【京都府・相楽郡笠置町~南山城村 2023.12.2】朝廷が持明院統(のちの北朝)と大覚寺統(のちの南朝)として争い南北朝時代の発端となったのは、御嵯峨天皇の皇子である後深草天皇(89代)のときに、父母の寵愛をうけていた弟がわずか11歳で譲位を受け亀山天皇(90代)となったことによります。後深草天皇を推す持明院統にとってはおもしろいはずがなく、ここで争いの火がくすぶりかけるのですが、このときは第三者的な立場にいた幕府からの仲裁もあって、持明院統と大覚寺統が交代で皇位を継承することに決まります。90代91代は大覚寺統、92代93代は持明院統、94代は大覚寺統、95代は持明院統と、順当に継がれてゆくのですが、96代の後醍醐天皇は、幕府すなわち武人が政(まつりごと)に介入し実質的に土地と民を支配する国のあり方に反撥し、天皇が中心になって国をおさめる「天皇親政」に切り替えようと画策をはじめます。そうなると幕府そのものが目障りになり、必然的に打倒幕府を企てるようになります。最初は天皇の側近が幕府により捕縛、処罰されて火が消えかけたかに見えたのですが、後醍醐天皇はこのころから執念の塊のようなひとで、ふたたび討幕運動をくわだてます。それがまた露見して幕府が掃討のため動きはじめると、変装したニセ後醍醐を比叡山に逃げさせて幕府の目をあざむきつつ、自身はいまの京都府の南端にある笠置山にあがり、そこで近隣の武人や土豪に宣下して武装蜂起します。このとき笠置山に集まった兵はおよそ3千、対する幕府軍は7万5千、圧倒的な兵力差にもかかわらず堅固な笠置山で1か月ものあいだ抵抗をつづけますが、ついに落城。この討幕戦の責任をとわれ後醍醐天皇は隠岐島へ流罪となります。ところでこの戦で時代の表舞台に登場する楠木正成ですが、笠置山から脱出してさらに河内の赤坂城(いまの下赤坂城)で抗戦をつづけたという説と、はじめから赤坂城にいて笠置山から落ち延びてきた護良親王(もりよししんのう... Read More | Share it now!
丹波・摂津・播磨の三国を半分ずつのぞむ半国山
【京都府・亀岡市 2023.11.26】京都市の西に隣接して亀岡市はあります。亀岡市は観光で有名な保津川下りの出発地点であり、ここから舟は水流にのって嵐山まで下ってゆきます。サッカーチームの京都(パープル)サンガのホームスタジアムがあることでも知られています。もうひとつ、歴史ファンにとっては明智光秀との関わりを忘れるわけにはいきません。この亀岡には明智光秀の居城であった丹波亀山城がありました。その亀山城から北西13kmの地点に半国山(はんごくやま)はあります。たいへん見晴らしのよい山で、まるで三国をそれぞれ半分ずつ見わたせるということが(現実には丹波の半分、摂津のすこし、播磨を遠くのぞむくらいですが)山の名の由来になっています。三国の半分はさておき、ともかく見晴らしがよいのは事実で、この半国山に東からつらなる尾根にそい、ちょうど山陰道を見下ろすように、室町時代には神尾山城(かんのおさんじょう)が築かれています。築城当時は砦ていどのものだったのでしょうが、明智光秀が丹波攻略の際にここを拠点とするため大修築をほどこし、石垣もつみあげた立派な山城に仕上げたのではないかと推測されています。今日は、半国山にこの神尾山城側からのぼって山頂に立ち、音羽渓谷のハイキング道を散策しながら下ってみたいと思います。 宮川バス停からスタート 宮川バス停から山へ向かいます 宮川神社参道... Read More | Share it now!
