立石寺は人が多くて閑かでもなく蝉の声もなかったが、
【山形市 2025.5.23】
正式に「宝珠山 立石寺」というよりも通称の「山寺」と呼んだ方が分りやすいかもしれません。
「山寺の和尚さん」という童謡がありますが、その山寺とはこの立石寺のことです。
松尾芭蕉が「奥の細道」の執筆中に立ち寄り「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」と詠んだのもこの立石寺です。
その立石寺を学生の時以来ですから〇〇年ぶりに訪ねました。

根本中堂から山門、そして階段を登る










奥の細道によると、芭蕉は「一見すべしよし、人々の勧むるによりて、尾花沢よりとって返し、その間七里ばかりなり」ということのようです。
そして着いてから「日いまだ暮れず、ふもとの坊に宿借りおきて、山上の堂に登る」
なんと七里(28km)歩き、まだ日が暮れていないので宿をきめ山上まで登ったということのようです。昔の人の体力たるや恐るべし。
山上に登っての感想は、「岩に巌を重ねて山とし、松柏年ふり、土石老いて苔なめらかに、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音聞こえず。岸をめぐり、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂莫として心澄みゆくのみおぼゆ。」
物の音聞こえず、以外は三百数十年後のいまも芭蕉が見て感じたとおりです。
ここで一句詠まれます。「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」
発句の「しずかさや」になぜ「閑か」という字が使われているのか。「静か」は音が聞こえないシーンとした静けさ、「閑か」は人がいないひっそりとした閑かさを表します。
もとの日記調の文章から日暮れ前ですでに参拝者もいない山上へ上がったことがうかがわれますが、発句に「閑かさや」をもってくることで、ひっそりとした情景が目の前にひろがります。それだからこそ、岩にしみ入るほどに蝉の声が大きかろうと閑かさは保たれるわけで、これが「静かさや」では「静か」と岩にしみ入るほどの「蝉の声」が矛盾してしまいます。
ちなみに、わたしが訪ねたときには前後に人がいたので閑かではなかったものの、声高に話す人はおらず静かではありました。もちろん5月で蝉の声はありませんでした。
※「閑か」には世事にとらわれない心の落ち着きをあらわすとの解釈もありますが、私は俳人はおろか俳句好きでもないのでそこはよくわかりません。
仁王門、大仏殿






たしか中学生のときの国語の授業だったと思いますが、アホな同級生が教科書に載るこの句を、「閑(ひま)か?さや???」と読んだときには、日ごろ口うるさい担当の教師も生徒と一緒に爆笑していました。
ところが先日、当時の同級生のアホをさらに上回るようなアホ発言をみつけました。
「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」これを英訳するとどのように表現するのか興味がわき調べてみたところ。
いまはネット検索をすると、冒頭にAIによる回答が出てきますが、まずはアルファベット表記で、「Kan kasaya iwa ni shimiiru semi no koe」
同級生の読んだ「ひまかさや」とAIの「かんかさや」とどちらがよりアホでしょうか。
「ひまかさや」と読んだのは「閑」に「ひま」の意味も含まれていることを知っているのに対して、「かんかさや」はたんに訓読みすべきところを音読みしたにすぎません。
個人的な考えですが、「ひまかさや」の方はすこしは知恵のあるアホ、「かんかさや」はただのアホと判断します。
それではこの句にたいするAIによる英訳はどうなっているでしょうか。
The quietness of the cicadas seeping into the rocks
わたしは俳句の才能も人並み以上の英語力もありませんが、この英訳がたんに誤訳というのではなく、まったく句の意味を理解していないものであることはわかります。
まだまだ私のお頭もAIには負けていません(負けていない部分もありました)と、妙なところで安心しました。
開山堂


「山寺の和尚さんが 毬は蹴りたし毬はなし
猫をかん袋に押し込んで ポンとけりゃニャンと鳴く
ニャンが ニャンと鳴く ヨイヨイ」
単純に読めば、これは動物虐待のひどい歌です。
なぜこのような虐待イメージの歌詞を童謡にしたのでしょうか。
いろいろ調べてみましたが、わかりませんでした。
しかし謎解きを急ぐ必要はありません。
いずれ蝉しぐれの季節に、立石寺をみたび訪ねたいとすでに考えはじめています。
【アクセス】車にて
【料金】山門から先の入場料:500円
【満足度】★★★★★