街歩き・山歩き,城郭・史跡,京都

【京都府・宮津市 2024.10.20】まず細川家の説明から始めます。細川氏は南北朝時代に足利尊氏のもとで要職について勃興しますが、その後も脈々と家系を存続しつづけます。明治維新後も細川氏の系譜から侯爵、子爵、男爵と計8家もの華族がうまれ、平成の時代に誕生した細川姓の総理大臣もこの家系の人です。応仁の乱ののち勢力をうしなった細川氏本流にたいして、室町時代も末期になって分流ながら足利義昭をたてて幕府再興をはかったのが細川藤孝(のちの幽斎)。それを援けたのが明智光秀。光秀は(一説では)美濃の国衆であり、一時期美濃を掌握した斎藤道三と縁故関係にあり、さらに道三の愛娘・濃姫が織田信長に嫁いでいた縁から信長に接近。ここで義昭をともなって上洛し天皇の詔(みことのり)をえてあらたな将軍に据えることで、将軍家にたいしては大きな貸しを、朝廷に対しては太いパイプをつくる利を説きます。この計略はあらたな将軍となった義昭が信長の思惑どおり操り人形となることを嫌い独立独歩の態度を示したことで破綻、それどころか信長の逆鱗に触れ義昭は追放、信長は独力で天下統一にむけて驀進してゆきます。ここには明らかに歪みがあります。義昭はこのとき将軍のままなので信長は幕府の存在(意向)を完全に無視、また相手方から頼まれて義昭を新将軍たらしめる詔をくだした朝廷も完全に無視。一説では本能寺の変の黒幕は、幕府とも朝廷ともいわれています。 一方明智光秀と細川藤孝はともに信長に仕えながら戦功をあげ、城もちの家臣として取り立てられます。さらに家同士の関係強化のため信長の勧めもあって、光秀の三女・玉(のちに洗礼を受けてガラシャ)が藤孝の嫡男(跡取り息子)忠興に嫁ぎます。それから4年後、本能寺の変。もともと盟友でもあり親友でもありさらに互いの娘と息子が婚姻しているゆえ光秀としては細川家が味方してくれるのは前提としていた感すらあるのですが、想定外なことに藤孝は拒否の返事こそ寄こさないものの剃髪して引退し、家督を忠興にゆずります。明智光秀とは関わりはないし今後も関わる気はないとの宣言といえます。南北朝時代からえんえんと「家」をまもってきた細川家のこと、状況を細心に判断し光秀に与しても利もなければ与するだけの理もないと判断したのでしょう。忠興はどうかというと、明智光秀が主君・織田信長を討ったことはまぎれもなく謀反であり、「家」の存続を考えるなら光秀の実娘の玉の存在は厄介そのもので、通常ならば離縁したはずです。ところが夫の忠興には愛する妻を離縁することはできませんでした。 宮津 宮津市内にたつガラシャの像 忠興は玉を心底愛していました。しかしその愛は偏愛であり、しだいに狂愛のおもむきを帯びてきます。 宮津の城で暮らしていたときには、玉を誰にも見らないよう屋敷の一番奥の棟に監禁するように住まわせていました。もちろんいっさいの外出を禁じていたといいます。 山上から天橋立をみる 天橋立の先、入り江部分に宮津の街がひろがっています。そこに宮津城はありましたが、おそらく玉(ガラシャ)は最後まで天橋立を見ることはなかったのではないでしょうか。 忠興の狂愛についてはいくつも逸話が残っています。有名なところでは屋敷に出入りする庭師が偶然にも室内にいる玉の姿をのぞき見てしまい、そのことに激怒した忠興が即座に庭へ駆け下り刀で首をすっ飛ばしたとか。この逸話はよく耳目にふれますが、はっきり否定しているものはないのでけっこう真実なのかもしれません。 三土野へ 本能寺の変のあと、忠興は丹後半島の山中深くにある三土野の地に玉の身柄を移します。いうまでもなく大名の正室ですから身辺の世話をする侍女数名、さらに護衛のための武人と男手十数名程度がしたがいます。宮津城で暮らしたところで人に見られないよう屋敷奥に軟禁しているのですからわざわざ山奥に移さなくても良かろうにと突っ込みを入れたくもなりますが、資料によってはいったん離縁したと書いているものもあるので、もしかすると世間には離縁したこととし身柄を隠したのかもしれません。 棚田のひろがる山里 ここまででもずいぶん山奥へと入ってきましたが、三土野はさらに山奥の奥です。それどころかさらに奥へと進んだところ道が荒れはてて通行止めになっており、Uターンしていったん山をくだり違う道からあらためてアプローチすることになりました。とにかく車でたどり着くのさえ大変です。 なんとか三土野に着きました 大滝... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,京都