いまとなっては滑稽劇の応仁の乱、その跡地をあるく
【京都市内 2023.11.12】日本史のなかで応仁の乱はあまり人気がないようです。登場人物がやたらに多くて、学生であれば記憶するのがたいへんで、歴史ファンであれば読んでいて煩わしくなるからでしょう。しかし、いかに欲と欲とが露骨にからみ合っているかと視点を変えてみると、よくもまあ同時期に、しかも名家といわれる家柄ばかり、その内紛の醜悪を通りこした滑稽さにがぜん興味をひかれます。そもそも足利8代将軍・義政がなんともいい加減な男で、政務をこなすより花鳥風月を愛でている方が楽しいと将軍職を辞すべく後継者をもとめます。正室の日野富子は輿入れ以来それまで3人つづけて女児ばかり生んでいたためもう男児は生まれないと諦めたのか、僧籍に入っていた弟(のちの義視:よしみ)を拝み倒すようにかき口説いて還俗させ、証文までかいて次期将軍にしたてる準備をします。ところがその直後に、富子がこのタイミングで男児(のちの義尚:よしひさ)を出産します。この将軍家の家督争いが応仁の乱とよばれる騒乱の、そもそもの発端になります。 将軍の実子・義尚vs将軍の弟・義視、このように対立の構図がはっきりすればまだ救われたのでしょうが、これに当の将軍・義政が優柔不断で立ち位置がどっちつかずのため、まわりは振り回されます。さらに細川勝元vs山名宗全の主導権争い、有力守護の畠山氏、斯波氏それぞれの家督争い、大内家は貿易権益を拡大したいため、赤松氏はかつて山名氏にうばわれた領地を奪い返すため、各々の欲と欲が入り乱れ、必然のように武力衝突に繋がってゆきます。この応仁の乱がいかに入り乱れていたかを如実に示す例を挙げるなら、最初は細川勝元と山名宗全はともに義政と日野富子の実子・義尚を支持していたにもかかわらず、両者の駆け引きと反目から細川勝元は東軍の大将として義視を支援、山名宗全は西軍の大将として義尚を支援するようになります。ところがそこからさらに将軍・義政の優柔不断と弟・義視の気弱が混乱を混沌へと落としいれ、巡りめぐってというか、絡みにからんで、いつの間にか細川勝元は義視ではなく義尚を、山名宗全は義尚ではなく義視を支援という、これは「逆転」とよぶべきなのか、なんとも奇想天外な様相を呈してゆきます。 まずは山名宗全の墓 南禅寺山門... Read More | Share it now!
紅葉と北山杉と、京都の神護寺から朝日峯にのぼる
【京都市内 2023.11.8】京都には紅葉の名所がたくさんありますが、なぜ多いのか、理由はいくつか考えられます。●盆地のため秋も深まると朝夕の気温が急に下がり、日中との気温差が大きくなる。●街中を鴨川や桂川が流れ、また周囲を山に囲まれているため、山からの渓流が多く、結果的に美しく紅葉するための湿度が保たれる。●街中の場合、高層ビルがすくないため日陰ができにくく、樹木はつねに直射日光を浴びられる。そしてなによりも忘れてはならないのは、●京の都だったころには公家が暮らしており、むかしから花鳥風月を愛でる習慣があった。そこから紅葉をことのほか美しいものとして、モミジやカエデをすすんで植えた。しかもやみくもに植えたのではなく、造園の発想でより美しくみえるように配置も考えたものと思われます。(そう思える場所がたくさんあります) さて紅葉の季節になりました。今年最初の紅葉狩りは、京都市中心街から北西に位置する高雄、そこにある神護寺をたずね、朝日峯で登山を楽しみ、下山後は高山寺に寄りたいと思います。(訳あって高山寺参詣は中止しました、理由はブログの中で) 高雄、神護寺 周山街道から長い階段を下りて、高雄橋で清滝川をわたる あれ? まだ青葉?サイトで紅葉情報をしらべて「高雄・神護寺、見頃」となっていたのに、どういうことでしょう? 神護寺へはこの長い階段を登ります 楼門は立派だが、紅葉は? 神護寺伽藍 楼門... Read More | Share it now!
