唐の進攻にそなえて造られた古代山城・屋島城、城山城
【香川県・高松市、坂出市 2025.9.17】
7世紀、朝鮮半島でおこなわれた白村江の戦いにいたるまでの経緯を述べておきます。
そのころ中国大陸において隋のあとに興った唐は、朝鮮半島のなかで自国と国境を接する高句麗に対してたびたび侵攻をくり返していました。
朝鮮半島の南端にある新羅は、唐からの直接の脅威はないものの隣国の百済とは敵対関係にあり、しかも高句麗が倒された時には、つぎは唐の進攻がわが身に及ぶことは明らか。そこでみずから唐にすり寄り、冊封国(宗主国=唐にたいして臣下の礼をとって朝貢国となり、攻撃を受けないだけでなく他国との争乱のさいには援軍を要請する)の位置におさまります。
そして唐が高句麗を征圧するのと前後して、新羅は唐に対して百済征討を要請します。
そのころ日本(倭国)は百済と友好関係をむすんでいました。
百済に危険が迫っていることを知った朝廷内では、救済のため海をわたって軍を派遣することも検討されますが、唐の戦力を怖れてのことか、あるいは侮っていたのか積極派の案は却下。そうこうしているうちに唐と新羅の連合軍は百済全土を蹂躙してしまいます。
さすがに倭国の朝廷も目が覚めたようで、さっそく船をととのえて朝鮮半島にむかいます。
これが白村江の戦いにいたるまでの推移です。
さて白村江の戦いで、倭国と百済(の敗残兵)の連合軍は、唐に大敗、惨敗、完敗。這う這うの体で逃げかえります。
こうして朝鮮半島では高句麗と百済が滅亡し、新羅は唐の冊封国となっており、いまでいう東アジアにおいて唐に相対するのは倭国のみとなっていました。
屋島城
冒頭「つかみ」の部分が一見ムダな記述のように思えるかもしれませんが、いかに当時の日本(倭国)が唐と新羅の進攻を怖れていたかが念頭にないと、対馬から畿内にかけていまにのこる古代山城の築城理由が実感として理解できないと思います。
またこのとき日本(倭国)へと逃避した多くの百済の人々がそのまま定住し、朝鮮の文化や技術をつたえた歴史も認識しておく必要があります。
いままでに訪ねた古代山城としては、奈良県の高安城➀(遺構はわずか)、岡山県・総社市の鬼ノ城➁、福岡県・太宰府近郊にある大野城➀、基肄城➀ --それぞれブログはあります。
今回は香川県の瀬戸内海を見下ろす位置にある屋島城➀、城山城➁をたずねます。
※古代山城は厳密には、日本書紀に唐や新羅からの進攻を防衛するため築城したと記録ののこる朝鮮式山城➀と、記録がなく遺構の発見・発掘によって古代山城と認定した神籠石式山城➁にわけられます。
なお朝鮮式山城とよばれる理由ですが、日本に定住した百済人から伝えられた当時の朝鮮の技術により築城されたゆえです。

そもそも屋島は「島」ではありません。
一部(北嶺)が瀬戸内海にむかって突き出してはいますが、南嶺からは地続きで、南から北の海へとのびる台地状の丘陵と思ってください。

今回歩くのは、城跡がのこる南嶺だけです。
地図の右下の屋嶋城城門まで麓から登り、北へすすんで談古嶺、西へ進み南へくだり、屋島寺に寄ったのち地図上の南嶺を一周して城門までもどります。

登り道は丸太階段で整えられています。


城門にたどり着きます。



崩落を防ぐためでしょうが、修復のやり過ぎ


瀬戸内海へと突きだす北嶺をのぞむ

いかにもテーブルマウンテンの異名どおり

山頂ちかく中央の土色部分が城門

いまは集いの広場と名づけられた公園?

見てまわった感想は、なんと言えば良いのでしょうか。
ここは山城を探索にくるのではなく、瀬戸内海の眺望を楽しみながらの山歩きを目的に訪ねることを断然おすすめします。
城山城
上から読んでも下から読んでも「しろやましろ」ではなく、「きやまじょう」と読みます。
兵庫県たつの市にも漢字で書くとおなじ城山城があり、こちらは「きのやまじょう」と読ませています。読み方はどうあれどちらも神籠石式山城であり、「城山城」という安易なネーミングを重複して使っていることからも推測できるように、古代山城はずいぶんたくさん造られたようです。


この散乱具合からここに門があったのではなく、
石を切り出して移動途中に放棄した?と思われる





説明タップリで、資料館のサンプルみたい


城山城について追記。
PCの画像では水門と石組が見られましたが、道がみつかりませんでした。
PCの画像では石積の城門が見られましたが、隣接するゴルフ場の敷地内にあり事前予約とカートでの移動限定のためそのレンタル料とが必要だそうで、気持ちが萎えてしまいました。
城山城について結論。
PCの画像で見ておくのがベストです。
【アクセス】車でまわりました。
【満足度】屋島城★★★☆☆ (城山城は評価のしようがない)