【京都市伏見区 2024.8.24】 「天下は一人の天下にあらず乃ち天下の天下なり」という言葉が中国の兵学書・六韜のなかにあります。天下は君主一人のものではなく万民のものだという考えで、現代の感覚からいっても至極真っ当な言葉です。この言葉を下敷きにして吉田松陰は「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と言っています。「一人の天下」の一人とは天皇のことです。単純に読むと、偏執的なまでのガチガチ尊王思想のようですが、吉田松陰がのこした名言の2つ3つでも知っていれば、そんな単純なものではなくさらに深い意味があるはずだと容易に察しがつくはずです。すなわち封建制の江戸時代から近代国家へと生まれ変わる段階で、天皇を中心としてその下(もと)で万民がまとまって国を形作りさらに国を動かしてゆく、というようなことを言いたかったのでしょう。尊王思想ではありますが、天皇は神ではなく万民と一体となっていると捉えるべきです。 ところが、その天皇を神格化することで尊崇の対象とし、万民は天皇と一体であるがゆえに日本国民であるならば天皇にはたとえ命を賭してでも忠心を尽くさねばならないと、なんとも国民にとっては理不尽な理屈を押しつけてくる連中があられます。思想的には、本来美徳であるはずの愛国主義が右傾化しさらに先鋭化して国家主義へと流れたとでも言えばよいでしょうか。(ちなみに国家主義とは国家を第一とし、国民よりも国家を優先する考え) そもそも日本において天皇は尊敬される存在でした。なかには天皇のためにみずからの命を捧げることに大義を感じた人がいました。たとえば楠木正成。もしかすると、乃木希典(乃木大将)は明治天皇が崩御された後、自分が生きている大義名分がないと考えたゆえに自決を選んだのでしょうか。ちなみに乃木希典は、冒頭にかいた吉田松陰とおなじく、松下村塾を創設した玉木文之進から薫陶を受けています。 明治天皇陵を仰ぎみる乃木神社 背後に見える丘陵に、 明治天皇の伏見桃山陵がある 明治天皇が崩御されたのが明治45年7月30日、そして9月13日に大喪の儀がおこなわれますが、その日の夜まさに明治天皇の遺体をのせた車が出発する合図の号砲がひびいた刹那に、乃木希典は妻静子とともに自刃します。乃木希典の辞世の句は、「うつし世を神去りましし大君の御あと慕ひて我は逝くなり」 明治天皇陵のある桃山に対面するように 境内の伽藍は北面しています この乃木神社は近畿を中心にした全国の民間の人々の尽力により創建されたそうです。そこには政治的な干渉はなく、純粋に乃木大将を敬慕する一般の人たちの志から生まれたと言ってよいでしょう。乃木大将は軍人としてはけっして有能ではなかったようです。じっさい旅順攻略に行き詰まっていたときには乃木を解任しろとの怒りの声は少なからずありました。乃木大将がそれほどに敬慕されたのは、軍人として有能ゆえではなく人として有徳ゆえのものでした。逸話はたくさんあります。その逸話がマスコミ(おもに新聞)で紹介されるにしたがい、乃木希典は人としての美徳を兼ね備えた徳人、武士道をまさに具現する軍神としてひろく知れわたります。そして明治天皇の大喪の日に殉死。それ自体がセンセーショナルですが、そこには天皇にみずからの命をささげようとする忠心が鮮やかに顕れたかもしれません。 学習院長時代の乃木希典の胸像 ロシアの降伏をうけて会見した水師営に植えれれていたナツメの木を植樹したもの 乃木大将を軍神として崇め、その軍神がみずからの命を賭して天皇への忠心をつらぬいたことをひろく国民に知らしめることがプロパガンダとなったのはいつからなのでしょうか。日清戦争の公的な記録については、真実をただしく伝えていた決定稿が没にされ軍部にとって都合よく改竄されていた事実が、のちにその没になった決定稿が世に現れたことで後世に知られることになりました。(渡辺延志氏の著作「日清・日露戦史の真実」による)太平洋戦争における大本営発表の欺瞞を知る我々としては、そのあとの日露戦争においても真実がそのまま伝えられたとは到底信じられません。 本殿拝殿横にある、えびす神社 よく見ると、「幸せに成り」鯛(ダジャレか?) 勝運をまねく祠... Read More | Share it now!