東寺のすべて
【京都市 2023.10.12】今年は真言宗の立教開宗1200年にあたるそうで、京都の東寺において、すべての伽藍をひらいてすべての仏像、仏具を一度に見せてくれるという一大イベントがあります。タイトルはそのまんま「東寺のすべて」。(立教開宗とは、その宗派の教義ができ上がった時。具体的に言えば、開祖すなわち真言宗の場合なら空海上人が真言密教の教えをひろく説くようになった時を指します)期間は10月9日から31日までの、わずか3週間ほど。行き逃さないよう早めに行っておきます。 東寺とは 南大門から金堂をのぞき見る 8世紀末、遷都にともない平安京の町づくりを始めるにあたって、その鎮護のため羅生門をはさんで東と西に、それぞれ東寺、西寺がつくられました。両寺は国の管理を受ける代わりに国から資金面での全面的な援助をうけられる官寺ですが、823年に当時の嵯峨天皇は、このうち東寺を空海上人に下賜し、そのためこの時から東寺は真言密教の根本道場となります。(西寺については、はっきりした記録が残っておらず、また羅生門とともに跡形もなく消滅しているため、ここでは触れません) 総合受付のある慶賀門(東門)に回る 根本道場(ねもとどうじょう)とはその宗派の総本山のことです。真言宗といえば、高野山の金剛峯寺が有名で、こちらも根本道場ですが、東寺真言宗と高野山真言宗の違いがあります。また空海上人が高野山を開山したのは816年ですから、金剛峯寺は山中に造ったことから考えても純粋に修験のため、そのあとで下賜された東寺は平安京にあり広報の意味があったのではないかと、自分なりに解釈しています。(あくまで個人的な解釈です) 「東寺のすべて」の広告 寺内にあった境内案内図より抜粋 境内伽藍を見てまわる 慶賀門を入ると、(この辺りはいつも拝観無料) 食堂(じきどう) 金堂... Read More | Share it now!
混雑する京都市内を避けて、長岡京の光明寺で大当たり
【京都府・向日市~長岡京市 2023.7.15】久しぶりに京都の寺社を見に行こうと思ったものの、よくよく考えてみるとこの日は3連休のはじまりで、しかも今日から祇園祭がいよいよ佳境にはいるため、まさに言語を絶する人出が予想されます。さらに天気予報によると京都市内の予想最高気温は36度。猛暑のもとで人でごった返すなか寺社見物をたのしむ場面はどうしてもイメージできません。そこで大阪を基点にいうと、京都市の手前にあたる向日市、長岡京市あたりでめぼしい寺社はないかと調べてみたところ、いくつか見つかりました。なかでも長岡京市にある光明寺は紅葉で有名なところですが、紅葉が美しいということは青もみじも美しいはずです。ありがたいことに(というと同じ時に京都市内を散策する人には申し訳ないのですが)、京都盆地から南に外れているためかこの一帯の予想最高気温は33度。正午過ぎまでに引き上げるようにすれば、もっとも暑い時間帯でも30度そこらとなり、これなら最後まで楽しめるレベルでいられます。 向日神社 舞楽殿から拝殿(奥) 拝殿 本社拝殿と祖霊社本殿をつなぐ渡廊下の下をくぐる 向日神社はそもそもは向神社であったようで、社伝によると718年の創建とのことですからずいぶん歴史の古い社です。護火および祈雨の神である火雷大神、五穀豊穣の向日神、さらに神武天皇とその御妃の御母である玉依姫命(玉櫛姫)と、神話の時代の神様を祀っています。 急階段を下る 渡廊下をくぐって本社の後方に抜けると、木立越しに街並みを見下すことになり、この神社が小丘の上にあることがわかります。高さでいうと100mぐらいある急階段をくだると、住宅地に出ますが、そこから長岡京市に変わります。 乙訓寺 表門 徒歩20分ほどで乙訓寺(おとくにでら)に着きます。乙訓寺は推古天皇の勅願により、聖徳太子が開祖となって建立したと伝えられていますが、とにかく関西には「聖徳太子開祖」の寺はあまりに多いので、伝承の域をでません。しかし史実として確実なことは、早良親王はここに幽閉され配流の途上でなくなり、怨霊として祟り神になった事実です。 鐘楼と本殿(奥) 早良親王(さわらしんのう)は桓武天皇の弟であり、次の天皇候補すなわち皇太子でした。桓武天皇は平城京における仏教勢力の過大な影響を憂慮して、(平安京のまえに)長岡京へ遷都を計画します。その実務をおこなう責任者が早良親王と藤原氏の実力者・藤原種継ですが、その種継が暗殺されたことから早良親王は首謀者として拘束されることになります。その拘束されていたのが、この乙訓寺です。