【兵庫県・豊岡市 2024.10.21】昨年夏に出石の街を訪れた際にはまず名産の出石蕎麦をたべて腹ごしらえし、出石城を見学しました。その出石城の裏手からさらに山道をのぼって背後にそびえる有子山の山上の城を見に行くつもりだったのですが、その日はたしか最高気温が37度に達する猛暑日で、急峻な坂道を目の前につぎの一歩が踏み出せず断念。それ以後忘れていたわけではありませんが、再訪はのびのびになっていました。 きっかけは些細な記事です。天空の城として全国にしられる竹田城を築いたのが山名家の全盛期をきずいた山名持豊(宗全)ですが、その持豊から5代あとの祐豊(すけとよ)は此隅山(このすみやま)城を本拠にしていたものの織田信長の下ではたらく秀吉に攻められ降伏、その後信長の許しをえてあらたに有子山城を築きます。その有子山ですが、落城した此隅山城が「子盗み」を連想させて縁起が悪いので、もとは別の名だった山を「有り子」山と名づけたのだとか。真偽のほどはわかりませんが、「そうだ、出石へ有子山城を見にいこう」と思い立つ発端にはなりました。 出石城から 出石城入口... Read More | Share it now!
天空の城・竹田城は雲海が見られなくても大満足
【兵庫県・朝来市 2024.10.21】鎌倉時代から清和源氏を先祖として歴史に名をつらねる山名氏は室町時代に全盛期をむかえます。山名兄弟で全国66ヶ国のうち山陰から丹後一帯の11か国を守護領国とし、そのため「六分の一殿」と呼ばれています。応仁の乱といえば足利義政や日野富子が主役の将軍家の後継争いが中心に取り上げられますが、そもそもの発端は細川勝元と山名宗全の幕府内における勢力争いが引き金になっています。その山名宗全、これは出家後の名で、諱(いみな)は足利4代将軍義持の一字を賜り、持豊。このひとが但馬の守護であったときに播磨の赤松氏にそなえて国境に築いたのが竹田城です。 竹田城といえば天空の城、雲海に浮かぶ城、あまりにもビジュアル面が有名であり、縁あってこのブログを見てくださっている方にとっても城の歴史はどうでもええわ、が本音かもしれませんのでさっそく見学に向かいましょう。 山上の竹田城 朝7時前 秋の竹田城といえば雲海があまりにも有名です。ネット等で調べたところ夜明けから8時ごろまでがチャンスとのことなので、7時前に着くよう早起きして来てみましたが、雲は左端のほうにわずかに見られるのみ。これは今年の秋の異常にたかい気温のため霧が発生しにくい、あるいは夜明けごろには見られてもすぐに気温が上がるため早々に消滅してしまうようです。今年のように高温がつづく秋には、見頃は11月も後半からと考えた方がよいのでしょうか。 古城山の山頂に竹田城の石垣がみえる日差で空が青くひろがる7時半頃から登城開始 表米神社から登ることにします 丸太階段道をえんえんと登る 以前(10年ぐらい前)に訪れたときにはJR竹田駅の裏から出発する道を登ったので、今回は500mほど南西にある表米神社から登る道をえらびました。結論からいうと、これはオススメできません。ふだん山登りに親しんでいない人にとっては、「修行に来たんとちゃうでぇ」と一声あげたくなることでしょう。 竹田城 縄張図を見かけたので掲載します 縄張としての竹田城の特徴をいうと、中心に本丸があり、北と南に両翼のように曲輪がのびて端がともにひろい千畳曲輪になっていること。山麓の駅裏から登っても表米神社からでもいったんは同じところにたどり着きます。そこが料金所になっています。料金所からは登り専用道があり北千畳よこにたどりつきます。そして城跡を縦走するようにあるいて南千畳から下ると、料金所から50mほど離れた場所に下りてきます。そこから駅裏へ下るのも表米神社へ下りるのも可能です。 北曲輪群 城郭が見えてきました 城内へ 桝形虎口になった大手門 大手門をあがって振り返る 二ノ丸から三の丸方向をみる 天守台方向をみる 北二ノ丸、三の丸をみる 南曲輪と天守台をみる 南曲輪群 天守台 天守台から南曲輪群を見わたす 天守台と周辺 南二ノ丸から天守台と北曲輪群の石垣をみる このあたりの石垣の石はきれいに削られ、 このあたりの石は粗く、築かれた時代が早い 下城する 駅裏道は九十九折りで歩きやすい 気持ち良さげな東屋がありました 駅裏は城下町の風情をのこす 寺院越しに山上の城郭をのぞむ 【アクセス】JR竹田駅より登城口はすぐ、登城口から城まで徒歩30~40分【入城料】500円【満足度】★★★★★ ... Read More | Share it now!