神社・仏閣,京都

【京都府・宇治市 2024.6.6】宇治といえば平等院が有名ですが、そこからJR線なら一駅、京阪線なら二駅北へ上がると、黄檗(おうばく)駅があります。その一風変わった駅名ですが、ちかくに黄檗宗の大本山・萬福寺があり、山号が黄檗山であることに由来しているのでしょう。※山号とは寺院の頭につける冠名のようなもので、たとえば「比叡山(山号)... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,花、紅葉見ごろ,京都

【京都市 2024.5.5】京都市街地は南側だけが大阪平野にむかっておおきく開けていますが、ほかの3方向は東山、北山、西山と通称される山々でぐるりと囲まれています。これらの山々は標高こそ高いものでも1000メートルに達する山はありませんが、歴史と観光の点から名前だけは聞いたことがあるといわれるはずの山が多数あります。これらの山々の峰やら谷やらをつたって歩くルートが、京都一周トレイルと呼ばれるものです。(冒頭で書いたように南側は平野ですから山道はなく、実際には南ルートは存在しないゆえ京都を一周はしていません)さて東山からスタートすると、伏見稲荷~東福寺前~蹴上~清水~大文字山~銀閣寺前~比叡山~大原の南面をかすめ鞍馬~貴船と歩きます。このあたりは人気スポットですから多数の観光客もいれば登山客もいます。有名ゆえその名に引かれて足を止めることもしばしばかもしれません。それはそれで良いのですが、そこから先すなわち二ノ瀬から氷室をとおり高雄・清滝にいたるルート、ここは人気とか知名度の点ではかすんでしまいますが、じつは「京都一周トレイル」を「あるく道」として見たばあい、こここそがメイン、あるいは真髄とでもいうべき場所です。今日はその京都一周トレイルの真髄を新録の下で歩いてみます。(京都一周トレイルのどこがメインであるか真髄であるかの判断は、個人的な感想によるものです) 二ノ瀬から氷室へ 二ノ瀬駅は山のなかにあります 京都一周トレイルは要所ごとに標識がある(左) 山道に入ります 出町柳から叡山電車に乗り換えたところ、二ノ瀬駅は無人駅でスマホタッチでの料金支払いについてはネットが繋がらないことがあるので、車内で支払タッチをすませるようアナウンスがありました。たしかに二ノ瀬駅ではネットはなんとか繋がっていましたが、500mほど歩いて山道に入ると、そこから先はまるで繋がりません。YAMAPなどの山のアプリを使われる方は、あらかじめ地図をダウンロードしておくことをおすすめします。 急坂もありますが、長くは続きません ここも足元をよく見て歩けば大丈夫 樹間から比叡山の山並みがチラリ 京都市街から二ノ瀬、鞍馬へつながる道の架橋 渡渉もあり、変化にとんだ道 林道に出てきました 氷室から栂尾へ 氷室の集落 唐突に開けた土地にでますが、ここが氷室(ひむろ)です。名前の由来は禁裏(皇居)におさめる氷をつくり保存していた場所で、平安時代からこの地を所領として与えられ氷の管理をする役職が代々受け継がれていたそうです。電柱はありますが、自動販売機はありません。まさに日本の原風景をみるかのようです。 杉の植林地をつき抜ける 見上げると、こんな風景が見えます 「沢の池」の横をあるく 水気の関係か新緑がことのほか鮮やか 山間を抜け、明るさが増してくる 栂尾に到着 栂尾、高雄から清滝へ 朝日峰から発する清滝川 二ノ瀬から栂尾までおよそ5時間、26000歩の歩きになります。ここからはバス便があるので歩きを終了することも可能ですが、力尽きたのでなければもうすこし歩いてください。なんといってもここから清滝までのモミジは(晩秋の紅葉も初夏の青もみじも)圧巻です。 高雄からは渓谷にそって歩きます 水量が増えると水面下に没する沈下橋 その沈下橋をわたりながら見る風景 いちだんと緑が濃い 青もみじは青もみじで幻想的なまでの緑の濃さに溜息がでそうですが、ここの紅葉はこれまた現実離れしたほどの美しさです。高雄と清滝の中間あたりにあるためここまで足を伸ばす人も少なく、ひとり静かに贅沢な時間を堪能できます。※以前最後に訪れたのはずいぶん前のため、紅葉の時期にいまなお静かに堪能できるかはわかりません。 このあたりは河原に下りて歩きます 滑るのに注意すれば難なく歩けます そして清滝に着きました 清滝バス停についたのはバスが出た直後で、次の便まで1時間あります。1時間あれば嵐山まで歩いてゆけるので、ここからさらに歩き、阪急嵐山駅から電車にのりました。 【アクセス】叡山電車・二ノ瀬駅~向山~氷室~上ノ水峠~沢の池~栂尾~高雄~清滝~嵐山~阪急嵐山駅 37000歩、7時間【満足度】★★★★★ ... Read More | Share it now!