早良親王は絶食して自分の無実を訴えますが、聞き入れられることなく、淡路島へ配流となり、その途上でまさに憤死します。 本堂 ところが早良親王の死からのち、桓武天皇の身辺で次々に凶事がおこり、これら不幸不吉な出来事が続発するのは早良親王の祟りだと噂されるようになります。そもそも祟りとか怨霊を恐れるのは、無実の相手を陥れた側のうしろめたい気持ちから出てくるもので、その意味では早良親王は無実で、桓武天皇の側になんらかの意図的なものがあったのでしょうか。早良親王は崇道天皇という追尊の位をあたえられ、さらに怨霊を鎮めるため京都や奈良にある崇道神社に祀られています。(すなわち崇道神社はすべて怨霊神社です) 光明寺 乙訓寺から徒歩15分ほどで光明寺に着きます。光明寺は、平家物語にも出てくる源氏の武将・熊谷直実(くまがいなおざね)が出家してのちに創建した寺です。平家没落の起点となった一ノ谷の戦い(いまの神戸市西側)に勝利した源氏方は、周辺の掃討をすべく個々に見回りをおこなっていました。そのとき熊谷直実は須磨の海岸で逃げ遅れた平家の将を見つけます。勝利の勢いそのままに直実が相手を組み伏せると、それは見た目もうつくしい若者で、いかにも高位のものと思われます(実は平清盛の甥にあたる平敦盛でした)。その首を取れば大殊勲です。しかし相手は自分の息子と同年くらいの若者、しかもその目は涼しげで怒りも恨みもありません。しかも直実の躊躇を見て取ったのか、若者(敦盛)はためらわず自分の首をとって手柄にするよう勧めます。直実はあらゆる感情を殺してそのときは敦盛の首を取るのですが、この事件は直実の心に大きな影を落とすことになり、やがて直実は出家して高野山に上がります。のちに直実は法然上人に出合い、その弟子となり、この光明寺を開山することになります。 総門からいきなり続くゆるやかな階段 いったん平坦部をあるくと次の階段が見えてきます 階段を上りきるとまっすぐ御影堂(本堂にあたる)へ 総門から御影堂への道は、絵画のように美しいもので、この道を歩くだけでもわざわざ来る甲斐があります。階段の傾斜が緩やかなゆえか、風景に厳かさはないのですが、優しさがあります。それゆえ総門をくぐり御影堂にたどり着くまでに、ゆっくり穏やかに仏の慈愛に包み込まれてゆくような感覚をおぼえます。 法然上人像と御影堂 御影堂から阿弥陀堂をみる 阿弥陀堂 阿弥陀堂の奥に法然上人御廟や納骨堂がありますが、一般参拝者はこれより先には立ち入れません。それでも御影堂は中まで入らせてもらえたので良しとしましょう。 御影堂から一段低くなった伽藍へ下る 勅使門... Read More | Share it now!
長谷川等伯と久蔵の障壁画を見にゆく
【京都市内 2023.5.31】室町時代末期から江戸時代初期、文化的には安土桃山と呼ばれた時代。画壇では当時絶対的な存在であった狩野家(派)に、ひとり立ち向かうかのように現れたのが長谷川信春(のちの等伯)でした。信春は能登、七尾の豊かとは言いがたい武家の家に生まれます。ところがその才能を見込まれたというよりも、むしろ次男のため武家を継ぐわけにもいかず、体よく染物屋の家に養子としてもらわれてゆきます。その家が純粋に染物だけを仕事としていたのなら、信春は一介の染物屋の親父で終わっていたはずです。ところがその家では代々日蓮宗の熱心な宗徒であったことも手伝い、家業として仏画を描いていました。信春はめきめきと筆を上げ、能登ではその名を知られるほどの仏画師になります。そして父母が亡くなったのを機に、妻と長男の久蔵をつれて絵師として一旗揚げるべく、京の都にむかいます。京では苦節の末、茶人の千利休、豊臣家の五奉行のひとり前田玄以らの知己をえて、寺院や大名屋敷の障壁画、襖絵を手掛けてゆくようになります。そのなかで長谷川等伯の人生における一番の大仕事は、秀吉が愛息・鶴丸の死を悼んで建立した祥雲禅寺の書院を埋めつくした襖絵の数々ではないでしょうか。ことし3月に観梅がてらに訪れた際には、宝物殿を新築中で見ることができなかったのですが、今日あらためて出向くことにしました。 智積院すなわち祥雲禅寺 智積院・金堂へ さきにも書きましたが、秀吉が幼くして亡くなった鶴丸の菩提寺として建立したのが、祥雲禅寺です。しかし豊臣家が滅亡し徳川の時代になると、家康はかつて秀吉から攻撃され迫害された紀州・根来寺の仏僧をまねき、祥雲禅寺の境内をそのまま真言宗の寺院として改宗したうえで改築することを許します。 大師堂と空海像(左)... Read More | Share it now!
