歴史の舞台・鞆の浦を見て歩く
【広島県・福山市 2022.11.7】
鞆の浦の名は古くは7~8世紀に編まれた万葉集に登場します。
「我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」大伴旅人が歌ったものです。
我妹子とは私の妻、妻がかつて見た鞆の浦のむろの木は変わらずあるけれど、その妻はいまはもういない、という意味になりますが、この歌から大伴旅人は鞆の浦をすくなくとも2度以上訪れていることがわかります。
鞆の浦の沖では満潮時には潮流がぶつかり、干潮時にはそこを境に潮が別方向に引いてゆくため、過去には潮待ちの港として栄えたそうです。
室町時代の前の南北朝時代にはこのあたり一帯で南朝と北朝の合戦があり、さらに室町時代の終焉の戦国時代にになると、織田信長とともに上洛し15代将軍(室町幕府最後の将軍)となった足利義昭が信長に追放され、毛利氏をたよってこの地に流れつき、「鞆幕府」をひらきます。この鞆幕府は世間的には認められませんでしたが、足利義昭は当時はまだ将軍の地位についており、将軍が宣言したのであれば法的(?)にはその地が幕府といって言えないことはありません。
その後も江戸時代末期、鞆の浦沖で海援隊の船・いろは丸が紀州藩の船と衝突して沈没、その賠償交渉のため坂本龍馬が短期間ですが滞在した史実もあれば、最近では宮崎駿制作の「崖の上のポニョ」の舞台になり、「男たちの大和」や「流星ワゴン」など多数のドラマのロケ地として使われています。
紫色のマークが今回訪れた場所です。
鞆の浜(?)
こちら側は瀬戸内海に突き出した岬の、入り江とは反対側になるので、正しくは「浦」ではなく「浜」というべきなのでしょう。もっともこの日も海はおだやかで、入り江の内側(浦)なのか外側(浜)なのかわからないぐらいでしたが。
鞆の浦
鞆の浦をあるく
南禅坊はもとは今朝一番でたずねた福禅寺のとなりにあったそうで、朝鮮通信使を福禅寺の対潮楼で接待し、この南禅坊を宿舎に使っていたようです。
山中鹿之助は上月城落城とともに毛利軍にとらわれ、護送中に脱走をこころみたのか途中で首をはねられてしまいます。
そして首だけがこの地へ運ばれ、足利義昭や毛利輝元による首実検が行われたそうです。
山中鹿之助についてはここでは直接関係ないので省きます。
山中鹿之助の首塚のすぐそばに、ささやき橋はあります。全長が1メートルにもおよばない日本一短い橋だとか。
鞆の浦は沼隈半島の先端にあり、その沼隈の名は、沼名前(ぬなくま)神社から派生しているのではないでしょうか。
また「鞆」については、古代に天皇がこの神社へ行幸した際、弓矢を射るときに左手首にまいて手首をまもる鞆(とも)とよばれる武具を奉納したことから、鞆の地といわれるようになったようです。
鞆の浦の力石について
https://tomonoura.life/spot/13530/
この安国寺は毛利家の外交僧をつためた安国寺恵瓊ゆかりの寺です。
安国寺恵瓊は京都・東福寺での修業時代の師・恵心の紹介で毛利家とつながりを持ち、安芸安国寺の住持(じゅうじ、一寺の主僧)をつとめます。
やがて毛利家の外交の役もかねて京へ戻り、東福寺、南禅寺の住持をつとめ、いうなれば臨済宗の頂点にたつのですが、政にも深くかかわり、ついには豊臣秀吉の懐刀となります。しかし関ケ原の合戦における西軍(豊臣方)の敗北により、斬首刑に処せられます。
その恵瓊が京から安芸へ向かう途中に立ち寄った際、荒れ果てていたこの寺を再興するのにつとめたということです。
本堂は大正時代に火事で焼失したそうですが、その後は恵瓊に相当する人物はあらわれず、再興されることなく寂しい跡地となっています。
鞆の浦は、全国によくある再築して似非文化遺産をつくったものではなく、本物の古い建造物を管理、保存しながら昔の面影を保ち続けているようで、その点ではおおいに好感をもてます。
また最近の「崖の上のポニョ」の舞台、あるいはテレビ、映画のロケ地になったことを宣伝に使うことも大いにやってくださいと応援します。
しかし海援隊のいろは丸事件に際して、坂本龍馬が賠償の交渉にあたるため鞆の浦に滞在したのは事実ですが、その交渉期間は4日間にすぎません。けっして龍馬がこの地に惚れ込んで一年とか半年とか長逗留したのではないにもかかわらず、予期せぬかたちでの短期間の滞在をおおきく取り上げ、あたかも坂本龍馬の第二の故郷のように喧伝しているのには閉口しました。
むしろ足利義昭が鞆幕府をひらいた史実をこそ大きく取り上げるべきでしょうが、足利義昭に関しては何のインフォーメーションもありませんでした。結局足利義昭ゆかりの地をたずねながら、何も見ることなく、いろは丸の調査報告はしこたま見学してきました。
【入城料】福禅寺・対潮楼 200円、 いろは丸展示室 200円
【満足度】★★★☆☆