山登り,花、紅葉見ごろ,京都

【京都市 2024.4.28】「京都 北山」で検索すると、上賀茂神社や京都府立植物園あたり一帯がアップされるはずです。たしかにこのあたりには地下鉄・北山駅もあり、一般にも北山と呼ばれてはいますが、山はありません。その「山のない北山」の南に位置する出町柳で叡山鉄道に乗って北へ、途中東に分岐する比叡山方面行きとはべつに、一路北へ向かうと終点が鞍馬駅です。このあたりの観光スポットである鞍馬寺、貴船神社は山の中腹にあります。すなわちこのあたりから「山のある北山」になります。鞍馬山、貴船山はその名のとおり両寺社が鎮座する山ゆえ最寄駅からの登山も容易ですが、それより先は交通の便がわるく、また有名な山がないこともあって登山客はほとんどいません。GWがはじまり、しずかな山で新緑を楽しむために、京都北山の雲取山をたずねました。※鞍馬山は道が崩落して立入禁止になっているとの情報があります。 鞍馬駅 「紅葉のトンネル」が有名な叡山電車、いまは青モミジ 天狗のモニュメントがびっくりな鞍馬駅 鞍馬寺前 鞍馬寺の前を通りますが、今日は参拝はしません。出町柳から鞍馬駅までの電車は頻繁にありますが、ここから雲取山の登山口近くを通るバス便は、朝8時すぎと、夕方まえの1日2本だけ。朝の便に乗るためには大阪の自宅を6時過ぎに出る必要があり、年をとっても早起きが苦手な我が身としては、好きな時間に出発する方をえらびました。すなわち登山口まで、ひたすら歩くハメになります。予測では2時間半。ですから寺を参拝している時間はありません。 百位別れ~旧花脊峠 ここはバスも走る道 百井別れまでは車道を歩きます。4kmほどの道程ですが、緩やかとはいえずっと登りのため1時間近くかかりました。 「峠下」バス停から山道へ 歩く人がいないのか道とはいえない道 旧花脊峠 百井別れから旧花脊峠にいたる山道は、荒れているというよりも歩く人もいない自然のままの谷間を歩くようなもので、沼上の地面に足が沈み、それを避けて石の上を歩くと滑り、この道をえらんだことを後悔しかけました。ところが唐突に林道に出てしばらく進むと旧花脊峠に着。ここからは道も歩きやすいし、風景も楽しめます。 寺山~寺山峠 新緑を楽しみながら歩きます ミツバツツジが残っていた 雲取山 寺山峠で通常の登山道に合流し、 谷間へ下ってゆきます 渡渉をくり返しながら 渓流にそって進みます 明るい雲取峠から北峰はすぐ 雲取山北峰からは比良山系が見えます 北峰から山頂へ向かう道も 新緑に埋まっているかのよう 雲取山頂上は残念ながら眺望なし 雲取山は通常の登山道にしたがうと東からアプローチし、東の谷間を時計と逆回りにまわって雲取峠へ、いったん北峰へ往復しそこから北から西側へとまわって山頂へ。 西の谷間をくだる さらに山頂から西の谷間をくだり、南の谷間を経てふたたび東の谷間へ回る、いわゆる周回コースになります。もちろん時計回りに歩いてもかまいません、同じ場所に戻ってきます。 西の谷間に立命館大学ワンゲル小屋があり、 その近くにクリンソウの群生地があった 西から南側へとつづく谷間を 渡渉をくり返しながら歩く このあとは寺山峠に達して同じ道を鞍馬まで戻ることになるため、ブログはここで終了します。GW期間中にもかかわらず、百井別れで山道に入って以後は誰一人会うこともなく、まことにしずかな山歩きを楽しめました。雲取山の周回コースもさることながら、旧花脊峠から雲取山へアプローチするまでの道程が想定外にたのしいものでした。なお雲取山の谷間歩きは、おびただしい回数の渡渉をくりかえします。六甲山にはおよそ20回ほどの渡渉をくり返す道がありそこは通称「トゥエンティクロス」と呼ばれていますが、そのノリでいうなら「フィフティクロス」になるでしょうか。最初のうちこそ楽しめますが、正直なところ終盤はうんざりしてきます。またこの渡渉にさいしてですが、1度や2度は足を水に浸すつもりでいてください。ぜったいに足元を濡らさないと誓って石の上ばかり探して歩いていると、必ずすべって転ぶことになります。自慢にもなりませんが、2度コケました。 【アクセス】叡電・鞍馬駅~百井別れ~旧花脊峠~寺山~寺山峠~雲取山北峰~雲取山頂上~立命館大学ワンゲル小屋~寺山峠~同じ道を鞍馬駅へ 33000歩... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,京都