六甲山系の前衛峰・荒地山から東お多福山へ
【兵庫県・芦屋市 2024.7.3】六甲山系は概して山肌が岩だらけの様相を呈していますが、そのなかでも芦屋市街から六甲山最高峰へ向かう途中で越えてゆく荒地山の奇岩、巨岩におおわれた道はもっとも顕著と言えるかもしれません。ところが荒地山を越えそのまま最高峰をめざすのではなく、途中雨ヶ峠で右(東)に折れて東お多福山へ向かうと、これが六甲山系かと目をうたがうような穏やかな草原が眼前にひろがります。本日大阪市の予想最高気温は34℃、奈良市は35℃、京都市は36℃、そんな中で神戸周辺だけは32℃。今日登る山として六甲山を選んだのは、もちろんこの予想最高気温も考慮にいれてのことです。※夏の間神戸だけは最高気温がつねに大阪市より2~3℃低いのですが、兵庫県内でもさらに西の姫路市あたりになると大阪市と変わらず、また内陸に入ると京都市くらい暑くなります。 高座の滝 芦屋川沿いに登山口へ向かう 芦屋は関西では高級住宅地として知られていますが、いろいろと規制があるようで、阪急芦屋川駅から登山口までおよそ1㎞の間コンビニはおろか自販機すらありません。山登りの際には飲食物の現地調達は考えない方が賢明です。 高座の滝に寄るため通常とは別ルート(滝道)を進みます 高座の滝... Read More | Share it now!
日本一低い小野アルプスは歩きごたえ十分
【兵庫県・小野市 2024.6.29】 アルプスALPSが、ラテン語のALPESを英語読みにしたもので、語源をたどれば雪をかぶった白い山の峰というような意味があるということは以前書きました。また日本国内では最初に日本アルプスがその名で紹介されてからのち、ご当地アルプスがいまでは50以上も存在するということも書きました。さて今日ですが、兵庫県の中南部瀬戸内海から20kmほど内陸に入った小野市にある、その名も小野アルプスを歩いてみます。この小野アルプス、小野市の観光協会が日本一低いアルプスと宣伝しているくらいで、たしかにそのなかの最高峰ですら標高は199メートル、ほかの峰はすべて150m前後です。それだけ聞くとハイキングを想像するのですが、端から端まであるくと無名峰をふくめて12山の頂を極めることになり、すなわち全行程がアップダウンの連続で、歩きごたえは十分といえます。 小野市観光協会の案内より抜粋引用... Read More | Share it now!
