【京都府・宇治市 2023.4.17】京都・宇治の平等院で藤の花が見ごろをむかえているとローカルニュースで伝えていたので、さっそく訪ねてみることにしました。ところで宇治の平等院(鳳凰堂)がある一帯は、源氏物語ゆかりの地と言われています。源氏物語は紫式部がのこした平安時代の朝廷を舞台にした創作物語、いまでいう小説ですが、全編54帖(54の小冊子と考えてください)で成り立っています。主人公の光源氏が主役として登場するのは、第1帖「桐壺」から第40帖「幻」まで。第41帖は「雲隠」という題名がのこっているだけで、本文が実存しません。ここは謎の部分です。そして第42帖「匂宮」は、第40帖「幻」から8年後の物語が唐突にはじまり、主人公は光源氏の次男(じつは実の子ではない?)とされる薫の君で、このとき14歳。さらに読みすすめるとわかるのですが、光源氏はどうやら「幻」の数年後、この「匂宮」を基準にすると、その5年ほど前に亡くなっています。さて薫の君が成長し、第45帖「橋姫」で宇治の地を訪ねるところから舞台は徐々に宇治に移ってゆきます。そして第54帖「夢浮橋」で物語は唐突におわります。これで終わりにしたのか、それとも何らかの事故でもあって(たとえば紫式部が亡くなったとか)筆が断たれたのか、そのあたりもよくわかりません。ともかく第45帖から54帖まではおもに宇治が舞台になっているため、この部分をまとめて「宇治十帖」と呼んでいます。それゆえ「源氏物語ゆかりの地」を名乗るのは、けっしてコジツケではありません。 平等院へ 宇治川に架かる宇治橋をわたる 宇治橋西詰には紫式部の像が 縣(あがた)神社の鳥居、平等院へは左の道 平安時代には、この宇治の地は朝廷関係者すなわち帝と公卿の別荘地だったようです。じつは平等院も元は、嵯峨天皇の第十二皇子であり左大臣をつとめた源融(みなもとのとおる)の別荘でした。そしてこの源融こそが、光源氏の実存モデルではないかと言われています。 平等院 表門を入ると、まず小ぶりの藤棚が迎えてくれます 剪定された平戸ツツジの咲く道をすすむ 平等院鳳凰堂 右横からアプローチ 阿地池ぞいに時計回りにまわってみます 鳳凰堂の名は、伝説の鳥である鳳凰が、 翼をひろげているかのようで、後世に名づけられました 真っ赤な霧島ツツジが映える 源融の別荘はゆずりゆずられ、代をへて当時の最高権力者・藤原道真の別荘となり、そのときは「宇治殿」と呼ばれます。ところがその息子の頼道が信仰心から庭もふくめたすべてを寺にあらためることになります。そのころ仏教信仰のうえでは、釈迦入滅後2000年に仏法がおとろえて余が乱れると伝えられており、西暦にすると1052年から「末法の時代」に入るとされていました。脅しではなく、身を律するようにとの戒めだったのでしょうが、これを機に藤原頼道は極楽浄土を再現するかのような美しい寺院を建立します。建物中央が阿弥陀仏をまつる阿弥陀堂で、両脇には他では見られない翼廊が配置されることにより、極楽浄土の宮殿をおもわせる姿になっています。 境内をまわる 六角堂 六角堂の柱は、鳳凰堂の廃材を再使用しているとか 精巧な装飾のある鐘... Read More | Share it now!
