高野山に母の遺骨を納めるまでの顛末記

【和歌山県・高野町 2025.12.18】

昨年母が亡くなりました。70歳のときに心臓にペースメーカーを入れて80歳まで生きれば御の字と思っていたところ、本人の並外れた食い意地のつよさゆえか90歳をむかえます。このときの感想は、ここまで生きられたらどんな形で亡くなっても大往生だわなあ。
それから2年弱、享年(今風の満年齢計算で)91歳とはいえ翌月には92歳をむかえる年齢でまさに大往生。

超高齢で亡くなった母の友人知人もみな超高齢のため葬儀は「小さなお葬式」で簡単にすませ、大阪にもどる新幹線の中でこれで終わったと肩の荷を下ろしかけたところ、家内がかたわらに置いた遺骨の壺を指さしました。
これを処分(いやいや廃棄物ではないのだから言葉がわるい)処理する大仕事が残っていました。

生前母には先祖に義理立てする必要もないので骨になったら高野山に納めると告げていました。信心深いからではありません。私自身が登山が趣味で高野山なら年に一度は訪れるため、わざわざ墓参りにゆくのではなく登山のついでに墓参りができるという、たいへん合理的でじつに身勝手な理由ゆえです。
最初の案では、高野山のどこかで散骨するのが良かろうと思っていました。これなら費用もかかりません。
ところが散骨について調べてみると、条件として骨とわからないよう粉骨する必要がある、具体的には2ミリ以下。これだけ細かくするには摺鉢すりばちにいれて擂粉木棒すりこぎぼうですりつぶさねばなりません。あたまのなかに遺骨をすりつぶす自分の姿を思いえがいてさすがにぞっとしました。信仰心のない私にはばちがあたるという発想はありませんんが、なにやら寝覚めが悪くなりそうです。

高野山・極楽橋駅から大門

高野山へ納骨のため、大阪市内から南海電車で極楽橋駅へ。

極楽橋駅で電車からケーブルカーに乗り換え
平日ということもあってか乗客はまばら
山上の高野山駅でバスに乗り換えます
大門前からの眺めはイマイチどころかイマサン

けっきょく納骨は一周忌を過ぎてからということにしました。
葬儀が簡単なものだったのでせめて1年間くらいは遺骨を自宅において供養しよう、というのは言い訳で本音はどうするか考えるのが面倒になった。
そういえば「面倒なことを後回しにしてはいけない」と子供のころ母が言っていました。後回しにしているのではなく思慮深いということにしておきましょう。

さて納骨は越年ということになりましたが、葬儀後の段取りとしては位牌をつくらねばなりません。位牌といえば、そもそも戒名が決まっていません。
戒名は常識的には坊さんに決めてもらうもの。ところが私はその坊さんにさほど敬意をもっていないので、坊さんにできることなら自分にもできるだろう、すなわち戒名を自分で決めることができるはずだと考えました。
困ったときの神頼み、ならぬGoogle頼み、「戒名、自分で決める」と検索すると、自分で決めてもよいとあっさり明言しています。ただし、
「菩提寺がある場合は相談すること」 菩提寺の墓に入れるのではないから問題なし。
「宗派のルールを守ること」その宗派がどうこうが面倒くせえから寺の墓には入れない。
ダメ押しのように、戒名をじぶんで決めるメリットは経費がかからないと書かれていました。ありがたや。

Googleは仏よりも頼りがいがあると不謹慎なことを思いながら、さらに「戒名のつけ方」で検索すると、出てきます、出てきます、AIの解答だけでなく葬儀屋のHPなどにも多数あり。
実例を参照しながら読めばより分かりやすかろうと思い、先に亡くなっている父の位牌をかたわらに置いてみたのですが、「妙法常修院研性日靖居士」(これが父の戒名、日蓮宗)
いまあらためて読んでみても、なんのことやらわからないし、なによりも自分の父親の位牌だという親近感がもてない。

そもそも今の時代に戒名を絶対につけなければいけないという規則はあるんか?
ここでも仏に聞いてもわからんので、Googleで「戒名は必要か」と調べたところ、菩提寺の管理する墓に入れるのであれば必須しかし自然葬や永代供養では不要、と書かれていました。

仏教徒ではない私の個人的な見解ですが、
戒名とは仏(死者の御骨)を墓に入れるに先立ちくらい付けをするために決めます。
その人がどれだけ善行をつんだか、人のため社会のために貢献したか、そういった功徳くどくで位付けされるのが本来の姿だったはずです。
ところが宗教の世界も先立つものがないと成り立たないということで、お布施の多い人ほど位付けが高くなる、すなわち戒名で位付けを高くするには高額なお布施が必要ということです。
安い(位の低い)もので5万円ほど、高い(位も高い)ものは100万円ほど。葬儀代とは別です。
成仏するのも金次第。

