荒木村重の足跡をたどり摂津の地をあるく
【兵庫県・伊丹市、尼崎市 2022.11.24】
市立伊丹ミュージアムにて荒木村重に関する展示会が先週末から始まったので覗いてみることにしました。
展示会のタイトルは『信長と戦った男、荒木村重展 - 謎多き男に迫る』
多くの歴史家や学者や小説家や素人マニアが調べに調べても、いまだ判然としない荒木村重の不可解な行動の謎にどこまで迫れるのか。正直なところあまり期待はしていないのですが、なにか参考になることでも見つかればと、淡い(?)期待をもって伊丹へむかいました。
紫色のマークが今回訪れた場所です。
伊丹ミュージアム
なぜミュージアムが蔵のような建物なのか – それには理由があります。
伊丹はあまり知られていませんが、清酒の発祥の地です。
ちょうど荒木村重と同時代に生きた山中鹿之助という武人がいますが、その長男(あるいは次男?)幸元は武士であることをやめ、いまの伊丹近郊の鴻池村に住みついて商人として生きてゆきます。
そのころ鴻池村では濁酒(ドブロク)づくりが盛んでしたが、彼はそこから一工夫して清酒の製造に成功します。そのため伊丹がいまでは清酒発祥の地を名乗っているわけです。
さて山中幸元ですが、清酒造りをさらに本格化させ、息子の代には豪商と呼ばれるほどになり、そこから鴻池新田の開拓、両替商、運送業など広範囲に事業を拡大し、江戸時代末には日本最大の財閥となる鴻池家のもとを築きます。
さて肝心の荒木村重展ですが、地元伊丹ゆかりの人物ということで、ひいき目が目立ちます。
突如信長に反逆したのは、このままでは信長に食い物にされるだけで、いずれは使いつぶされてしまうことを危惧し、家臣のため家族のため意を決して暴君に反旗をひるがえした。
家族も家臣もおいてわずかな伴だけつれて有岡城を抜け出したのは、何としても毛利の援軍をたのむ、ただそれだけを胸にうしろ髪を引かれる思いでの脱出行だった。
それはそれで良いとしても、それではなぜ家族や家臣が磔(はりつけ)、焼き殺しになるのを目の前にしながら、降伏するでもなく命をなげうって救出に向かうでもなく(有岡城から身を移した尼崎城で)籠城を続けたのか。しかも尼崎城のあとには、(現在の神戸市生田にある)花隈城へのがれ、さらには(援軍を送ってもくれない)毛利を頼って尾道まで逃げる。
それだけではありません。尾道隠棲中は、我が身を恥じてみずから道糞と名乗ったそうですが(この話も真偽定かでありません)信長亡きあとにはさっさと堺にもどり、茶の湯の世界にはまり(千利休の高弟になっている)さらには秀吉のお伽衆となり、道糞あらため道薫なるしゃれた名をもらい、茶やら唄やら能やらで優雅に暮らしたとか。
それほど家臣や家族のことを真剣に考えていた人物が、こういう後半生を送る、否、送れるとはちょっと想像できません。
有岡城址
半年ほど前に有岡城址は見て歩きましたが、さきほどの展示会で得たあたらしい情報もあるので、今日は荒木村重ゆかりの地をあらためて歩いてみます。
先ほどの展示会場のビデオで、おなじみの千田嘉博氏が説明していました。
石垣の手前、地面にならんだ石は礎石で、ここに建物が建っていたということ。すなわちなぜ主城郭曲輪内側に石垣があるかの謎は、この石垣は外に向かっているのではなく、家の屋内用に造られたものだから、ということです。
有岡城そのほかの遺構
街中にはところどころですが、有岡城の遺構がいまも残っています。
3か所写真を掲載しましたが、他にもいくつかあるので興味のある方は下のサイトでご覧ください。
https://cmeg.jp/w/castles/5679
荒木村重の墓
墨染寺に荒木村重の墓でもある供養塔があります。
その左隣に小さな墓石がありますが、これは女郎塚。有岡城が落城した際、城内の婦女子がまとめて焚殺されたゆえ、その供養塔になります。荒木村重一人のものにくらべてあまりに小さいのが哀れです。
それでは尼崎へ移動します。
尼崎城
そもそも荒木村重が有岡城を脱出して転がりこんだ尼崎城は、そのころ大物城と呼ばれており、所在地も違い、この尼崎城とは別物です。
大物城については遺構はなにも残っていません。
さてこの尼崎城ですが、江戸時代に造られ明治維新後の廃城令で解体さらに昭和の戦火で焼失したものを、地元企業の創業者からの寄付をもとに2018年に再建したものだそうです。
天守の分類としては外観復興天守になります。
見た目はきれいですが、なにやら造ったばかりの映画のセットのようです。
尼崎をちょい歩き
尼崎も大きな城下町だったのでしょう、駅の南東に寺院があつまった寺町があります。
高層マンションが背景になっているのが、いかにも今風ですが。
この市庁舎は有名な建築家のデザインによるものだそうですよ。
尼崎駅からひとつ西の立花駅ちかくに七松八幡神社があります。
あまり知られていませんが、この神社境内の片隅に「七松城落城 なくなられた武士及び家族 故六百二十余人の碑」と書かれた石碑が立っています。これだけでは一般のひとには何のことかわかりません。
荒木村重につづき重臣や主だった家来衆もが逃げ出し、指導者どころか戦士を失った有岡城はまもなく落城します。そして城内に残された主に婦女子や小者にたいして信長軍による見せしめの処刑が行われます。
村重の妻子、親族は京都で斬首。
ほかの者たちは、ここ七松で、中級以下の武士の妻子122名は磔(はりつけ)となり槍で突かれ、小者の男および婦女子500余名は4軒の家に押し込められ焼き殺されたそうです。
見せしめのために殺された六百数十名の霊を慰めその事実を記録するものは、この神社の片隅に比較的新しく立てられた石碑しかありません。
【アクセス】JR伊丹駅から電車で→JR尼崎駅からJR立花駅へ
【料金】伊丹ミュージアム荒木村重展 1000円
【満足度】★★★☆☆