晩年に狂いはじめた秀吉の、終の棲家は伏見城
【京都市・伏見区 2023.4.13】豊臣秀吉は、日本史上最高最大の出世人であることは間違いないでしょう。しかも信長のように冷徹に部下を動かし敵を切り従えてゆくのではなく、情にふかく、自虐ネタで笑いを誘い、相手をいつの間にか心服させる、その武人としての処し方に好感を持ったファンも多いはずです。ところがその秀吉は、老境に達したころから急激に狂いはじめます。いまで言う認知症の兆候もあったようですが、単純に耄碌したとかでは片づけられない言動をみせます。側室とした淀君が待望の男子(捨、あるいは鶴丸)を生み、狂喜したのもつかのま2年後の1591年に夭折、同年片腕と頼んでいた弟の秀長が病没、そしてその二ヶ月ほどのちにはもう一方の片腕であったはずの千利休に切腹を命じます。さらにその翌1592年には生母の大政所が亡くなり、このあたりから完全に精神状態がおかしくなってきたようです。世継ぎができないと悲観し、甥の秀次に関白を譲ったものの、1593年に淀君がふたたび男子(拾、のちの秀頼)を生みます。この秀頼ですが秀吉とは容姿からして違い、周囲ではタネが違うと噂しているにもかかわらず、秀吉はこの子を溺愛し、あげくに一旦は自分の後継者ときめた秀次を高野山へ追いやり自害させます。さらに秀次の妻妾子女を三条河原で全員殺して遺体は穴に投げ込んで埋めさせ、関白職とともにゆずった聚楽第の城郭兼邸宅を跡形もなく破却します。 秀吉は関白職を退き太閤となりますが、そのとき聚楽第から移り住むために造ったのが伏見城です。今日はその伏見城を訪ねてみたいと思います。●分かりやすくするため、今回は歩いた順どおりでなく、故意に並べ替えをしています。 伏見指月城 伏見指月城の石垣 じつは伏見城は3代目まであります。最初に伏見の宇治川沿いに築いたのが1代目ですが、この城は完成とほぼ同時に慶長伏見地震で崩壊してしまいます。城として存在した期間があまりに短いため資料が乏しく発掘調査が行われることがなかったのですが、この地でマンションを建設する際にひょっこり遺構が出てきたそうで、いまはそのマンションの外塀沿いに石垣を遺しています。(きっと当時の石で再現したものだと思います) 伏見丘陵 伏見指月城が崩壊したあと、2kmほど離れたいま伏見丘陵とよばれる木幡山にあたらしい城を築きます。指月城の残骸を再利用することで翌年には完成、旧城と区別するため伏見木幡山城とも呼ばれます。その城で秀吉は生涯を閉じるのですが、やがて豊臣方と徳川方の相克が表面化してゆき、関ケ原の合戦に先立つ前哨戦で焼失、こちらもわずか3年しか存在しませんでした。そして関ヶ原の2年後、1602年に家康により3代目の城が造られますが、1619年に廃城となり、伏見城は完全に姿を消します。 桓武天皇・柏原陵へつづく道 ふり返ると、なだらかに隆起しているのがわかる (模擬)大手門 現在ある伏見城は、洛中洛外図をもとにつくった模擬城で歴史的な価値はありませんが、ひとつの建造物として見て純粋に美しく、興味深いものだと思います。 小天守と大天守(耐震強度の問題で入れません) それでも公園として楽しめます(入場無料) 明治天皇御陵へむかう道 その道沿いに伏見城に使われるはずだった石が残る 明治天皇御陵... Read More | Share it now!
桜満開の嵐山は、人も満杯だった
【京都市・右京区 2023.3.28】桜の見頃にかんして、関西では京都市内がもっとも早く満開情報が伝えられます。桜の品種が違うのかどうか、ともかく満開が早いということは散り始めるのも早いということで、先週半ばに満開が伝えられた嵐山はそろそろ散り始めたとのこと。桜大好きで毎年あちこち桜の名所を訪ねているにもかかわらず、関西屈指の観桜スポットである嵐山は人出が多いのを敬遠して、この時期に訪れたことがありません。今年はひとつ意を決して、人で満杯の嵐山ではなく桜が満開の嵐山をめざして、いざ出発。 渡月橋 阪急嵐山駅から渡月橋へ... Read More | Share it now!
京都で桜を見てあるき(八坂神社~知恩院~高瀬川)
【京都市・東山区~中京区 2023.3.25】待ちに待った桜の季節がやってきました。ところが毎年のことですが、桜が満開となると天気が不安定になる。関西では京都市内がもっとも早く桜が見ごろを迎えるのですが、東山界隈では満開になったとネットで確認しているものの、このところずっと空はぐずつき模様。今日はなんとか降らずにもちそうですが、明日は本降りとのことなので、万一にもその雨で桜が散ってはと心配になり、それこそ慌てて出かけることにしました。 八坂神社 四条通を東へすすむと、西楼門が見えてきます 京都観光のランドマークにもなっている西楼門 本殿と舞殿(手前) 舞殿は神前結婚の式の準備中でした 本殿の屋根が拝殿を覆う 八坂神社は本殿の屋根庇が前にのびて、拝殿もすっぽり覆ってしまう独特の構造をしています。 ところでこの八坂神社は素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祭神として祀っていますが、インドの祇園精舎の守護神である牛頭天王(ゴズテンノウ)と同一視されたことから、祇園寺と呼ばれていました。八坂神社と呼ばれるようになったのは、明治維新のさいに神仏分離令がだされ、単体の神社になってからのことです。いまは全国に約3000社ある八坂神社の総本社です。 南楼門(内からみています) 摂社、末社がならぶ東側... Read More | Share it now!
