だんじりだけではない、岸和田の歴史を見て歩く
【大阪府・岸和田市 2022.12.9】
岸和田の名の由来については、南北朝時代にこのあたり一帯が海岸沿いだったからか「岸」と呼ばれており、その当時世に出てきた楠木正成、その一族である和田某がここに城を築いて拠点としたことから「岸の和田」すなわち「岸和田」になったというのがもっとも有力な説です。
その和田氏が築いた城は16世紀初期に破却して現在の場所に移築し、豊臣の時代から江戸時代にかけて幾度も改築されながら本格的な城郭に変貌してゆきます。そして徳川家康の養女の子ともあるいは妹の子とも伝わる岡部宜勝が6万石で入城し、以後13代にわたり明治初期まで大坂と紀州をむすぶ要衝の城下町として栄えます。
なお岸和田といえば、熱狂的なだんじり祭りで有名ですが、そのだんじり祭りは3代藩主の岡部長泰が京都伏見稲荷を岸和田城下に勧請し、五穀豊穣を祈っておこなった稲荷祭りが起源とされています。
今日はそんな歴史をもつ岸和田の街を歩いてみます。
紫色のマークが今回訪れた場所です。
岸和田駅からスタート
南海岸和田駅からすぐ近いので、まずは和田氏が拠点としていた昔の岸和田城に寄ってみます。
と言っても、いまではなにも遺構はなく、ここに城がありましたと告知する石碑があるだけ。
しかも名前は「岸和田古城」となっています。
南海電車の高架下をくぐって現在の岸和田城へ向かう途中、すこし回り道して寺町筋に寄ってみました。
目的は本徳寺。この寺は、(あくまで一説では)明智光秀の長男・光慶が出家して南国梵桂を号し開いた寺と伝わっています。そのためこの寺には明智光秀の唯一現存する肖像画があります。残念ながら2020年に27年ぶりかで特別公開されたそうなので次回いつ見られるかはわからないのですが、寺の境内だけでも見ておくつもりで訪ねてみました。
しかし境内も非公開のようで、これこそまさに門前払いでした。
岸城神社
岸城神社はもとは岸和田城内にあった城の鎮守で、毎年秋におこなわれる岸和田だんじり祭りはこの寺の例祭です。
岸和田城
まず岸和田城本丸の外周を、岸城神社の鎮座する北東位置からぐるっと一周時計まわりに回ってみます。
岸和田城は石垣と堀だけ残してすべて消失したため、塀をふくめ建物はすべて復興再建したものです。なかでも現天守は3層3階ですが、もとは5層5階でより立派なものだったようです。
また昔には、小高い丘上にある本丸と二の丸を合わせた姿が機(はた)織りのさい縦糸を巻くのに用いた「知切り」とよばれる中央がくびれた棒の形に似ていることから「千亀利城」と通称されていたそうです。
急ごしらえなのか石垣はずいぶん粗っぽい仕上がりです。それでも崩れずに保ったのであれば、理にかなった組み方をしているのでしょう。
ところで石垣の角は算木積みですが、その石の切断面に矢穴の痕跡が見られます。
石を割る方法
https://shirobito.jp/article/361
歴史をさがして歩く
この寺の正式名称は朝光院天性寺、浄土宗の寺院です。本尊は阿弥陀如来と地蔵菩薩で、この地蔵菩薩が蛸地蔵と通称されるため、寺自体も蛸地蔵天性寺として親しまれています。
蛸地蔵のはなし(岸和田市のHPより)
https://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/3/mukashi3-takojizonohanashi.html
【アクセス】南海岸和田駅スタート、同駅へ戻りました
【入城料】岸和田城天守のみ入城料300円
【満足度】★★★☆☆