【京都市 2024.3.27】大阪と京都をむすぶ電車はいくつかありますが、京阪電車はその名称からしていかにも。大阪市の中心地から線路はまっすぐ北東へのび、京都市の中心地へ入ってゆきます。終点は出町柳駅。さて今日はその出町柳駅からほど近い下鴨神社からその北にある上賀茂神社へと歩いてみたいと思います。ながい歴史をもつ両神社、下(しも)から上(かみ)へと賀茂川沿いにあるく道、それだけでも楽しみはいっぱいですが、なにかテーマがあった方がより楽しめるでしょう。ということで、神社はなぜ赤いのか、神社の赤、正確には朱色について考えてみたいと思います。 河合神社から下鴨神社へ 出町柳駅と下鴨神社周辺図 北から流れてきた賀茂川と高野川は、ちょうど出町柳駅のあたりで合流し、そこから鴨川と呼び名が変わります。下の写真は河合橋から南を向いて両川が合流するあたりを撮影したものです。 前方で2本の川が合流する/前方は賀茂大橋 なぜこんなことをクダクダいうかといえば、これからの説明に大いに関係しています。 下鴨神社/正式には賀茂御祖かもみおや神社 下鴨神社についたと思ったら、いきなり赤い鳥居は修理中なのかカバーで覆われていました。今日のテーマは神社の朱色だけに、少々困りました。 下鴨神社の摂社・河合神社 河合神社の絵馬は美麗信仰の意味で手鏡型 河合神社は玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祀り、本来は女性守護として信仰されていましたが、さらに玉依姫命がたいそう美しかったことから美麗信仰として人気を博しています。なおこの河合神社の名の由来ですが、「河が合わさる」ー賀茂川と高野川が合流するー場所との意味からきているともいわれています。下鴨神社と上賀茂神社の「かも」の字の違いについては、かたわらをながれる川が上流では「賀茂川」で下流では「鴨川」にかわることに起因してるとの説もあれば、神社が先で川のほうがそれに合わせたとの説もあり、はっきりしたことはわからないというのが実情です。 参道は大がかりに工事中 そもそも下鴨神社と上賀茂神社の関係ですが、もとは賀茂大社とよばれており、ふたつの社でセットだったようです。異なる点はというと、祀られている神様が違います。簡単にいうと、下鴨神社にはおじいさん(賀茂建角身命)とお母さん(玉依姫命)が祀られ、上賀茂神社には息子(賀茂別雷大神)が祀られています。 楼門 楼門... Read More | Share it now!

