欲張って芥川山城、高槻城に古墳も見て歩く

【大阪府・高槻市 2022.12.28】
織田信長より前に近内一円を手中におさめ、「最初の天下人」とも言われた阿波出身の三好長慶は、当時の室町将軍を追いやってのちも京の都に腰を据えることをせず、いまの大阪府高槻市の小高い山上に城を築き、そこから遠隔操作のごとく政に介入してゆきます。この城は近辺をながれる川の名にちなんで芥川山城と呼ばれ、いまでも石垣の一部や曲輪跡が残っています。
さらに勢力を拡大して行くと、つぎは大阪平野をみわたす飯盛山の山上尾根にそって新たな城を築きます。これが飯盛山城です。
三好長慶が城を築くために選んだ地をよく見ると、政の中心である京と、商売その中でも南蛮貿易の中心である堺ににらみを利かせられる場所であることに気づきます。京、堺のなかに居城を築かなかったのは、町中にみずから移り住めば京なら朝廷、堺なら商人が反発し、益少なしと見たからでしょう。幕府・将軍は軽んじていた長慶も朝廷には遠慮があり、商人には配慮があったということの証でもあります。
また戦が日常茶飯事のこの時代ですから、山上に城を構える方が守るには断然有利です。
飯盛山城は2週間ほど前に見て歩きました。【aruku-89】https://yamasan-aruku.com/aruku-89/
今日は芥川山城を訪ねてみたいと思います。

紫色のマークが今回訪れた場所です。

高槻城と高山右近

高槻城址
高槻城址 / 右に高山右近の像が見える

阪急高槻市駅から500mほどのところに高槻城址があるので、先にまわってみることにしました。
高槻城は摂津が群雄割拠の時代にこのあたりを地盤としていた士族により造られたものですが、その後三好長慶による統治の時をへて織田信長の支配下となり、紆余曲折のすえ高山右近に与えられます。

わずかに残る当時の石垣跡はこの状態でした

高山右近はみずからも敬虔な教徒でしたが、ここ高槻にキリスト教を根づかせ広めることに尽力し、一時は領民の半数以上が信者になったとのことです。


野見神社
野見神社の摂社・永井神社 / 唐門が立派

野見神社は平安時代からこの地にあったものですが、10世紀ごろに高槻城が築かれてからはその城内で城を守護する神として大切に祀られます。
しかし高山右近が城主となってからはキリスト教の布教のためには目障りだったのかすべて破却してしまい、社領もことごとく没収されてしまいます。
復活したのは江戸時代、切支丹禁止令が出され右近の時代とは逆に、キリスト教会は破壊され、神社が再築されます。

カトリック高槻教会にある、高山右近記念聖堂

高山右近記念聖堂は、右近が亡くなったマニラ郊外にあるアンティポロの聖堂を模して建てられたそうです。

安満遺跡公園

安満遺跡公園へ案内

いったん高槻市駅にもどり、1.5kmほど東へあるくと、安満遺跡を基にした公園があります。

これが遺跡?/ 安満遺跡公園入口

安満遺跡は弥生時代の遺跡です。遺存するものはわずかですが、中心街からすこし外れ、しかも徒歩でこられる、市民憩いの場として公園に仕立てたということでしょう。
園内にスタバやレストランもあり、ウォーキングやジョギングもできると同時に弥生文化について学べる、まさに多機能(?)公園です。

弥生時代の稲作の様子を再現
墓地

摂津峡

摂津峡、三好山へ向かって歩く

芥川山城は三好山の山上にあります。
三好山の名はもちろん三好長慶にちなんでのものでしょうが、この三好山の周囲をながれる芥川の渓流が摂津峡の名で観光名所となっています。
ですから今は、芥川山城を目指すと同時に三好山登山へ、さらに摂津峡散策に向かっていることになります。
ちなみに安満遺跡公園から芥川山城まで6kmほどなので歩きます。

摂津峡に到着、三好山が目の前に
摂津峡
このあたりは周遊道が整っています
歩いている分にはたいへん快適です

芥川山城

摂津峡周遊道をあるき、ここが山城への登り口

芥川山城は芥川に北から西さらに南と三方を囲まれ、結果としてこの川の流れと崖が天然の防御になっています。
いまも三好山の南側から摂津峡に入り、西側、北側と川に沿ってすすみ、東側で登り口に到着したことになります。

土砂崩れのため、多少危険なところもありました
登り始めて15分ほどで、搦め手門跡(?)

東曲輪、中央曲輪

東曲輪跡
東曲輪から中央曲輪 / 予想以上に広い
石垣も部分的にですが残っています
高さはせいぜい2mほど

主郭部(西曲輪)へ

本丸へ向かいます / 天然の虎口(?)

芥川山城の石垣は、組み方が粗いだけでなく石そのものも小さく、稚拙ともいえるレベルですが、川や崖や岩など「あらかじめそこにあったもの」をいかに効率よく防御機能として使うか、その城づくりの基本を明快に見せてくれます。
これは貴重な遺構です。

本丸跡
本丸跡地からは下界がよく見える
大手門跡に残った石垣

ここまで登ってきたのは東側の裏道からで、そのため搦め手門(裏門)を通りました。
いま下っているのは表道のようで、ここに大手門の跡が残っています。門としての建物があったのならば、そこそこ大きなものだったと思われます。

今城塚古墳

今城塚古墳・前方後円墳の「前方」にあたる側

さて、芥川山城から5kmほど南へ歩いて今城塚古墳にやってきました。
ここは26代継体天皇の墓ではないかとの説が有力で、今城塚の名についてはこの辺りに今城という城があった名残りではないかとのことです。

「前方」から「後円」をのぞむ / もしや空濠に下りられる?
濠に下りられるどころか、古墳の上を歩ける?
古墳上には自然歩道が縦横に伸びている

ビックリしました。
この古墳は水のない空濠を自由に歩けるだけでなく、前方後円墳の上を自由に歩き回って観察することができます。
これはマジか?
大阪に長年住んでいながら、市が違うとはいえ今のいままでまったく知りませんでした。

「前方」にあたる西北側
「後円」にあたる南側

他に史料館などもあるようなので日も暮れはじめているし、今日のところは簡単に切り上げて、後日きちんと予習をしたうえで出直すことにしました。
最寄りのJR摂津富田駅まであるいて帰路につきます。

【アクセス】阪急高槻市駅からスタート、ずっと歩いてJR摂津富田駅へ 33,000歩。
【料金】有料のところはありませんでした。
【満足度】★★★★☆ (ただし高槻城に関しては★☆☆☆☆)