伏見稲荷大社から泉涌寺へと見て歩く
【京都市・伏見区~東山区 2023.3.14】京都伏見区にある伏見稲荷大社は、外国人による訪れたい日本の観光スポットでここ数年ずっと1位の座を保っています。なんといっても朱色の千本鳥居が写真映えするため、SNSで紹介されまくっているのだと思いますが、千本鳥居だけでなく、あまり観光客が立ち寄らないところにも、それはそれは素晴らしいスポットがあります。 伏見稲荷大社はスサノオノミコトの子である宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)を主祭神としています。宇迦とは食べ物のことで、おもに稲(米)をさします。その稲の御魂ということですから元は農耕の神だったと考えられます。時代とともに神様のパワーはアップするだけでなく、マルチになってゆくもので五穀豊穣、商売繁盛、さらに安産、万病平癒、学業成就など幅広く受け入れてくれます。そのマルチゆえなのか、稲荷神社は全国8万1千余あるといわれる神社の中でもダントツ1位の3万社を有し、その3万のなかの総本社が伏見稲荷大社です。 楼門、拝殿、本殿 表参道から楼門へ 楼門 外拝殿と本殿 お守り鳥居... Read More | Share it now!
智積院で加藤清正、山科で大石内蔵助、意外な歴史探訪
【京都市・東山区~山科区 2023.3.3】京阪電車・七条駅から東山へ、三十三間堂と国立博物館の間を抜けたところに智積院(ちしゃくいん)はあります。智積院は僧・覚鑁(かくばん)が高野山から分かれて創建した根来寺の塔頭寺院でしたが、根来寺が秀吉による根来衆攻めで焼失したため、のちに当時の住職・玄侑(げんゆう)が秀吉の死後すぐに家康の援助をえて京都において再興したものです。さらに時をへて隣接してあった、豊臣家ゆかりの祥雲寺を吸収合併するようなかたちでひとつになり、ひときわ規模の大きな寺院になります。さて豊臣秀吉の後継者として大阪冬夏の陣で歴史に登場する秀頼より前に、秀吉には跡取りとなるはずであった長男がいました。幼名を鶴丸といい、やはり淀君との間にできた男子ですが、この子は3歳にして亡くなってしまいます。祥雲寺はその鶴丸を弔うために秀吉が悲嘆のうちにつくらせた菩提寺でした。そのため今の智積院は、真言宗寺院であり鶴丸の菩提寺でもあるふたつの顔を持っています。 智積院 金堂 金堂 白梅 紅梅 紅白梅 ちょくちょく見かける、同じ木に赤と白の梅が混ざって咲く紅白梅(源平梅ともいう)ですが、これは本来は紅梅であったはずのものが、紅くなる色素が不足して白く咲いてしまうためだそうです。 なお智積院の梅は、満開には1~2週間早かったようです。 智積院と加藤清正 扉の上部・緑地に金の桔梗紋 智積院の随所には「桔梗紋」が見られます。桔梗紋といえば、明智光秀の家紋として知られていますが、これは明智家独自のものではなく、美濃・土岐氏の由緒ある家紋です。それゆえ土岐氏につながる武将はそれぞれにこの桔梗紋をつかっており、ここでは意外なことに加藤清正が関係してきます。徳川家康の援助でこの智積院が再興されたことは先に書きましたが、そのさい家康は清正に寺の普請を命じます。清正も土岐氏の系譜だったようで、清正といえば「蛇の目」の家紋が有名ですが、そちらは軍事のさいにつかい、家屋敷にはこの桔梗紋を使っていますそのような歴史があって智積院の寺紋が桔梗紋になったようです。 元祥雲寺・客殿の庭 客殿の障壁画(レプリカ) 往時はこの壁面を長谷川等伯の「楓図」と、その息子・久蔵の「桜図」が飾っていました。いまは境内にある宝物館に移して大切に保管されていますが、残念なことに4月まで宝物館改築(新築?)のため休館中でした。 法住寺 山門 境内 ここにも梅が咲いていた 法住寺は「身代わり不動明王像」で有名です。その名のとおり不動明王が身代わりになって災厄から護ってくれるというもので、公家や武家もこぞって崇めてきました。その中でも有名なのは、忠臣蔵でしられる大石内蔵助が吉良邸討入をまえにたびたび参拝し大願成熟させたとのことで、いまはその忠臣蔵四十七士の木像が安置されています。 それではこれで東山を離れ、さらに東へあるいて山科へ向かいます。 山科・大石神社 山科への近道は、走る車も少ない坂道を上がり、 峠を越えると1時間ほどで着きます/... Read More | Share it now!