神社・仏閣,京都

【京都市・2024.2.9】京都東山にある三十三間堂は、中央のひときわ大きな中尊と、左右に正確に縦10列、横50列の各500、合計1001体の、十一面千手千眼観音像を本尊としています。それだけの数の仏像を祀るとなるとスペースも広大なものになり、とくに中尊を中心に101ならぶ横列は長大なものになります。三十三間堂は正式には蓮華王院といいますが、とにかく横に長く柱と柱の間が33あることから通称としてそう呼ばれているそうです。(横の全長は120m) この三十三間堂が長いということを読みこんだ俳句があります。「日は永し三十三間堂長し」、意外かもしれませんが、夏目漱石は生涯に小説だけでなく二千句をこえる俳句も残しています。俳句は五七五ですから、日は永し... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,城郭・史跡,京都

【京都市 2024.1.27】昨年の1月に滋賀県の坂本から比叡山に登ったのですが、日吉大社の鳥居をくぐりそうして神域に足を踏み入れてから登山を始める、それが正しい比叡山の登り方だとそのときのブログに書きました。あくまでこれは自論であり、文中でも「個人的な自論」とことわっています。ところが先日、京都に住む知人からそのブログを読んで、これでは京都が軽視されているとクレームをつけられました。京都を軽視するつもりがもちろんないだけでなく、そもそもこの私的なブログをそれほど多数の人が読んでいるはずもなく、ましてやこのブログを読んで比叡山の登山ルートを決める参考にする人となると、過去に一人でもいたのかどうか。それはそうだが、と知人が言うには、滋賀県側からの登山ルートを薦めながら京都側からの登山ルートについて何も書かないのは片手落ちではないか。なにが片手落ちなのかよくわかりませんが、学生時代に京都に出てきてその後も京都好きでずっと京都で暮らす知人と話をしているうちに、久しぶりに京都側から比叡山に登るのも悪くないかと思うようになり、別れるときには近々修学院からのぼって大原まで歩いてみると約束していました。自分の愛する街で暮らす人から我が町自慢をきくのは楽しいだけでなく、最高の情報収集になります。 修学院から雲母坂、キララ坂城跡 京都側から比叡山に登る場合、もっともポピュラーなルートは京都一周トレイルにしたがって銀閣寺手前から北白川をぬけて上がるか、修学院から音羽川をさかのぼり離宮脇をのぼるか。今回はおよそ20年前にはじめて比叡山にのぼったときに使った後者の道を選びました。 修学院駅から音羽川をさかのぼる... Read More | Share it now!