大坂城の記憶から淡路島にのこる洲本城を訪ねる
【兵庫県・洲本市 2024.5.9】いまの洲本市の中心地は地理的に淡路島の中心にあるだけでなく、戦国時代のころから淡路一国の政治、経済の中心地として栄えていました。この地に最初に城を築いたのは三好氏の家臣であり淡路水軍をひきいた安宅氏といわれています。世が戦国時代に突入すると、中国地方の大勢力である毛利氏と東から勢力を拡大する織田信長との間に挟まれ、淡路のなかでも両勢力のどちらにつくか意見が割れますが、安宅信康は織田氏へ、それに対して菅平右衛門は毛利氏につきます。淡路での攻防はまず先手を取ったのは毛利氏。淡路島の北端にある信康のまもる岩屋城が落とされると平右衛門は岩屋城主にとって代わります。しかしほどなく信長の命をうけた秀吉により淡路が平定されると、平右衛門は遁走していずこかに身を潜めます。ところが本能寺の変により信長が謀殺されると、明智光秀に呼応した長曾我部氏の後押しもあって平右衛門は表舞台に復活し、その時は仙石秀久の下にあった洲本城を電光石火というよりもドサクサ紛れに奪い取ります。ところがところが、それもつかの間のことでいわゆる中国大返しで備前から畿内へもどる秀吉の遠隔操作による派兵であっという間に追い出され四国の長曾我部氏のもとへ逃れたということです。菅平右衛門は戦下手だったのでしょうか、そこのところはよくわかりませんが、この武将の最期には胸を打たれるものがあります。平右衛門は紆余曲折をへて秀吉の家臣となり、水軍をひきいて朝鮮の役にも加わったようです。そして関ヶ原の戦いでは西軍についていたため敗軍となり領地を没収され蟄居します。ここでまた表舞台から消えるのですが、やがて大坂冬の陣で豊臣方が敗れると、徳川方との講和条約として大阪城の外堀を埋めることになります。そのさい平右衛門は堀をうめる工事の一部を担当させられます。ところが講和条約では外堀だけを埋めることとなっていたにもかかわらず、工事が進むにつれて当たり前のように内堀までも埋めるよう指示が下されます。平右衛門はこの講和条件を無視する行為を武士の道に反すると反発し、一歩もひかぬ抵抗をしめしたのでしょうか、ついに切腹を命じられます。この話が記憶に残っていて、菅平右衛門から洲本城に関心を持つにいたりました。 平城 街の南に位置する洲本城... Read More | Share it now!
中山連山から大峰山、そして福知山線廃線敷
【兵庫県・宝塚市 2024.4.19】昨春中山寺に参詣し奥の院を経て中山連山の最高地点まで登りました。そのとき時間も余力もあったので尾根伝いに西隣の大峰山をめざしたのですが、どこをどう歩いたのか道をすっかり見失い結局まるで違う方角に下山する羽目になりました。あれから1年、自分の方向感覚が鈍っていることを痛感し、年会費5700円を払って山登りのためのアプリYAMAPのプレミアム会員になりました。今回はスマホで自分の足取りを確認しながら歩くので、道を間違えることはないはずです。前回と同じルートを歩くのはつまらないので、中山連山を東南から巻くようにあがって最高峰(といっても標高478m... Read More | Share it now!
播磨の新龍アルプスをあるき龍野城へ
【兵庫県・たつの市 2024.3.9】アルプスALPSは、ラテン語のALPESを英語読みにしたもので語源をたどれば、雪をかぶった白い山の峰というような意味があるそうです。そもそもはフランス~スイス~オーストリア~イタリア~ドイツあたりを東西につらぬく山脈のことを指しますが、19世紀にイギリス人技師が信州につらなる山系をみて日本アルプスと呼んだのは白眉といっていいのではないでしょうか。ところがその後、ご当地アルプスがつぎつぎに名乗りをあげます。いまでは全国に50以上あるといわれていますが、その大半は「白い山の峰」とは縁遠いもので、なかには100~200m級の山々が連なるといったのどかなものさえあります。しかしアルプスと名乗るだけのことはあって(?)、どれもアップダウンをくりかえすためそこそこ登りごたえはあり、尾根歩きが主となるので景観も楽しめます。さらに里山が多く登山口までのアプローチが楽なのも魅力です。今日はその〇〇アルプスのなかで、兵庫県南西部たつの市の、標高458mの亀山を最高峰とし北から南へとつらなる新龍アルプスを歩きます。 祇園嶽 JR播磨新宮駅から新龍アルプスへ なぜ新龍アルプスと呼ばれるのか、なにやらイワクありげなと、あらかじめその名の由来をネットなどで調べてみましたがわかりませんでした。ところが現地にきて電車をおりたのが播磨新宮駅、ふと思いついて調べてみると、ここは新宮町。新宮町からスタートし、ゴールは龍野城のある龍野町。新から龍へ、案外そういう単純な理由かもしれません。 山道に入ります 最初のピークである祇園嶽をのぞむ 祇園嶽へは一旦ルートから外れ 荒々しい急坂をのぼる 山頂から... Read More | Share it now!
