新緑の柳生街道を歩いてあるいて

【奈良市 2022.5.5】
今日は、柳生街道を奈良市街から笠置まで歩き切ります。

奈良公園

近鉄電車・奈良駅からスタート。まずは奈良公園を通り抜けます。

春日山への分岐 / 右へ下ってゆきます。
すぐにターンする道があるので、その道沿いに進みます。
石畳の道がつづきます。
石敷きが整っていないので歩きづらい。

柳生街道は、奈良の街と柳生村とをむすぶ、明治時代までは唯一の道でした。
そもそもは鎌倉時代ごろから踏みかためた程度のものがあったようで、江戸時代になって奈良奉行からの命令で石を敷きつめ、りっぱな道にしあげたそうです。
それにしても騎馬で通ることはなかったものの、荷馬をひいてゆくことはあったそうなのですが、歩いてみて思うのは荷馬車の車輪がうまく石畳の上をうごいたのか。正直なところ、この石畳道はずいぶん歩きづらいです。

石仏・朝日観音

東を向いているため、朝日観音とよばれます。これとは別に、西を向いた夕日観音があります。
なお観音と呼ばれていますが、両者とも弥勒菩薩が彫られているそうです。

首切り地蔵 / 荒木又右衛門が試し切りしたとか。

この場所は、柳生街道と春日山周遊道がいったん合流するところで、またトイレが設置された休憩所もあります。
ところで、いつも思うのですが、ここのトイレ(もちろん水洗ではない)のたまった汚物は、いかにして処理しているのでしょうか。

地獄谷石仏 / 地獄のような場所ではありません。
峠の茶屋

以前ここで草団子を食べましたが、きょうは時間がないので通過します。
草団子の味は素朴でおいしかったように記憶しています。

このあたりはかつての道とはずいぶんちがうはず。
このあたりは植林地と林道のイメージです。
圓成寺 / 庭園

圓成寺につきました。ここは大きな池のある庭園が有名です。
拝観料がいるので、中には入ったことがありません。左の写真は無料エリアで撮ったものです。
ところで、この圓成寺までくると、柳生街道のうち滝坂の道は終了で、ここから柳生の里までは剣豪の道と呼ばれています。それでは、休憩5分で出発します。

ふたたび田んぼ道へ入ります。
標識はつねにあるので迷うことはありません。
夜支布山口神社

夜支布とかいて「やぎゅう」と読むそうです。
柳生街道沿いの「大柳生」エリアにある神社です。
山口神社は、朝廷が宮殿などの建物を建立するにあたり木材を切り出す際に、その山の入り口に設けていたことから名付けられたそうです。

夜支布神社内にある、立磐神社

こちらはさらに由緒ある神社です。
春日大社は20年に一度のサイクルで本殿の建て替えを行うのがしきたりですが、その撤去される古い(といっても築20年)社殿を近隣の縁ある社寺に移築します。これを「春日移し」と呼びます。
この立磐神社の本殿は、その一例です。

夜支布山口神社あたりから見た、大柳生
畑の中の水木古墳 / 古墳跡とよぶのが妥当でしょうか。
そこそこきつい登り道

やがて大柳生に背を向けて、山へと入って行きます。
ひさびさに石畳が復活しました。かつての柳生街道の名残でしょう。
この登坂はけっこう続き、柳生街道全体で唯一の(すこしばかり)きつかったところです。

この標識を境に、
下り坂にかわります。
柳生の里

坂道を下ってゆくと、突然に視界がひらけました。柳生の里に到着です。

山をくだり車道をわたってまた山へ入ると、天乃石立神社
本殿がなく、巨石を神体として祀る。
神社から奥へ進むと、「一刀石」がある。

ここは柳生氏が剣の修行をつんだ場所です。
柳生新陰流の始祖、柳生宗厳(石舟斎)はここで修行中に天狗と戦うことになります。そしてその天狗を一刀両断した、と思ったらこのように巨石が真っ二つに割れていたとの言い伝えがあります。

ところで、この話が『鬼滅の刃』の、丹治郎が巨石を切る場面と似ていることから、一時はブームになり、この石の前でおもちゃの刀をもって記念撮影するひとが後を絶たない時期もあったそうです。

柳生家の菩提寺、芳徳寺につきました。

柳生一族の墓のある芳徳寺は、拝観料200円を山門に設置された箱にいれ、自由に見て回ることができます。

芳徳寺境内
芳徳寺境内
柳生一族の墓
中央くぶんだ奥が柳生宗矩、手前右が十兵衛

ここで、柳生家についておさらいしておきましょう。
まず先に言っておきたいのは、柳生十兵衛は柳生家の歴史のなかであまり大きな存在ではありません。きっと『柳生一族の陰謀』あたりの影響で、柳生家一番の有名人になってしまったのではないでしょうか。

さて柳生家は代々ここ大和の地に根を下ろす領主で、柳生宗厳(むねよし)の代には一時期松永久秀につかえ軍勢を指揮する立場にもつきます。しかし久秀が信長にたいして謀反し取りつぶされると、その後はしだいに没落してゆきます。
この時期に宗厳は仏教に帰依し石舟斎を名のりつつ、兵法家として生きてゆくことになります。やがて徳川家康に出会い、200石の禄で兵法指南役を仰せつかります。
宗厳が自身高齢のため、息子の宗矩(むねのり)をかわりに推挙したのがむしろ幸いしたのかもしれません。宗矩は家康の跡継ぎである秀忠、さらに徳川三代目の家光の兵法指南役をつづけてつとめ、順調に知行も増え、ついには12,500石に達します。江戸時代の藩主は、知行地が1万石をこえると大名と呼ばれました。柳生家は無禄の(すなわち決まった収入のない)一兵法家から二代で大名に成りあがったわけです。
ここで十兵衛が登場します。宗矩の長男・三厳(みつよし)十兵衛は、父の存在もあって少年時代から三代目家光につかえますが、あるとき家光の逆鱗に触れ蟄居を命じられてしまいます。
なにがあったのかは不明なのですが、とにかく十兵衛は江戸をはなれて柳生へもどり、この地で剣の修行をしたり兵法書のようなものを書いたりしていたようです。
11年の後、家光の赦しもでて江戸へ赴きます。ところが宗矩の死後、家光からの言いつけで12500石の知行を弟たちと分けることになり、もっとも多くの知行をもつ十兵衛でも1万石を下回ることになってしまいます。大名とよばれたのも宗矩一代でおわり、十兵衛の代には旗本に格落ちします。さらに柳生新陰流の発展につとめようとした矢先に、44歳で急死してしまいます。
ついでに書いておきますと、十兵衛の死後、弟の宗冬が柳生家をつぎますが、ここで宗冬の活躍があったのか、たんに運がめぐってきたのかわかりませんが、ふたたび加増され柳生家は大名家に返り咲きます。

旧柳生藩家老屋敷

過去には、小説家・山岡荘八氏が別邸として所有していたそうで、死後遺言により奈良市に寄贈されたそうです。

中央の枯れ木が十兵衛杉

それでは陽も傾いてきたので、笠置(かさぎ)へ向かいます。
柳生街道はこれで終わりなのですが、ここから笠置(かさぎ、京都府)までの6kmほどの道のりも都合上、柳生街道にくわえている場合もあります。

笠置への道

笠置駅までは車がたまに通るぐらいの、静かな車道がつづきます。ずっとゆるやかな下り坂なので、6kmの道のりもそれほど長くは感じませんでした。

【アクセス】近鉄奈良駅から JR笠置駅まで 46,000歩 
【満足度】★★★★☆ (難所もなく、静かな里歩きが楽しめます)