光源氏も暮らした? 宇治の平等院をたずねる
【京都府・宇治市 2023.4.17】京都・宇治の平等院で藤の花が見ごろをむかえているとローカルニュースで伝えていたので、さっそく訪ねてみることにしました。ところで宇治の平等院(鳳凰堂)がある一帯は、源氏物語ゆかりの地と言われています。源氏物語は紫式部がのこした平安時代の朝廷を舞台にした創作物語、いまでいう小説ですが、全編54帖(54の小冊子と考えてください)で成り立っています。主人公の光源氏が主役として登場するのは、第1帖「桐壺」から第40帖「幻」まで。第41帖は「雲隠」という題名がのこっているだけで、本文が実存しません。ここは謎の部分です。そして第42帖「匂宮」は、第40帖「幻」から8年後の物語が唐突にはじまり、主人公は光源氏の次男(じつは実の子ではない?)とされる薫の君で、このとき14歳。さらに読みすすめるとわかるのですが、光源氏はどうやら「幻」の数年後、この「匂宮」を基準にすると、その5年ほど前に亡くなっています。さて薫の君が成長し、第45帖「橋姫」で宇治の地を訪ねるところから舞台は徐々に宇治に移ってゆきます。そして第54帖「夢浮橋」で物語は唐突におわります。これで終わりにしたのか、それとも何らかの事故でもあって(たとえば紫式部が亡くなったとか)筆が断たれたのか、そのあたりもよくわかりません。ともかく第45帖から54帖まではおもに宇治が舞台になっているため、この部分をまとめて「宇治十帖」と呼んでいます。それゆえ「源氏物語ゆかりの地」を名乗るのは、けっしてコジツケではありません。 平等院へ 宇治川に架かる宇治橋をわたる 宇治橋西詰には紫式部の像が 縣(あがた)神社の鳥居、平等院へは左の道 平安時代には、この宇治の地は朝廷関係者すなわち帝と公卿の別荘地だったようです。じつは平等院も元は、嵯峨天皇の第十二皇子であり左大臣をつとめた源融(みなもとのとおる)の別荘でした。そしてこの源融こそが、光源氏の実存モデルではないかと言われています。 平等院 表門を入ると、まず小ぶりの藤棚が迎えてくれます 剪定された平戸ツツジの咲く道をすすむ 平等院鳳凰堂 右横からアプローチ 阿地池ぞいに時計回りにまわってみます 鳳凰堂の名は、伝説の鳥である鳳凰が、 翼をひろげているかのようで、後世に名づけられました 真っ赤な霧島ツツジが映える 源融の別荘はゆずりゆずられ、代をへて当時の最高権力者・藤原道真の別荘となり、そのときは「宇治殿」と呼ばれます。ところがその息子の頼道が信仰心から庭もふくめたすべてを寺にあらためることになります。そのころ仏教信仰のうえでは、釈迦入滅後2000年に仏法がおとろえて余が乱れると伝えられており、西暦にすると1052年から「末法の時代」に入るとされていました。脅しではなく、身を律するようにとの戒めだったのでしょうが、これを機に藤原頼道は極楽浄土を再現するかのような美しい寺院を建立します。建物中央が阿弥陀仏をまつる阿弥陀堂で、両脇には他では見られない翼廊が配置されることにより、極楽浄土の宮殿をおもわせる姿になっています。 境内をまわる 六角堂 六角堂の柱は、鳳凰堂の廃材を再使用しているとか 精巧な装飾のある鐘... Read More | Share it now!
