玄蕃の暴走で勝家は戦にやぶれ、玄蕃尾城がのこった
【福井県・敦賀市刀根~滋賀県・長浜市余呉町 2025.4.7】
<青春18きっぷ>をつかって新大阪駅から福井県の敦賀まで、乗り換えなしの新快速にのると2時間かからずに到着します。
そこからコミュニティーバスで30分南へ戻ると、滋賀県との県境ちかくに玄蕃尾城があります。
この城は織田信長が本能寺で謀殺されてのち重臣たちによる覇権争いの最終決戦となる賤ヶ岳の戦いのさいに、琵琶湖南岸に陣をしく羽柴秀吉方にたいして北岸に陣をしいた柴田勝家方の、その勝家の本陣がおかれた場所です。
城の名の由来については複数のサイトで確認できましたが、たんに勝家の甥にあたる佐久間玄蕃盛政の名に由来するとだけ書いてあるもの、この城が賤ヶ岳の戦いにおける佐久間玄蕃盛政の陣城と(誤)認識されていたとするもの、また盛政がこのあたりに行軍のための尾根道をつくり、その道が「玄蕃の尾根道」と呼ばれたことからとするものなどがありました。
ともかく玄蕃盛政がなんらかの形で関わっていることは確かですが、築城主と書いているサイトは見当たらないので誰がこの傑出した山城を縄張したのかは不明です。(柴田勝家の指示のもとにつくられたのは確かです)
刀根バス停から歩く




登城



直進すると滋賀県余呉町の柳ケ瀬バス停へ

玄蕃尾城・虎口郭、張出郭、腰郭









本丸、搦手郭





帰路・余呉町柳ケ瀬バス停へ


賤ヶ岳の戦いでは佐久間玄蕃盛政が最初の強襲がまんまと成功したことから調子づき、勝家の制止に耳を貸さず突進をつづけ、そのため秀吉の陥穽にはまり散々に打ち負かされ、そこから全軍の潰走につながります。
猛将・柴田勝家といえどもいったん潰走をはじめた全軍を止めることはかなわず、ついに勝家本人も本陣をすてて北の庄へと撤退します。
そのような状況ゆえ玄蕃尾城は敵を迎え撃つために使われることはなく、結果として無傷のまま残されることになります。
また石垣もまったく使われていないため江戸時代に城郭とは認識されなかったのでしょうか、一国一城令にしたがって破却を命じられることもありませんでした。(あるいは山中に埋もれてその存在さえ忘れられていたのかもしれません)
山城としてほぼ完ぺきな状態で現在まで残った稀有な例で、交通の便はけっして良くはありませんが、ぜひ見にゆくべき城とお薦めします。
【アクセス】JR敦賀駅→(コミュニティーバス)→刀根バス停~玄蕃尾城~柳ケ瀬バス停→(余呉バス)→JR余呉駅 / 12000歩、2h40m
【満足度】★★★★☆