秀吉の中国大返しを一日だけ体感する。

【兵庫県・姫路市~高砂市~加古川市~明石市 2022.6.4】

今日は秀吉による中国大返しを体感するため、1日の移動距離としてはもっとも長かったであろう姫路から明石までを歩きとおしてみることにします。
中国大返しとは、備中高松城(現在の岡山県岡山市)で毛利方とにらみ合っていた羽柴秀吉が、本能寺の変の急報をうけ直ちに畿内へ取って返すのですが、2万の軍勢が7日間で200km超を行軍してそのまま天下分け目の山崎の合戦に突入したことで、奇跡とも、あるいは作り話とも言われています。
実際のところ1日30kmペースで歩くことは可能なのか、なにはともあれ実際に歩いてみましょう。

JR姫路駅から姫路城をのぞむ

4か月ぶりに姫路にやってきました。
前回の訪問後ネットで知ったのですが、JR姫路駅には眺望所があり、大手前通りをまっすぐに姫路城を遠望することができます。

黒いボックス型建物の2階が眺望所です。
姫路城をデザインしたマンホール
国道2号線沿いの歩道・姫路城の石垣が残る。

大手前通りをまっすぐ姫路城にむかって歩くと、途中で国道2号線と交差します。
そこを右折し、先ずは御着城址へ向かいます。

高砂まで15kmの表示

秀吉の軍勢が中国大返しの際に通った道が残っているはずもないので、こんな感じのフツーの道を歩きます。

御着城の本丸跡に模して建てられた市役所東出張所

姫路駅を出てから1時間ほどで御着城址につきました。
ここは播磨の守護赤松家の家臣小寺氏の居城ですが、黒田官兵衛(黒田孝高、黒田如水)はもともとは小寺家当主・小寺政職(まさとも)の近習で、当時は小寺官兵衛となのっていました。

黒田官兵衛の功績をたたえた顕彰碑がたつ。
黒田家の廟もある。
高砂市に入りました。

御着城址を見物したあとは、ひたすら明石にむかって歩きます。

まもなく高砂市に入りました。

高御位山(たかみくらやま)登山口

車が行き交う国道2号線沿いに登山口がありました。
ずっと以前に高御位山には登ったことがあるのですが、ここから登ったという記憶がありません。

陸橋から周辺を眺める。
陸橋から周辺を眺める。
加古川市へ

高架道路(新2号線)の下をくぐって加古川市内へ入って行きます。

市名の由来でもある加古川をわたります。
明石まで18kmの表示。ちょうど半分歩きました。

イオンモールがあったのでここで昼食もかねて休憩します。
今日の兵庫県南部の最高気温は28度とのこと、30度にとどかなければ市街地を歩いていてもなんとかしのげます。

リゾート地(?)

写真で見ると一見どこかのリゾート地のようですが、じつは池の向こうに宅地がひろがる、ありふれた風景です。

明石市に入る。

さあいよいよ明石市に入りました。
市街まで13km、現在15時なので17時半迄には明石駅につくでしょう。

明石市街

で、17時の時点でここまで来ました。前方に見えるのが明石の中心街です。

明石城

さきに明石城址にむかいます。

明石公園のマンホール

明石城址はなかなか見ごたえがあるのですが、さずがに足が疲れてきて上り下りが辛いのに加え、日差しも弱くなってきれいな写真も撮れないので、次の機会にあらためてゆっくり見学することにします。

明石駅の南側に「魚の棚商店街」といって、魚屋、明石焼、佃煮屋などが多くあつまるアーケード商店街があります。そこにはテレビでも見る「さかなクン」がデザインしたマンホールの蓋がすべて一点物で計19点あります。
これだけでも一見の価値があります。そのなかで3点ほど掲載しておきます。

【アクセス】JR姫路駅9時40分発→JR明石駅18時10分着 53,000歩 38km
【満足度】★★★☆☆ (いちど体験すれば十分です)

【体感後の感想】
たしかに足、とくに足首が痛くなりましたが、それはかたいアスファルト道を歩きつづけたためです。土の道であればこれほど足首が痛くなったことはありません。
また中国大返しの際には、秀吉や重臣はいうまでもなく徒歩ではなく騎馬だったでしょう。歩いたのは若い侍たちです。若いだけでなく当時の人たちはもともと車も電車も、自転車さえもないのですから歩きなれているはずです。武器や鎧はべつに船に積んで運んだとの説が有力ですが、もしそうであったら7日間で200キロ超を歩くのはけっして不可能ではないと思います。
むしろ今回身をもって感じたのは、兵糧の手配の問題です。
最初から最後まで国道2号線沿いをずっと歩いたのですが、交通量が多いので途中でほかの道に変えようかと高砂市に入ったあたりで考えたりもしました。しかし国道2号線沿いを歩いているかぎりは、飲食店だけでなくコンビニやスーパーマーケットがちょくちょくあり、けっして飲み食いに困ることはありません。
いまの時代ですら途中の飲食のことを考えるのですから、当時としては、軍勢が歩けるか歩けないかよりも皆が飲み食いに困らないかどうか、すなわち兵糧の手配が完璧にできるかどうかが、最大のポイントだったものと思います。その兵糧の手配ができたからこそ中国大返しは実行できたのでしょう