光秀が獲り春日局が生まれた黒井城を訪ねる

【兵庫県・丹波市 2022.11.27】
明知光秀が丹波平定を進めてゆく上で、その堅い守りゆえにさんざんてこずらされた城がありました。
丹波の豪族上がりの盟主であった赤井氏が標高356mの猪ノ口山を中心にして、山頂曲輪部分を石垣でかこみ、山稜上に砦を配して全体を要塞化した、その名は黒井城。
明知光秀が信長の命をうけて攻めたてますが、八上城の波多野氏に背後をつかれ潰走させられます。(第一次黒井城の戦い)
光秀は二度目は慎重を期してまずは上月城を囲んで身動きできないようにした上で、黒井城の支城をひとつひとつ攻めつぶして孤立化させ、ついに上月城、黒井城とつづけて落城させ丹波平定をなんとか成し遂げます。(第二次黒井城の戦い)
しかし黒井城が落ちたのは、みずから悪右衛門と名乗った猛将・赤井直正が第二次黒井城の戦いのまえに病死してしまい、嫡男・直義が幼少のため後見人がついて指揮することになったことで弱体化していたことも大いに影響していたでしょう。
光秀はこの黒井城を重臣の斎藤利三に与えます。斎藤利三は山の麓に居館をたて治世につとめますが、その時期に生まれた娘・福が成長してのちに徳川3代将軍・家光の乳母となります。福は家康の孫である家光が将軍職につくことに尽力し、大奥の公務を取り仕切るだけでなく、さらに家光の側室探しにも関わり、しだいに強大な権力を握るようになります。
この女性こそがのちの春日局です。

紫色のマークが今回訪れた場所です。

黒井城にのぼる

猪ノ口山

JR大阪駅から丹波路快速にのると、終点の福知山の手前に黒井駅があります。
黒井駅を下りると前方に、山稜に黒井城を有する猪ノ口山が見えます。
一見おだやかな山並みに見えたのですが – – –


ここが登山口(登城口)になります。
山に入るとすぐに竹藪があります。

戦国時代に火縄銃が普及すると、防衛策として切り出した竹を束ねて結わえ、それを鉄砲玉よけの盾につかったと歴史の本によく書かれています。これを最初に始めたのが織田信長の軍だとしている資料もありますが、だれでも思いつきそうなことだし、おそらくは大々的に採用したのが織田軍だったということではないでしょうか。
この竹藪も戦用に育てられたものの名残りだと案内板には書かれていました。

緩やかな道もありますが、
きびしい急坂もあります

山道を登り始めるとすぐに道が、「ゆるやかルート」と「急坂ルート」に分岐します。
今回はシューズが登山靴ではなかったので「ゆるやか」な方を選んだのですが、それでも遊歩道ではなく、あきらかに山道でした。となると「急坂ルート」はいかほどなのでしょう。

黒井城・三段曲輪

中腹にある曲輪跡
ここは三段の曲輪になっています
岩だらけの道

山道を登っていて気付いたのは、まず急坂で上り難いということ。
そして岩がずいぶんあり、これを石垣造りに使えたはずです。
すなわち堅城を築く条件がそろっていたのでしょう。

見晴らし良好

さらに見晴らしは良好ですから、敵の動きも容易に察知できます。

黒井城・山頂主城郭

山頂東曲輪にのこる石垣
二段構えになった石垣

石垣の組み方は初期の野面積みです。
この野面積みでは高く組み上げることができないので、二段構えにして防御力を高めたのでしょう。
それにしても、下段は当時のままのようですが、それに比して上段の石垣は整いすぎているようです。もしかして組み直したのかな?

二の丸から本丸
本丸基部の石垣
石垣
石垣
本丸跡(山頂)からの眺め

こうしてみると、丹波地方は山また山で、その山上に城を築けば難攻不落。
明知光秀がこの地を平定するのにたいへんな苦労をしたであろうことがよく分かります。

興禅寺

興禅寺
正面・楼門(大正時代に改築)

興禅寺は黒井城の下館(城主が山城の麓に建てた普段生活する居館)になります。
明智光秀から与えられた黒井城は住居としては適さないので、斎藤利三はここに自分たち家族がくらす屋敷を建てたとのことで、その屋敷跡が寺として存続しています。

境内 / 左が本堂
お福(春日局)産湯の井戸
駅前に立つお福の像

【アクセス】JR黒井駅より
【料金】黒井城、興禅寺とも無料
【満足度】★★★★☆