京都で、明智光秀が敗走した道を歩いてみた。
【長岡京市~京都市 2022.9.11】
明智光秀は本能寺で信長を討ったあと、中国地方で毛利と対陣していた秀吉がそれほどまでに早く畿内へ駆け戻るとは予想もしていなかったのでしょう。山崎の合戦(天王山の戦い)に挑むまでの行動をみると、杜撰ともいえるほどにすべての準備が不十分です。
山崎の合戦は、秀吉が勝ったというよりも、光秀が負けるべくして負けたというべきです。
その敗北のあと光秀はいったんは、実娘たま(のちのガラシャ)が輿入れした細川家の元居城であった勝龍寺城へ引きますが、その勝龍寺城は小規模で秀吉の軍勢を迎え撃つには不向きなため、京をぬけて坂本城まで撤退しようと試みます。
そしていまの京都市伏見区をわずかな供廻りと通過しているとき、小栗栖という地で一説には落ち武者狩りにあって無念の死をとげます。
紫色のマークが今回訪れた場所です。
勝龍寺城
千田嘉博先生が解説「勝龍寺城は近世城郭の原点」
https://www.youtube.com/watch?v=wt0ViNPbZnM
(11分32秒)
城の石垣づくりには地蔵や墓石、五輪塔なども転用されていたようで、発掘時に多数出てきたものを並べています。
たまはこの勝龍寺城に輿入れします。
そしてここで過ごした数年間こそがたまにとっては唯一の幸せな日々だったのでしょう。
その後、丹後に転封となったため宮津城にうつりますが、じきに父光秀が謀反をおこし、その後は細川家の正室ではなく、「天下の謀反人のむすめ」として生きてゆくことになります。
勝龍寺城周辺
空海によって開かれた真言宗の寺。
ある干ばつのとき、住職である上人が祈祷をしたところ雨が降ったということで、龍神に勝ったという意味で勝龍寺と呼ばれるようになったそうです。
勝龍寺城の名もこの寺から来たものと思われます。
この空堀のさきにある樹木の生い茂ったところが神足神社です。
むかしこのあたりは神足村と呼ばれており、その土地に根付いた産土神(うぶすながみ)を祀っています。
氏神と産土神のちがい
https://shinmeiguu.com/faq/faq-0-22/
小栗栖へ
この日の京都の最高気温は35°C、9月も半ばになってまた猛暑日の復活です。
暑くて日陰をさがしながらただ黙々と歩いていたら途中の写真を撮るのをすっかり忘れていました。
ここで一枚残しておきます。
乃木神社というからには、乃木将軍が神となって祀られているわけで。
日南戦争では軍旗を奪われる失態をやらかし、日露戦争では旅順攻撃にさいして無策の強襲を繰り返しおびただしい死傷者を出すなど、なぜにこの人が神として祀られるのか、大いに疑問ではありますが – – –
そもそもここに寄ったのは、トイレを借りるためと冷たい飲み物を買うためで、目的は果たせたので深くは考えずに出発します。
小栗栖街道
小栗栖街道は細いわりに走行車は多く、歩道もあったりなかったりでたいそう危険で、趣きのない歩いてもぜんぜん楽しくない道です。
この竹藪に潜んでいた百姓(一説では秀吉の手のもの)により、光秀はわき腹を槍で突かれ、供廻りに助けられながらそのまま馬で逃げます。
しかし直にこれ以上は無理だと判断し、家臣に自らの首を討たせて息絶えます。
その光秀終焉の地がここで、家臣が遺体を隠すためここに埋めたと伝えられています。
【アクセス】阪急長岡天神駅より京阪小野駅まで歩く 29000歩
【満足度】★★☆☆☆ (とにかく暑かった)