京都東山・清水山から大文字山へと歩く
【京都市内 2023.1.29】京都東山といえば、いまでは東山区に属する清水寺や八坂神社など観光名所が集中する一帯を指しますが、もともとは京都の中心地から見て東に見える山々のことをいいます。北の比叡山から南の稲荷山まで東山36峰と呼ばれる、たしかに36の山が存在しますが、それらは日本アルプスのように山峰が屹立しながら連なっているのではなく、もっとも標高の高い比叡山848mを別にすれば、200m前後の山が中心で(平均標高は211m)、しかも山の連なりからは分離した吉田山(吉田神社がある)や、山と呼ぶべきなのか首をかしげたくなる円山公園のある円山などもこの中に含まれています。その意味では「東山35低山... Read More | Share it now!
延暦寺は日本仏教の母と呼ばれるにふさわしいか
【滋賀県・大津市坂本 2023.1.6】延暦寺を開山したのは最澄ですが、その最澄は766年頃現在の大津市坂本に生まれます。近江国分寺にて15歳で出家し、20歳の時に奈良の東大寺で具足戒をうけて正式な僧となります。ここまでは当時としてはありふれた話なのでしょうが、そこからの最澄上人の精進と運も味方した栄達には目をみはるものがあります。そもそも最澄は東大寺で受戒しているので華厳宗の教化をおおいに受けているはずです。このあたりはのちに真言宗の開祖となる空海と近似しており、密教への関心は必然的に秘めていたはずです。ところが空海が華厳宗に満足できず究極的に密教を極めることになるのに対して、最澄は当時の日本ではそれほどひろまっていない法華経に傾倒してゆきます。そして仏教が最終目的として煩悩からの解脱をめざしている以上その方法を説くのが正しい仏道であって、奈良で隆盛する(いわゆる南都六宗のうち華厳宗と律宗をのぞく)法相宗、三論宗、成実宗、倶舎宗は釈迦の教えを独自に解釈して説いた論書にすぎないと批判します。そのうえで法華経を基とする(中国の)天台宗こそが正しい仏道であると主張します。もし最澄がそのとき奈良に居たら、あるいは20年も前であったら、奈良仏教界から袋叩きにあっていたかもしれません。桓武天皇が平安京へ遷都した理由の一つは、堕落した奈良の仏教界から政の中心すなわち都をひき離すべきと考えてのことでした。そこに平安京の北東(鬼門)比叡山に庵をむすぶ最澄がおり、仏道の論理として奈良仏教を批判したのですから喝采したかもしれません。二十数年ぶりに再開される遣唐使に選ばれたのは当然のことでしょう。唐ではなんとも精力的に、天台教学、禅、さらには密教を学びます。そしてもともと信仰の基礎であった法華経に、唐で学んできた思想をミックスして日本天台宗の源を築きます。難しいところは全部省いて、根底にあるものは「人はだれでも仏になれる」。その後ここ延暦寺から、南無阿弥陀仏の浄土宗の祖・法然、浄土真宗・親鸞、踊り念仏の時宗・一遍、ひたすら座禅の曹洞宗・道元、南無妙法蓮華経の日蓮宗・日蓮など錚々たる顔ぶれの僧(ここでは思想家)が輩出されたのは、最澄がいくつもの仏教思想を総合的に取り入れて延暦寺をつくり上げた故でしょう。※さらに空海が開祖となる真言宗がこれに加わり現在にいたる日本仏教の主流がすべてそろうことになるのですから、延暦寺こそが日本仏教の母と呼ばれるべきかもしれません。 紫色のマークが今回歩いた場所です。 比叡山に向かって 日吉大社の鳥居をくぐり、 日吉大社の横にある表参道(本坂)をめざし、 表参道登り口 JR比叡山坂本駅からここまで、ゆっくり歩いて30分ほど。(京阪坂本比叡山口駅からだと15分ほど)穴太衆の石垣がのこる坂本の街をあるく、楽しい散歩を楽しめます。 比叡山登山については別のブログで詳しく書いています。以下のアドレスをクリック https://yamasan-aruku.com/aruku-98/ 比叡山を登る 飛び地境内にある花摘堂 表参道(本坂)を登ると、まだ半分ほど登ったところに、「飛び地境内」とよぶそうですが、ぽつんと花摘堂の跡があります。