延暦寺は日本仏教の母と呼ばれるにふさわしいか

【滋賀県・大津市坂本 2023.1.6】
延暦寺を開山したのは最澄ですが、その最澄は766年頃現在の大津市坂本に生まれます。近江国分寺にて15歳で出家し、20歳の時に奈良の東大寺で具足戒をうけて正式な僧となります。
ここまでは当時としてはありふれた話なのでしょうが、そこからの最澄上人の精進と運も味方した栄達には目をみはるものがあります。そもそも最澄は東大寺で受戒しているので華厳宗の教化をおおいに受けているはずです。このあたりはのちに真言宗の開祖となる空海と近似しており、密教への関心は必然的に秘めていたはずです。
ところが空海が華厳宗に満足できず究極的に密教を極めることになるのに対して、最澄は当時の日本ではそれほどひろまっていない法華経に傾倒してゆきます。そして仏教が最終目的として煩悩からの解脱をめざしている以上その方法を説くのが正しい仏道であって、奈良で隆盛する(いわゆる南都六宗のうち華厳宗と律宗をのぞく)法相宗、三論宗、成実宗、倶舎宗は釈迦の教えを独自に解釈して説いた論書にすぎないと批判します。
そのうえで法華経を基とする(中国の)天台宗こそが正しい仏道であると主張します。
もし最澄がそのとき奈良に居たら、あるいは20年も前であったら、奈良仏教界から袋叩きにあっていたかもしれません。
桓武天皇が平安京へ遷都した理由の一つは、堕落した奈良の仏教界から政の中心すなわち都をひき離すべきと考えてのことでした。そこに平安京の北東(鬼門)比叡山に庵をむすぶ最澄がおり、仏道の論理として奈良仏教を批判したのですから喝采したかもしれません。二十数年ぶりに再開される遣唐使に選ばれたのは当然のことでしょう。
唐ではなんとも精力的に、天台教学、禅、さらには密教を学びます。そしてもともと信仰の基礎であった法華経に、唐で学んできた思想をミックスして日本天台宗の源を築きます。難しいところは全部省いて、根底にあるものは「人はだれでも仏になれる」。
その後ここ延暦寺から、南無阿弥陀仏の浄土宗の祖・法然、浄土真宗・親鸞、踊り念仏の時宗・一遍、ひたすら座禅の曹洞宗・道元、南無妙法蓮華経の日蓮宗・日蓮など錚々たる顔ぶれの僧(ここでは思想家)が輩出されたのは、最澄がいくつもの仏教思想を総合的に取り入れて延暦寺をつくり上げた故でしょう。

※さらに空海が開祖となる真言宗がこれに加わり現在にいたる日本仏教の主流がすべてそろうことになるのですから、延暦寺こそが日本仏教の母と呼ばれるべきかもしれません。

紫色のマークが今回歩いた場所です。

比叡山に向かって

日吉大社の鳥居をくぐり、
日吉大社の横にある表参道(本坂)をめざし、
表参道登り口

JR比叡山坂本駅からここまで、ゆっくり歩いて30分ほど。(京阪坂本比叡山口駅からだと15分ほど)
穴太衆の石垣がのこる坂本の街をあるく、楽しい散歩を楽しめます。

比叡山登山については別のブログで詳しく書いています。
以下のアドレスをクリック https://yamasan-aruku.com/aruku-98/

比叡山を登る

飛び地境内にある花摘堂

表参道(本坂)を登ると、まだ半分ほど登ったところに、「飛び地境内」とよぶそうですが、ぽつんと花摘堂の跡があります。
飛び地にあるのはそれもそのはず、むかし延暦寺は女人禁制だったため女性はここまで上がってきて花を供えることで参拝していたそうです。
その花は、比叡山の峰に咲く花を摘んで供えるのが習わしで、花摘堂の名が残ったとか。

