていますが、合戦の前半は西軍優位でありこの時点で毛利軍が西軍のために果敢に戦えば西軍の勝利は手が届くところとなり、さらに戦況を見守りながらどちらに味方するか迷っていた小早川軍は、すくなくとも絶対優位な西軍に向かって突撃することはなかったはずです)
広家だけでなく毛利家のすべてのものが、積極的に東軍に味方しなかったものの毛利家が戦わなかったことで東軍に勝利を呼び込んだのですから、当然自領はすべて安堵されるものと期待していたようです。
ところが家康は「いともあっさり」10か国120万石の大半を削り取り、毛利氏は周防と長門2か国36万石に大減封のうえ本州の西の端へと追いやられます。
この時の恨みから幕末には長州藩が餓狼のごとく倒幕に奔ったことは「吉田松陰」のところで書きました。
また吉川広家は面目がなくなり岩国へ押しやられ、江戸時代は長州藩の家臣の立場をしいられたことも「岩国城」のところで書きました。
今日は宗主である毛利輝元がそれまでの居城であった広島城をはなれ(追われた、に等しい)、あらたな拠点として築いた萩城をたずねます。
平城・外観

萩城は海沿いの、もと三角州につくられた平城と、背後にそびえる指月山の山城とで構成されます。
平城の方が居城であり、行政もここで行われていたようです。
山城の方は詰城、すなわち敵が攻め込んできたときに山に上がり防御につとめる最後の拠点です。
関ケ原の戦いの後といえば平和な江戸時代への入口にあたり、なぜここまで戦にそなえた城を築いたのか、不思議といえば不思議です。

後方に見えるのが指月山です


この水面は内堀になります

平城・本丸


内側が階段状になっているのはたいへん珍しい



天守(閣)は戦における実用のために建てられたものではありません。物見は櫓や出丸がその役をなし、また城主が暮らすのは居館でした。
ざっくりいえば、戦国時代まではそびえ立つことで力を誇示する意図があり、江戸時代には城のシンボルでありお飾りでした。
それゆえ萩城に天守があったことは意外ではないのですが、外堀と内堀に囲まれたこれほど堅固な城を、なぜ関ヶ原の後につくる必要があったのでしょうか。

ウィキペディアによると、
広さは東西約200メートル・南北約145メートル

山城へ


城兵がどこに潜んでいるか分かりません




山城・本丸



(岩に矢穴をあけて鉄槌でたたくことで石を割った)


この景色を眺めながらふと思い出したことがあります。
毛利氏が去った安芸国を与えられ広島城の主となったのは福島正則です。
正則といえば秀吉子飼いでありながら石田三成と犬猿の仲にあったことから毛利氏のように内通ではなく、堂々と東軍に属して関ヶ原では先鋒争いをするほど果敢に戦います。
その功あって尾張24万石から安芸49万石へと加増転封されるのですが、のちに些細なことから幕府の不興をかい、越後魚沼に4万5千石の減転封を命じられます
北の総門

門の背後に見えるのが指月山
福島正則が改易させられたのは、些細な理由でというよりも奸計にはめられたようにも考えられます。経緯はこうです。
居城である広島城が台風被害で破損した折に、正則が修理改築したところ、幕府から無断で城を改築することは「武家諸法度」に反すると厳重注意をうけます。
(そもそもが無断ではなく、事前に届け出をしていたとの説もあります。)
いったんは改築部を破却すれば許されるということで落ち着きますが、つぎには破却の仕方が完全でないと幕府の怒りを買い(イチャモンをつけられ)、あっという間に改易が決まります。
この福島正則の改易騒動は家康の死の直後のことですが、家康の遺志が働いていることは疑いようがありません。
1600年、関ヶ原の戦い
1601年、毛利氏は周防・長門へ減転封、福島正則は安芸へ増転封
1603年、家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府をひらく。同年、正則は領地が隣接する毛利氏にたいする抑えとして亀居城(現・広島県大竹市)の築城をはじめる。
1604年、毛利輝元は家康に「萩、山口、防府」の3地点を対象としてどこに居城をかまえるべきか裁可をもとめ、萩にすべしとの認可を得る。(ちなみに萩がもっとも中心部からはなれ、かつ交通の要衝からも外れる)
1608年、亀居城完成、同年、萩城完成
1611年、正則は家康より亀居城の破却を命じられ、築城後わずか3年で廃城とする。理由は、豊臣家と徳川家との衝突が目立つようになり、豊臣恩顧の正則が居城(広島城)以外に城をかまえていることを家康が懸念したとも伝わっていますが、真実は不明。
また家康がこの亀居城がいかに堅固な城であるかを知ったのは、隣接する毛利氏からの報告によるとの説もありますが、これも真偽は不明。
1614年15年大坂冬の陣、夏の陣。毛利輝元はどちらに味方するのも都合が悪いと考えたのか病気と称して参陣していません。福島正則は(寝返りを疑われていたのか?)家康の命により参陣していません。
1616年、家康死去
1619年、正則改易処分をうける。
こうしてみると、家康は最初から最後まで福島正則をいつ裏切るか分からない危険分子と見ていたのではないでしょうか。憶測すると、毛利氏と隣接した地に正則を転封したのは、正則に毛利を牽制させると同時に、毛利に正則を監視させる意図もあったのではないかと考えてしまいます。
家康としては毛利氏は警戒しつつも潰してしまうほどに危険ではなく、利用できるかぎりは利用しようと考えていたのではないでしょうか。
ただ、さすがの家康も自分がこの世を去ってから250年の後に、みずからが開いた江戸幕府がその毛利氏(長州藩)の手によって倒されるとは思いもしなかったでしょう。
【アクセス】平城から山城まで上り15~20分、坂道はきつくはありません。
【満足度】★★★★☆