飛び地にあるのはそれもそのはず、むかし延暦寺は女人禁制だったため女性はここまで上がってきて花を供えることで参拝していたそうです。その花は、比叡山の峰に咲く花を摘んで供えるのが習わしで、花摘堂の名が残ったとか。 石碑が立ち並び、お寺らしい雰囲気になってきました 廟でしょうか、横目に登り続けます 東塔 そもそも延暦寺ですが、比叡山山上にある100以上の建物(伽藍)を総称してそう呼ぶのであって、延暦寺という一つの建物としての寺が存在するのではありません。(全盛期には3,000におよぶ堂塔があったそうです)東の東塔(とうどう)、西の西塔(さいとう)、北の横川(よこわ)の三つの地域から構成され、それぞれに中核となる伽藍をもっています。 大書院... Read More | Share it now!
周山城と黒塗りの明智光秀像をたずねて
【京都市京北... Read More | Share it now!
福知山の古社・古刹をたずね歩く
【京都府・福知山市、綾部市 2022.11.28】古い寺のことをそのまんまですと、古寺(こじ)といいます。しかし古寺には、古びた寺、古くて荒れた寺というようなネガティブな意味合いも含んでいるようです。名刹(めいさつ)とは、由緒ある有名な寺のことを言います。「由緒ある」とか「有名」とはなにを基準にして言うのかがはっきりしませんが、なんとなく感じているのは、新興宗教でないものを「由緒ある」とし、その中でも空海(弘法大使)が開山に直接かかわったとか織田信長の菩提寺だとか「名の有る人が関係している」、あるいは寺そのものが美しくて訪れる人が絶えない「ひろく名を知られた」というような場合に「有名」としているように思います。ただし名刹には「古い」ことは必須ではありません。由緒ある古い寺のことは古刹(こさつ)と呼ぶのが一般的です。ただし古刹は「有名」であることを条件として含んでいません。古い神社のことはあまり一般的ではないですが、古社と呼ぶようです。ただし「古寺」のように、古びたとか古くて荒れたといったネガティブな意味合いはどうやら無いようです。なぜかといえば、これは推測ですが、明治初期の神仏分離令により神道(神社における日本古来の信仰)を国教とし、神社は国がまもる(管理する)ものとしたため、国が管理しているのだから古いものはあっても古びたものはない、ましてや古くて荒れたものがあるはずがない、という半強制的な発想からではないでしょうか。それでは名刹、古刹にあたる表記はといえば、神社は社格とか社号とかよばれるもので厳密にランク付けされており、世間一般の価値判断で由緒あるとか有名とか決める余地はない、ということになります。 さて前置きが長くなりました。今日は福知山とその近郊の古刹と古社を回れるだけ回ってみようと思います。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 元伊勢外宮・豊受大神社 元伊勢外宮 中央が拝殿、奥が本殿、両脇は別宮、後方に末社 元伊勢とは天照大神(あまてらすおおみかみ)をはじめいま伊勢神宮に祀られている神様が、伊勢へうつる前に鎮座した、言うなれば伊勢の神様たちの故郷のような場所をいいます。たしかにとんでもなく由緒ある神社ではありますが、日本の昔の神様たちは旅から旅を続けていたため、この「伊勢の故郷」がいま日本中に自称他称ふくめて60以上もあるそうです。 そのなかでもここ福知山の元伊勢は、立派な建物が残っているぶん見ごたえあるのではないでしょうか。元伊勢外宮は、もともと衣食住の守り神である豊受大神(とようけだいじん)を祀っていたところ、天照大神のお告げにより共に伊勢に移られたそうです。なにかこの地に不満があったのでしょうか? そこのところは古い話なのでわかりませんが。 本殿... Read More | Share it now!