向羽黒山城と春日山城の関係は

【福島県・会津美里町 2025.5.21】
向羽黒山むかいはぐろやま城は戦国時代に伊達政宗と当地で覇権を争った蘆名あしな氏により築城されています。
蘆名氏の先祖は相模の三浦氏、源家にしたがって平家討伐や奥州合戦で戦功をあげ、鎌倉幕府内で将軍家(源氏)の重臣となります。
その後会津の地に領土を与えられ、蘆名と名乗って領土をひろげてゆき、黒川城(いまの会津若松城のもとになる城)を拠点として統治に励みます。
それから20年ほどのち、蘆名氏は黒川城の南西6㎞、向羽黒山(岩崎山)に新たな城を築きはじめます。一説では、黒川城が政務をおこなったり人と接見したりする公的な城であり、向羽黒山城は住まうことを目的とした私的な城であったとも言われています。たしかに6㎞の距離であれば、移動は容易であったはず。

その後蘆名氏は伊達政宗に敗れて滅亡するものの、伊達氏がこの向羽黒山城を占有して使用した記録はなく、さらに後に蒲生氏郷、つづいて上杉景勝が自身の統治時代に支城として使っていたようですが、上杉氏が関ケ原合戦にやぶれて米沢へ移封されてからは廃城になったようです。

二曲輪(二の丸)

現地の案内板より抜粋

現地には縄張図も掲載されていましたが、あまりにも細かくて読み解くのが大変すぎるので、簡単な案内図をアップします。

まず二曲輪そばの駐車場に車を停め、さきに二曲輪の(案内図で)下あたりを歩きました。
つぎに徒歩で移動し、図にも描かれている細道を一曲輪まで上がりました。

山城には誰もいまいと思いきや、駐車場に数台の車、
二曲輪は城祭りの準備中でした
二曲輪から見わたす
二曲輪をはなれ山中に入ってゆきます
土塁と堀、堀切
これは虎口と見るべきか?
幾重にも連なる土塁跡
行けども行けども、
土塁、堀切、
そして曲輪がつづきます

ネットで調べると、向羽黒山城の規模は、東西1.4km、南北1.5km、面積は50haで東京ドーム約11個分(AIによる回答)ということで、到底すべてを見てまわることはできません。
この辺りで引き返すことにしました。

一曲輪

虎口
堀跡
堀跡
上へ上へとあがって行く
本丸に相当する一曲輪が見えてきました
一曲輪
一曲輪から切岸下をのぞいてみる

上杉氏は会津の地へ入封後、この城の重要性にすぐに着目し、神指こうざし城の築城にかかるまえに2年の歳月をかけて向羽黒山城の大改修をしたようです。
ということは現在目にする向羽黒山城は蘆名氏がというよりも、上杉氏がつくった城というべきかもしれません。
その事実をふまえてあらためて見ると、たしかに越後の上杉氏の居城であった春日山城を彷彿とさせるものがあります。

※なお一部石垣が残っているとのことでしたが、見当たりませんでした。

【アクセス】車にて
【満足度】★★★★☆