大門から壇上伽藍

納骨まですこし時間があるので散歩することにしました。

大門(総門)
山麓の慈尊院から登ってくると表玄関にあたる
この大門が俗世から仏界への入口になる
高野山の町はどこにでもある街並みと変わりません
壇上伽藍の中門

そこで戒名をつくらず本名で位牌をつくることにしました。
ふたたびGoogleにて「位牌をつくる」で調べると、仏具屋やら葬儀屋やらのサイトがめじろ押し。それはそうでしょう、仏具の製作・販売といえど商売、商売ならば今の時代にネットを無視して成り立つはずもありません。  それにしても目をひくためとはいえ、「激安」とか「最短翌日お届け」のキャッチコピーはどうなのでしょうか。「はぶけるものはすべて省き徹底してコストカットした激安の位牌」、「位牌はチャチャっとつくってホイホイと配達するので最短翌日お届け」と深読みすると目も引かれるけど気持ちも引いてしまう。

数社のなかから一社をえらび注文することにしました。
先ず無記名の位牌がずらっとならび、材質やら塗りの違いやら、さらにサイズが選べてそれぞれのサイズごとに価格が表記され。
いざ選んだ位牌に名前を入れる段になると、画面に無記名の位牌の表裏両面ががアップされ、「戒名または姓名」「死亡年月日」「享年」を指示されたところに入力すると、同時に仕上がり具合が確認できるよう画面上の位牌に文字が刻まれてゆきます。さらに字体をえらび文字の色をえらび、そのたびごとに画像がかわって納得いくまで行きつ戻りつしてもサイトは不平も言わないし嫌な顔もしません。
できあがったら別の画面で再確認して注文確定をクリック。お布施のように新札を用意して封筒にいれる必要もなし、それどころかカードで支払いがおわればポイントまでついています。

ところでこの仏具屋のサイトをみているとき、画面の右上に【お寺様】と記されたボタンがありました。何気なくクリックしてみたところ、寺関係者のご注文なら30%off とありました。
要は卸売りに相当するとの考えなのでしょうが、坊さんがパソコンのサイトからせっせと位牌を注文する姿を想像したら思わず笑ってしまいました。(この話を聞かせたら老若男女に関係なくみんな大笑いします)

壇上伽藍

納骨するお寺は壇上伽藍の近く。

高野山の中門を護るのは仁王様ではなく四天王
門の左右それぞれに背中合わせで4体が立つ
金堂、根本中堂
根本中堂ばかりが有名ですが、この位置から見る西塔も格別です
東塔から西側をみる

一周忌が近づいたころから、そろそろ高野山での納骨について検討をはじめました。
個人的には高野山のなかでもっとも惹かれるのは奥の院、おそらく一般的にも一番人気があるのは奥の院でしょう。そこで奥の院に納骨できないかと調べてみたところ、できないことはないのですが条件があります。
まず、宗派は問わないけれど戒名が必要。
この問題をなんとかクリアしても、分骨(喉仏など一部の骨のみ)受け付けが原則で、全骨は不可。すなわち骨壺の骨の大半は手元に残ることに。
思うにこれは遺骨の一部を高野山奥の院に分骨して納め、残った骨は菩提寺にある先祖の墓におさめるという、信仰心の篤い方むけのマニュアルであって、信仰心の希薄なわたしには二度手間としか思えない。

そんなこんなで一周忌が過ぎた(その一周忌も特別なことはなにもせず)ころ、私の銀行口座に11万円余の振り込みがありました。
母は超高齢者ゆえ医療費負担は1割のうえ、ペースメーカーを使っているので身体障害者手帳をもっていました。細則は知りませんが、これだと医療費負担がとんでもなく安い。
病院に付き添いで行ったさいには向こう隣りにある処方箋薬局に薬を受け取りに行きますが、スーパーマーケットのMサイズくらいの手提げ袋に満杯になるほど薬をもらって、支払いは千円程度。
ついでに言っておくなら、母がうけとる年金は手取にすると私の年金よりも多い。しかも手取の多い母には〇〇給付金がたびたび加算される。

さらに高額医療費制度があります。今回の振り込みも、昨年母が暮らしていた市の役所からコレコレの払い戻しがあるので当人との関係と振込先を書いて郵送するよう指示する書類が届いていたもの。その払戻金がすっかり忘れていたころに振り込まれたということです。
母はすくなくとも金銭面で国や市町にさんざん援けてもらっています。そのうえでさらに払戻金が発生し受け取る私も富裕層ではないものの生活困窮者でもない。
そんなことを考えながら入金明細をみていると、めらめら義憤のようなものを覚えそれに駆られてその日のうちに大阪府がおこなう子供のための基金を(これもGoogleで)みつけ、全額寄付しました。

この寄付には母も賛同するだろうと思いながら送金明細をみていると、めらめら責任感のようなものを覚えそれに駆られて(その日のうちではなく)数日後に納骨する寺を(これもGoogleで)きっちりみつけ、資料請求しました。

