武田がつくり徳川がうばい家康が感服した諏訪原城
【静岡県・島田市 2025.12.11】
諏訪原城は万人の興味をひくほどの歴史で彩られているわけではありません。
駿河と遠江の国境にあり、そもそもは徳川氏に対する牽制の意味で武田勝頼が重臣の馬場信春に命じて造らせました。その後(長篠の戦のあと)武田家の力が弱体化したところで徳川家康に攻め落とされ、逆に駿河へ攻め込む拠点とされるだけでなく、南に孤立する高天神城への補給路を断たれることになり、ここから武田家(勝頼)は加速度的に滅亡へと向かいはじめます。
諏訪原城の名は城内に諏訪大明神(建御名方神のこと)が祀られていたことに由来します。
勝頼は信濃国諏訪地方の領主であり諏訪大社の神職を世襲する諏訪家の娘を母としています。(母が武田信玄の側室だった)
そこで徳川氏の手にわたってからは、牧之原の地にあることから牧野原城とよばれ、高天神城が陥落し武田氏が滅亡してからは城の存在意義がなくなりやがて廃城となります。
諏訪原城にはこれといった逸話や秘話も残ってはおらず、上記のこと以外に書くべきこともないのですが、遺された城跡そのものがたいへん興味深い。
武田氏が大元をつくり徳川氏が改修したそうなのですが、武田流の城づくりの特徴が色こく残されています。
武田氏が城づくりの上で得意とした「馬出」がじつに七カ所にもうけられているのも興味深いし、なによりも石垣も石塁もなく、ただ土を掘り、その掘った土をもりあげただけで圧倒的な防御をほどこす業には舌を巻きます。
諏訪原城・大手曲輪から南端一帯






馬出とは城の虎口のまえに三日月堀とセットでつくられ、
周囲を柵で囲ってここを防御拠点とし、
状況次第でみずから馬で攻め出した


本曲輪とその周辺



攻め上がらねばなりません



ちょうど中央あたりに、かすかに富士山が見える
二の曲輪




二の曲輪中馬出から大手曲輪へもどる



大井川の流れがはっきり見える
(富士山が見えやすいように拡大した)


茶畑で見かける大型のファン(扇風機)について:
茶の新芽は寒さに弱いため、霜対策として設置されています。具体的には地表から6~7m上空には温度の高い空気層があり、ファンでかき回してその温かい空気を地表に送るそうです。
諏訪原城は徳川軍の猛攻を1ヶ月以上耐えしのぎます。
この城跡をみれば守り続けれたことに納得もできます。しかし勝頼からの後詰め(援軍)もなく、ついに力尽きます。一方、攻城側の家康は苦労のすえ諏訪原城を落としてのち、その堅牢な防御に感服したといいます。
【アクセス】レンタカーにて
【満足度】★★★★★