播磨の高砂市に生石神社をたずねる
【兵庫県・高砂市 2024.3.2】大阪からJR神戸線にのって加古川駅をすぎると宝殿駅につきます。なんとも立派な駅名ですが、ここから西へ2kmほどのところ岩山の中腹に、その岩盤をけずって造った(正確には造りかけた)石の宝殿があり、そこから宝殿駅と命名されたようです。10代崇神天皇の時代に疫病がはやり、その平癒と平安のため天皇の勅願によりこの石の宝殿を御神体として創建されたと伝わるのが生石神社です。生石神社は「おうしこじんじゃ」と読みます。なぜそう読むのかは不明です。不明というと、なぜここに石の宝殿が造られたのか、そもそもこの巨石は宝殿として削岩されたものなのか、そういったこともすべて不明です。 生石神社 中央に見えるのが生石神社、左には採石場 生石神社周辺には採石場がたくさんあります むかしから播磨には岩山が多くあることは知られていたようで、いま奈良や大阪にのこる古墳のなかに収められている石棺は、このあたりから巨石を切り出して運んだとの説もあります。 鳥居をくぐり急階段をのぼる... Read More | Share it now!
大岩岳でいつになったら佳景に出会えるのか
【兵庫県・神戸市 2024.2.17... Read More | Share it now!
いつだれが石垣を組んだのか、疑問だらけの感状山城
【兵庫県・相生市 2023.12.10】兵庫県の瀬戸内海沿い、そのずっと西寄りに相生市はあります。むかしの言い方だと、播磨国の西寄りゆえ西播磨とよぶのでしょう。当時このあたり一帯は、名門村上源氏のながれをくむ武家・赤松氏が支配していました。感状山城はその赤松氏の主城のひとつと考えられています。もともとは地元で瓜生(うりゅう)との地名が残っているように、瓜生何某という土豪が築いた城もどきをもとに、大規模な城郭に修築したようです。鎌倉時代末期に足利尊氏が、後醍醐天皇から討伐の勅令をうけた新田義貞との戦いに敗れて敗走する際、当時の領主であり城主の赤松則祐が追走する新田の軍勢をこの城を拠点にして50日間足止めにし、おかげで足利尊氏は窮地を脱しただけでなく体勢を立て直してふたたび上洛することができたということです。その助太刀に対して赤松則祐が感状を授けられたことから「感状山城」とよばれるようになった、そこまでは史実として記録されています。ところがこの感状山城に関しては、そのあとのことがまったく記録されていません。たとえば感状山城には多くの石垣と石垣跡が残されていますが、赤松則祐が活躍した鎌倉時代末期には城を石垣で守るという発想すらありませんでした。それゆえ村上源氏がどれだけ名門であろうが、赤松則祐がこのとき城に石垣を組んでいたことはありえません。本格的に城に石垣が組まれるのは近江にのこる六角(佐々木)氏の観音寺城が最初と言われていますが、それとて築城当初から石垣があったとしても室町時代の中盤以降です。いったい誰が感状山城に石垣を組んだのか、そして何時どのような事情で廃城になったのか、ここは疑問だらけの城です。 感状山へ 瓜生東バス停より感状山をのぞむ バス停より直進ではなく、西(左)麓へ回り込む 羅漢の里入口にあった案内板... Read More | Share it now!