神社・仏閣,京都

【京都市 2024.1.23】金閣寺は壁面に金箔を貼っています。金価格が高騰している今、その金箔の価格はどれほどなのか興味がわきました。品のない、下世話な話になりそうですが、金閣寺の造られた歴史を考えたとき雅(みやび)な話題を求めるにも無理があります。金閣寺は足利3代将軍義満により建立されています。足利幕府は初代尊氏から15代義昭までおよそ240年にわたって続きますが、尊氏の孫にあたる義満の時代に早くもピークを迎えています。ただ義満があまりにも貪婪に足利家を隆盛させたがために、4代目以後の将軍たちの存在がかすんでしまった感は否めません。義満は朝廷より征夷大将軍の宣下をうけ足利3代将軍になると、幕府の要職につく足利家一門である細川氏などの守護大名に守られながらしだいに力をつけ、朝廷と幕府に二分化していた行政権や課税権を幕府主導にあらためます。また、いまだ南北朝にわかれていたその南朝の武力をそぎ落としたうえで、後亀山天皇から三種の神器を返還させることで南朝を消滅させます。義満の朝廷への介入は、この時点ではまだ「国のため」と(無理をしてみれば)見れないことはありません。しかし義満は征夷大将軍となって武家の頂点に立ち、朝廷に働きかけて太政大臣となって公家の頂点にも立ち、さらには寺家の頂点にも立とうと画策します。天皇の子弟が有力寺院の住職を務めた場合、それを門跡といいますが、義満は自分の子弟を次々に寺院に門跡として送り込み(もちろん出家させたうえで)、寺家での天皇家の地位を弱体化させ、自身の地歩を固めてゆきます。そして室町御所に隣接して臨済宗相国寺を開山します。(ちなみにこの相国寺の京都五山における寺格ですが、義満存命中はその意向により第一位とされ、没後に天龍寺が入れ替わり、今は第二位に位置付けられているという顛末があります。)そのようにして義満は足利家の地盤を確実なものにすると、将軍職を嫡男の義持にゆずり自らは広大な敷地をもつ北山山荘をつくってそこで院政を敷きます。この北山山荘が義満の死後その遺言により相国寺の境外塔頭・鹿苑寺となり、その境内に鏡湖池にせり出すようにして建つ舎利殿が金閣です。(伽藍のひとつである舎利殿が金色でありそれがあまりにも有名なので金閣とよばれ、金閣のある鹿苑寺が金閣寺と呼ばれるようになっています) 鹿苑寺 鐘楼 庫裏 金閣 ここから先は拝観料が要ります。観光客がもっとも少ないと読んで訪れた1月のたいへん寒い平日にもかかわらず、拝観券売り場には数十人の列がありました。 鏡湖池の周囲をめぐりながら金閣をいろいろな角度から撮影してみます。 金閣は入れないだけでなく、これ以上は近づけません はじめの3枚は曇天で日差しがないのでむしろ陰鬱なくらいです。さいごの1枚はたまたま雲の切れ間から日差しが当たり輝いて見えはしましたが、さて荘厳といえるかどうかは個人の見解によるでしょう。 鹿苑寺の金閣は1950年に住み込みの青年僧により放火され全焼します。そして1955年に再建されるのですが、当時は日本全体がまだ貧しく、一口に金閣再建といってもお金がありません。そこで政府の補助にくわえて寄付を募った結果なんとか建物は建て直すのですが、肝心の壁面に貼る金箔を用意する資金は十分ではなく、金を薄く薄くのばして薄い薄い金箔をつくり、さらに重ね貼りはせず全面に一枚だけ貼ったそうです。そのため風雨にさらされるうちに次第にはがれ下地が見えるようになってしまいます。そこで1987年に昭和の大改修が行われます。当時は日本がバブル景気の時代、お金には余裕がありました。そこで金箔を1955年当時のものから一気に5倍の厚さにし、さらに2枚ずつの重ね貼り、計20㎏の金を使用したそうです。調べてみると1987年の金相場は平均すると1gあたり2133円だそうですので、20㎏というと4266万円ということになります。もっともそれは金そのものの価格だけで、諸費用をあわせるとこのときの費用総額は7億円超だったとか。なお、今現在金価格は高騰しており1gあたり10,500円くらいになっています。すなわち金20㎏をつかって今貼り換えをするとなると、金そのものだけで2億1千万円となります。 方丈 方丈... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,京都

【京都市内 2023.12.6】2週間前に、上御霊神社と西陣を中心に応仁の乱ゆかりの地を歩きましたが、今日はその続きということで、以下の予定で歩いてみます。1)華開院(日野富子の御墓がある、ただし未公開)2)等持院(足利家の菩提寺、開祖は足利尊氏)3)龍安寺(東軍の首領であった細川勝元により建立)4)船岡山城址(西軍の山名氏が急きょ築きたてこもった激戦地のひとつ)5)大報恩寺(応仁の乱の戦火からのがれ洛中で唯一のこった仏閣、堂内に刀槍による傷跡がのこる)なお歩いているうちに、寄り道することもあるかもしれませんが、それもまた楽しみのひとつと言うことで。 華開院から等持院 JR円町駅から徒歩5分ほどのところに華開院(けかいいん)はあります。御深草天皇の勅願で建立された皇室ゆかりの寺で、公家にまじって足利将軍家の、たとえば日野富子の墓もあるそうです。皇室ゆかりの寺となると非公開のところが間々あるのですが、ここも案の定「特別公開日なし」の非公開。それがわかっていたゆえか、門前に立って入れないことを確認しただけで納得してしまい、写真を撮るのをすっかり忘れていました。ゆえに写真はありません。 等持院... Read More | Share it now!