石碑が立ち並び、お寺らしい雰囲気になってきました
廟でしょうか、横目に登り続けます

東塔

そもそも延暦寺ですが、比叡山山上にある100以上の建物(伽藍)を総称してそう呼ぶのであって、延暦寺という一つの建物としての寺が存在するのではありません。(全盛期には3,000におよぶ堂塔があったそうです)
東の東塔(とうどう)、西の西塔(さいとう)、北の横川(よこわ)の三つの地域から構成され、それぞれに中核となる伽藍をもっています。

大書院 / ここは門から内へは入れませんでした
山王社
文殊楼
大講堂
根本中堂は現在改修中

根本中堂は2016年から10年かけての改修工事中で、外は囲われて何も見えません。
しかし中に入ると、工事中でなければ見られないものを見させてもらえます。
これはこれで得した気分。

根本中堂大改修工事について
https://www.hieizan.or.jp/repair

回廊屋根
本堂屋根
もういちど大講堂の前をとおり、
戒壇院の下をとおり、
東塔と阿弥陀堂に到ります
東塔と阿弥陀堂
山王院は東塔と西塔のちょうど中間点にある

山王院は目立たない小さな建物ですが、延暦寺の歴史の上では忘れてはならない存在です。
延暦寺は天台座主3世の円仁と座主5世の円珍の仏教解釈の相違から、それぞれの弟子たちが激しく対立することなります。その円珍上人が住坊としていたのがこの山王院です。
さて円珍上人の没後、両派の対立は決定的となります。円珍門流は山王院に祀られる円珍の木像を背負って山を下り、近江の園城寺(おんじょうじ。いまの通称は三井寺)に入り、残った円仁門流の山門派に対して寺門派と呼ばれるようになります。
この時から山門派と寺門派の終わりのない抗争が繰り広げられることになります。

西塔

山王院の脇から西塔へとむかう道
浄土院(伝教大師御廟)
いま見える浄土院本堂奥に、最澄上人の廟があります
常行堂と法華堂
法華堂から常行堂をみる
釈迦堂へ
釈迦堂
釈迦堂

延暦寺の歴史をみると、芳しい評判はほとんどありません。
さきに書いたように、山門派と寺門派の対立は9世紀半ばには始まっているので、最澄上人が開祖してから100年経たないうちにまっとうな成長期は終焉したことになります。
白河上皇が「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心のかなわぬもの」と平家物語の中で嘆いている、この山法師とは延暦寺の僧兵のことです。かれらは強訴(ごうそ)すなわち示威行動として、畏れ多くも日吉大社の神輿を担ぎだし、たとえ相手が帝であっても祟りがあるぞとばかりその神輿を振りながら禁門に突入してきます。こうして自分たちの要求をつねに押し付け押し通していたのです。(これには「神輿振り」との悪名がついていました)白河上皇の在位は11~12世紀です。
織田信長が軍勢を差し向けて比叡山の堂塔を焼き払い、僧侶、小僧、雑人までなで斬りにしたのは16世紀、正確には1571年ですが、これとて延暦寺のあまりの堕落ぶりに信長が怒り心頭に達したとみるのが一般的です。
21世紀になっても、いわゆる反社会的勢力(大阪では、やっちゃんと呼びます)とのつながりを暴露され、お詫びをしています。(一般企業ならお詫びではすまないのですが)

横川

西塔を後にし、横川へ向かいます

それでも今いる僧侶の人達は聖と俗を併せ呑むのではなく、純粋に聖をもとめて修行に邁進していると、その修行の様子をみると信じたくもなります。
比叡山での修行
https://www.hieizan.or.jp/pursuit

横川中堂
根本如法塔
元三大師堂(四季講堂)/ 山門より本堂をみる
元三大師堂 / 本堂より山門をみる

【アクセス】坂本の表参道から上がり、東塔、西塔、横川の順にまわり、龍ヶ池向かいの道を坂本まで下る
【料金】拝観料:東塔&西塔&横川共通 1,000円
【満足度】★★★★☆