〇〇〇院

納骨は壇上伽藍からも近い〇〇〇院に決めました
まずは本堂で遺骨をまえに供養
納骨堂内
ちなみに本堂であれ納骨堂であれすべて撮影OK

高野山の御寺で合同墓ではなく個別になった納骨堂の場合は100万円くらいが相場と聞いており、こいつぁ無理だぜと思っていたのですが、取り寄せた資料には数百万円なんてのもある反面、33万円で完結というものもありました。
内訳は納骨壇の専有料30万円、納骨法要料3万円、22年間の管理費66万円は11月末までの申し込みにかぎり無料。
(23年後からは奥の院へ移動して合祀となる)

11月末まで申し込みにかぎり66万円が無料というのはなんとも腑に落ちない。詐欺を疑うのではなく、元々0円のものを表向き有料にしスペシャルサービスとして「いまなら無料、早い者勝ち」とするのは商売の常套手段。
いままで葬儀屋やら仏具屋やらと向き合ってきて、ハッキリ良い人なんだけれどバッチリ商売人であることは認識しています。

この御寺の納骨にさいしての条件はというと、なにもありません。
宗派どころか宗教も問わず。戒名なくても可。全骨分骨どちらも可。おまけに支払いに関しては分割払い対応可、坊さんにお布施を分割にしてくれと頼んだらどんな顔をするでしょうか。
ここはラッキーと単純によろこんで11月末に間に合うよう申し込みました。
(ちなみに〇〇〇院の事務所が大阪市内にあり、やりとりはすべてその事務所と行いました。事務所にいるのは営業員と事務員、電話だけでなくメールでもLINEでも連絡は可能、完全にビジネスです)

さて納骨ですが、直接高野山まで足を運べない人は御骨を郵送できるとパンフレットに書いてあり、梱包の仕方まで図解してあります。さらに納骨法要の様子はWEBをつないで完全中継。便利を通りすぎている感が無きにしもあらず。

金剛峯寺から女人堂

往きは骨壺を抱えていたのでケーブルカーとバスを使いましたが、帰りはのんびり極楽橋駅まで歩くことにしました。

金剛峯寺・正門
金剛峯寺・主殿
女人堂へつづく道
女人堂
かつて高野山は女人禁制でここから先へは入れなかった

たとえば梅原猛氏の著書『最澄と空海』の裏表紙には「善行の積み重ねによる成仏を説く最澄、自然神との一体の即身成仏を説く空海、二人の教えは現代人の心の危機を救う」とメッセージが書かれています。
ここでいう成仏とは、迷いや煩悩を捨て(解放され)、真理を理解し、悟りの境地にいたり究極のこころの平安(解脱、涅槃)を得られることを意味します。
それまでの小乗仏教(奈良仏教)が長くきびしい修行のすえに限られた者だけがこの涅槃に到れると教えたのに対して、最澄も空海もやりかたは違えど人は誰もが解脱し仏になれると教えます(大乗仏教)
忘れてはならないのは、仏教とは本来死んだ後のことをとやかく言っているのではなく、もともとは成仏も解脱も涅槃も死を意味した言葉ではありませんでした。

どこから変わってしまったのでしょうか。
いまある仏教寺院の大半が死後のお世話をしてくれる宗教団体に変身しています。
葬儀屋や仏具屋が葬式や法事のハード面をになう組織であるなら、寺院はそれらのソフト面をになう組織とでも言いましょうか。
それならば、一般企業と同じように税金おさめてや。

女人堂から極楽橋駅へ

女人堂を過ぎて3分ほど歩くとこの分岐
この道が不動坂

極楽橋駅までのんびり歩くと書きましたが、主とする目的はケーブル代とバス代(計840円)の節約です。
ところが目算をあやまってのんびり歩いていたのでは予定の電車に間に合わないのがわかり、不動坂に入ったあたりから歩調を早め、それでも間に合いそうにないので不動坂の途中から走り始めました。
息は切れるわ足は痛めるわ、やっと極楽橋駅が見えてきたときにはホームから電車が出てゆくところでした。
次の普通電車は1時間後、いつもなら待つのですが、この日は大阪市内で知人と待ち合わせがあり次の普通電車を待っていたのでは間に合いません。
致し方なく30分後に発車の特急に。特急料金が790円、これだけしんどい思いをして節約できたのは50円也。いかにもどこか間の抜けた自分らしい。

それでも電車(はじめて乗った特急こうや)に乗りこむときには、寺での法要の際には寝落ちしないよう手にした数珠を弄っていた私が、高野山をふり返って寺の方角に軽く手を上げる余裕を取り戻していました。
「また来るわ」

【アクセス】極楽寺駅~(ケーブルカー)~高野山駅~(バス)~大門~壇上伽藍~金剛峯寺~女人堂~不動坂~極楽寺駅 / 12000歩
【満足度】今回は評価なし