晩年に狂いはじめた秀吉の、終の棲家は伏見城
【京都市・伏見区 2023.4.13】豊臣秀吉は、日本史上最高最大の出世人であることは間違いないでしょう。しかも信長のように冷徹に部下を動かし敵を切り従えてゆくのではなく、情にふかく、自虐ネタで笑いを誘い、相手をいつの間にか心服させる、その武人としての処し方に好感を持ったファンも多いはずです。ところがその秀吉は、老境に達したころから急激に狂いはじめます。いまで言う認知症の兆候もあったようですが、単純に耄碌したとかでは片づけられない言動をみせます。側室とした淀君が待望の男子(捨、あるいは鶴丸)を生み、狂喜したのもつかのま2年後の1591年に夭折、同年片腕と頼んでいた弟の秀長が病没、そしてその二ヶ月ほどのちにはもう一方の片腕であったはずの千利休に切腹を命じます。さらにその翌1592年には生母の大政所が亡くなり、このあたりから完全に精神状態がおかしくなってきたようです。世継ぎができないと悲観し、甥の秀次に関白を譲ったものの、1593年に淀君がふたたび男子(拾、のちの秀頼)を生みます。この秀頼ですが秀吉とは容姿からして違い、周囲ではタネが違うと噂しているにもかかわらず、秀吉はこの子を溺愛し、あげくに一旦は自分の後継者ときめた秀次を高野山へ追いやり自害させます。さらに秀次の妻妾子女を三条河原で全員殺して遺体は穴に投げ込んで埋めさせ、関白職とともにゆずった聚楽第の城郭兼邸宅を跡形もなく破却します。 秀吉は関白職を退き太閤となりますが、そのとき聚楽第から移り住むために造ったのが伏見城です。今日はその伏見城を訪ねてみたいと思います。●分かりやすくするため、今回は歩いた順どおりでなく、故意に並べ替えをしています。 伏見指月城 伏見指月城の石垣 じつは伏見城は3代目まであります。最初に伏見の宇治川沿いに築いたのが1代目ですが、この城は完成とほぼ同時に慶長伏見地震で崩壊してしまいます。城として存在した期間があまりに短いため資料が乏しく発掘調査が行われることがなかったのですが、この地でマンションを建設する際にひょっこり遺構が出てきたそうで、いまはそのマンションの外塀沿いに石垣を遺しています。(きっと当時の石で再現したものだと思います) 伏見丘陵 伏見指月城が崩壊したあと、2kmほど離れたいま伏見丘陵とよばれる木幡山にあたらしい城を築きます。指月城の残骸を再利用することで翌年には完成、旧城と区別するため伏見木幡山城とも呼ばれます。その城で秀吉は生涯を閉じるのですが、やがて豊臣方と徳川方の相克が表面化してゆき、関ケ原の合戦に先立つ前哨戦で焼失、こちらもわずか3年しか存在しませんでした。そして関ヶ原の2年後、1602年に家康により3代目の城が造られますが、1619年に廃城となり、伏見城は完全に姿を消します。 桓武天皇・柏原陵へつづく道 ふり返ると、なだらかに隆起しているのがわかる (模擬)大手門 現在ある伏見城は、洛中洛外図をもとにつくった模擬城で歴史的な価値はありませんが、ひとつの建造物として見て純粋に美しく、興味深いものだと思います。 小天守と大天守(耐震強度の問題で入れません) それでも公園として楽しめます(入場無料) 明治天皇御陵へむかう道 その道沿いに伏見城に使われるはずだった石が残る 明治天皇御陵... Read More | Share it now!
桜満開の嵐山は、人も満杯だった
【京都市・右京区 2023.3.28】桜の見頃にかんして、関西では京都市内がもっとも早く満開情報が伝えられます。桜の品種が違うのかどうか、ともかく満開が早いということは散り始めるのも早いということで、先週半ばに満開が伝えられた嵐山はそろそろ散り始めたとのこと。桜大好きで毎年あちこち桜の名所を訪ねているにもかかわらず、関西屈指の観桜スポットである嵐山は人出が多いのを敬遠して、この時期に訪れたことがありません。今年はひとつ意を決して、人で満杯の嵐山ではなく桜が満開の嵐山をめざして、いざ出発。 渡月橋 阪急嵐山駅から渡月橋へ... Read More | Share it now!