周山城と黒塗りの明智光秀像をたずねて

【京都市京北 2022.12.18】
JR京都駅からバスで80分、高尾、栂尾を経てさらに北へ、さらに山深く入ると京北周山町に着きます。まさに山里と呼ぶにふさわしい、小さな落ち着いた町です。
明智光秀は信長から命じられた丹波平定を天正7年(1579)にやり終え、近江坂本にくわえ丹波一国を与えられます。
丹波平定の拠点として京から丹波への入り口にあたる地に(現・亀岡市)亀山城を築いたのが天正6年、平定を終えるのと前後して西丹波統治の拠点として福知山城を築いたのが天正7年。ここまではすんなり理解できるのですが、天正8年に東丹波統治の拠点として周山城を築いたとされていることには疑問があります。
亀山城は現在の亀岡駅から歩いてすぐの平地にたつ平城です。福知山城は現在の福知山市役所にちかい小丘にたつ平山城です。ちなみに坂本城は琵琶湖の湖岸と湖面にまたがって建つ水城であり平城です。
ところが周山城は、標高480mの山上につくられた難攻不落ともみえる山城です。そもそも山城は現に戦を行なっているときに攻めて守ることを最大の目的に造られるもので、その地を統治するためであれば不便さの方が先にたちます。
また坂本城、亀山城、福知山城については築城年がはっきりわかっているのに対して、この周山城については築城年も地元の文献に記録があるだけで、明智光秀がいつ築いたという公式といえる記録はありません。それだからでしょうか、明智光秀に関する本を読んでいても、坂本城、亀山城は頻繁に登場し、福知山城も頻度は減りますが書かれているのに対して、周山城のことは皆目読んだ記憶がありません。
まずは周山城をたずねてみましょう。

城山を登る

周山町城山 / 山頂に周山城があることでそう呼ばれています

JR京都駅から周山行のバスは、1~2時間に1本のわりでありますが、ほとんどの乗客は高尾、栂尾までに下車してしまい、そこからは数人での貸切状態になります。
手持無沙汰で京都駅から周山までのバス停の数を数えていたところ、50以上ありました。もっとも栂尾までの前半部はほとんどの停留所に停まりますが、後半部はほぼ通過のみです。

周山城へ登る道 / 左に茅葺き屋根の家
美しい植林された杉

北山杉

ここが大手門跡との標示

この一帯に植林されているのは北山杉です。
北山杉とはいかなるものなのか、なぜシロスギを選んで植林につとめたのか、大変興味深いサイトをみつけたのでご紹介します。
北山杉のはじまりと歴史
https://www.kyotokitayamamaruta.com/history/

北山杉の間を縫って、
ぐんぐん登って行きます
杉木立が切れると、
眺望がひらけ周山の町が見えました。
最初に現れた石垣

最初に見えた石垣は土嚢をつんで補強していました。
なおここには食料貯蔵蔵があったそうです。

虎口~二ノ丸

城郭はもうすぐです
虎口跡
二ノ丸から本丸へと上り勾配になっている
先程とは逆に、本丸手前から二の丸を見下ろす

本丸

本丸跡 / もしあったとすれば左の盛り上りが天守台?
石垣の残骸が散乱している

石垣群

尾根伝いに長く伸びる曲輪群
この曲輪群にそって石垣が残っている
石垣
石垣

石垣の組み方はずいぶん粗く、初歩的な野面積みといえます。
この周山城とはぼ同じころに光秀によって造られたと亀山城や福知山城とくらべるとずいぶん粗雑ですが、むしろ亀山城や福知山城の石垣は光秀のあとの時代に修築または改築されたものと考えるべきでしょう。そうでないと、同じ明智光秀が同じころにつくった城(の石垣)とは納得がいきません。

本丸へ上がるには石階段を使っていたようです
すこし離れたところに井戸跡もありました

最近のあたらしい調査、研究からこの周山城は明智光秀がつくったものであることはどうやら間違いないようです。また天守もあったとする説が有力なようです。
それでもなぜここに山城をつくったのかという疑問は解けません。宿題として残ったような気分です。

黒塗りの明智光秀像

慈眼寺

周山城のある城山の麓に慈眼寺はあります。
寺自体は写真に撮るにもそれほど見応えあるものではないのですが、ここには墨で黒く塗られた明智光秀像があります。
毎週土日月なら300円の志納金でだれでも拝観できますが、写真撮影は禁止のため像をみられるサイトを紹介します。まず一度ご覧ください。
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=2704

慈眼寺のパンフレットには、光秀は丹波の地でもことのほか善政を施して領民から慕われており、本能寺の変によりその光秀が逆臣となったために光秀像が破却されることを危惧して墨で黒くぬってこの像を守ったということになっています。
ではなぜこの像が明智光秀だと判断できるかというと、サイトにある画像の右脇あたりをよくみると着物に桔梗紋が描かれているのがうっすら見えるはずです。この桔梗紋で光秀像であることが容易にわかるため是が非でも隠さなければならないと、全体を黒く塗ったそうです。
さっと聞くとなるほどと納得しそうですが、なにかヘンだと思いませんか。
光秀が丹波を平定したのは本能寺の変の3年前、周山に城を築いたのは(すなわち周山の治世に本格的に取り組みはじめたのは)本能寺の変の前年にすぎません。そのわずかな間に領民たちは光秀の善政をありがたく慕い、取り急ぎまだ生きている光秀の像をつくったということでしょうか。しかもご丁寧に桔梗紋を入れて。

ちょっと話が出来過ぎているように思えます。
そもそも黒く塗ったことや桔梗紋が描かれていること、それらを別にしてじっくりこの像の顔を見ると、「善政を施してもらった人々が敬慕の気持ちをこめてつくった像」の顔とはとうてい思えません。むしろ明智光秀公は冤罪か奸計で貶められたと信じ、その光秀の怨霊を鎮めるため祀る目的でつくられた像のように見えます。
墨で黒く塗ったのがいつなのかはわかりませんが、この像は御霊神社に祀られるべきものです。

【アクセス】JR京都駅よりJRバス周山行で終点まで。周山城、慈眼寺ともバス駅からすぐ。
【料金】慈眼寺・黒塗りの光秀像拝観料のみ有料:(志納金)300円
【満足度】★★★★☆