街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,花、紅葉見ごろ,京都

【京都市 2025.12.1】「紅葉狩り / もみじがり」の言葉の由来は、「野山に分け入って自然の恵みを探し求める =... Read More | Share it now!

城郭・史跡,岐阜

【岐阜県・中津川市 2025.11.5】恵那市の岩村城から25kmほど北、中津川市の苗木城に移動しました。岩村城を居城にしていた遠山氏がさらに北へと侵攻する足掛かりとして築いたのがこの苗木城、それゆえ岩村城を本城とするとその支城ということになります。 歴史的にいえば、織田氏と武田氏の勢力争いの渦中に容赦なく放り込まれたような存在で、信長vs信玄から世代が変わってそれぞれの嫡男である信忠vs勝頼により獲った取られたと、目まぐるしく立ち位置がかわるのですが、その争乱については岩村城のブログで(その一部を)詳しく書いているのでここでは省きます。 今回ここ苗木城で注目したいのは、山城とはいえその山が岩山ゆえに、自然の岩を取り入れながら人の手による石積と合体して特異な石垣となっていること。岩を足場に支柱をたてその上に建物をすえる懸造かけづくりが築城に取り入れられていること。とくに後者は、ウェブの画像で見るかぎりにおいてもずいぶん珍しい城郭建築で、たいへん楽しみではあります。 登城口から足軽長屋 現地で入手した案内図より抜粋 左下の駐車場よりスタートし、足軽長屋から➀大矢倉、➁千石井戸、➂武器蔵をへて➃天守展望台へ向かいます。 なおこの案内図は部分的にずいぶんデフォルメされており、とくに中核となる天守周辺は大いに誇張されているため、現実に歩くのとは異なります。 足軽長屋から天守(展望台)をのぞむ手前の平坦地は二の丸 石垣に囲まれた道をすすむ 大矢倉 風吹門跡... Read More | Share it now!

城郭・史跡,岐阜

【岐阜県・恵那市 2025.11.5】今日これから訪ねるのは、岐阜県・恵那市の岩村城です。前回の妻木城のブログでも書きましたが、このあたり一帯はともに平安時代に始祖をもつ名門の土岐氏と遠山氏がしのぎを削っていた土地で、岩村城は遠山氏宗家の居城でした。鎌倉幕府がたおれ南北朝時代になると、土岐氏が足利尊氏のもとで勲功をあげ美濃の守護となり、この時点で遠山氏は土岐氏の後塵を拝することになります。さらに室町時代になると土岐氏が美濃全体の守護職であるのに対して遠山氏は美濃の一部地域の地頭職にすぎず、遠山氏は土岐氏に従属する立場になります。 時は移って下剋上に象徴される戦国時代。土岐氏の家臣であった斎藤道三が主君を追い出して美濃一国の主君になります。ところがその道三を嫡男の義龍が敗死させ、さらにその義龍が病死し浮足立っているところを織田信長が攻め立てて斎藤氏を壊滅させます。こうして美濃一国は西から織田氏(信長)、東から武田氏(信玄)が餓狼のごとく領土拡大をねらう草刈場と化してゆきます。このような状況下では、弱小の武家はより強い方に臣下の礼をとって家の存続をはかる以外に生き残る道はありません。ところがこのときの遠山家当主であり岩村城主である遠山景任かげとうは、巧妙なのか細心なのか、それとも単に行き当たりばったりなのか、武田に臣従しながら織田にも誼よしみを通じ、信長からその信長の叔母にあたる「おつやの方」を正妻としてもらい受けます。ここからドラマが始まります。 藤坂~初門~一之門 登城口にあった案内板より抜粋 ➀の現在地より番号にしたがって登城します。後に掲載する画像にはわかりやすいように案内図にある番号を記すようにします。 ➃藤坂 この石畳道は原型をとどめていなかったため昭和の末に修復復元したようです。この水路が当時からあったのかは不明 ➄初門... Read More | Share it now!

城郭・史跡,岐阜

【岐阜県・土岐市 2025.11.4】今回は岐阜県の東南部を回るつもりで大阪から(交通費節約のため)新快速と普通電車を乗り継いでまずは岐阜市へ、そこからはレンタカーを借りて一路東へ、向かうのは土岐市、恵那市、中津川市。このあたりは室町から戦国時代にはともに名門の土岐市と遠山氏がしのぎを削っていた土地です。 明智光秀が本能寺で信長を討つに先立って、愛宕百韻あたごひゃくいんの発句として「ときは今 あめが下しる 五月かな」と詠んだことは有名ですが、(このさいホントかウソかは別にして)ときは時と土岐を掛け、あめは雨と天を掛け、「時は今、土岐氏の出である自分=光秀が天下を治めるべき雨降る五月になった」と信長を討つ決意を表明したと言われています。 もし光秀が「とき」に時と土岐の意味をかさねているのであれば、たしかに明智一族は土岐氏の系譜です。名字が変わっているので宗家ではなく庶流ということになります。妻木城はその明智氏の始祖あたりの明智某がつくったとされています。ではなぜ妻木つまぎ城と呼ばれるかというと、明智氏の庶流に妻木氏がおり、明智某はここから25kmほど北西にある明智城を居城としたため、この城は妻木某に譲ったということです。まずはその妻木城を訪ねてみます。 ※明智光秀は明智城で生まれ育ったとされていますが、彼の前半生をあきらかにする資料は存在せず、「伝」の域をでません。そんなとこからも「ときは今... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛媛

【愛媛県・今治市 2025.10.4】日本200名城(日本百名城+続日本百名城)を制覇するのは目標ではないものの、できるものなら制覇してみたいと思っています。その200の城の中で、住まいのある大阪から比較的近いにも関わらずなかなか行き難い城のひとつに能島城があります。なぜ行き難いかというと、瀬戸内海にうかぶ小島であること、そして無人島のため定期航路がなくツアーで行くしか方法がないこと、しかもそのツアーは週末と祝日にしか実施されていないこと。今回愛媛県をまわる旅程を組むうえでは、一番に能島城訪問が週末になるよう注意をはらいました。週間天気予報でも週末は天気が崩れるとのことだったものの、海が荒れて船が出ない以外はOKということで。当日、前夜から雨が降り続いていたものの、船着き場に着くころには小降りになり、船が出港するころには完全に雨はあがりました。 能島へ この船で能島へ この日のツアー参加者は40人ぐらい。ガイドがふたり同船し、上陸してからは2グループにわかれて見学します。往復に30分、上陸後の散策が45分の計75分。料金はひとり3000円。高いか安いかはそれぞれの判断でしょう。 真ん中にみえる小島が能島 能島の全容... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,滋賀

【滋賀県・大津市 2025.10.19】ウソかホントかわかりませんが、かつて滋賀県民が大阪や京都府民と喧嘩になったときに、「琵琶湖の水、止めたろか」と脅し文句だか捨て台詞だかをかましてきたとか。滋賀県といえば琵琶湖、その琵琶湖を水源として流れ出る瀬田川が宇治川となり、さらに淀川になって大阪湾に注ぎます。しかも琵琶湖へながれこむ川は100本以上あるものの、琵琶湖からながれでる川は瀬田川1本のみ。大阪も京都も水源として琵琶湖の水におおいに頼っているところがあり、そのため大阪・京都が国を動かして行おうとする瀬田川流域の治水事業には滋賀が反発、滋賀が独自の案をだすと大阪・京都が猛反発。なぜかというと、琵琶湖周辺で水不足のときには滋賀は水確保のため瀬田川から流出する水量を減らしたいが、そうなると下流域の大阪・京都は渇水状態になり、逆に雨が続くと琵琶湖の氾濫をおそれて滋賀は瀬田川から水を放出したいが、そうなると下流域は水浸しの危険に。奈良時代に行基上人が瀬田川の治水事業を行おうとしたときに地域住民の反対にあったというのですから遺恨の歴史はたしかに古い。江戸時代にも琵琶湖にかかわる治水事業は計画どおりに進まなかったようで、明治から昭和にかけて民衆の権利や自由の度合いが大きくなるにつれ、反対運動もおおっぴらに見られるようになります。おそらく当時の歴史をふりかえって、冒頭の「琵琶湖の水、止めたろか」の台詞が後付けでうまれたのではないでしょうか。昭和の高度成長時代になり、さすがに治水とて一地域の問題ではなく全国規模で考える必要に迫られたのでしょう、滋賀県と下流域の府県の合意のもと、総事業費1.9兆円の琵琶湖総合開発事業が国の承認をえて行われたようです。 琵琶湖へ水が流れ込む JR大津駅で下車して東へ歩きます途中に山から流れ出る水を 琵琶湖へ運ぶ水路がありました 2日前に湖西の北端にちかいマキノから、琵琶湖岸沿いに南へ近江高島まで20kmともう少し歩きました。その日は特別な目的地もなく、長めの散歩のつもりで左手に琵琶湖の風景を眺めながら歩いていましたが、休憩の際に湖畔のベンチでスマホを弄っていると、琵琶湖の水をめぐって滋賀県と下流域の京都や大阪がたびたび揉めたことがあるとの記事を見かけました。そのとき「琵琶湖の水、止めたろか」の文言も目にしたのであり、そこからにわかに琵琶湖の水利に興味を抱くことになりました。水利といっても飲料や農業のため利用されている水の実態は上辺を見ただけでわかるものでもないので、おもに水運として琵琶湖がどのような役割を担っていたのかを見てまわることにします。 膳所城 膳所城の遺構としてのこる石垣堀は元々は琵琶湖と通じていた 膳所(ぜぜ)とは、平安時代に琵琶湖で獲れた魚介類を天皇の食膳にとどける場所、そこからつけられた地名です。ここに関ケ原合戦で勝利した徳川家康が東海道の抑えとして城を築かせます、それが膳所城です。ところでわざわざ琵琶湖の湖岸に城を築いたのは、東海道の抑えだけでなく、琵琶湖の水運の抑えも企図してのことではないでしょうか。 本丸城門(再建、元のものは他所へ移築)この日は秋祭りで露天、そして多数の人出 現地にあった案内図よりこのとおり水城でした 櫓も橋も再建したものですが、往時の城のたたずまいはイメージできます 本丸跡地秋祭りでなければ閑散としているのでしょうか 本丸から船着き場へ下りる石段前方に見えるのは近江大橋 往時はこの石垣まで湖水が迫っていたのでしょう 膳所神社 膳所神社 ここも秋祭りで多くの人出。鳥居の奥の表門が膳所城の大手門を移築したものと伝わっています。 拝殿 主祭神は食物をつかさどる豊受比売命とようけひめのみこと。伊勢神宮の内宮にまつられる天照大御神の食事をつかさどっているとされ、外宮にまつられる豊受大御神と同じ神様です。 大津城 近江大橋西詰から琵琶湖をのぞむ 大津城、ではない。往時の水城・大津城をイメージして作った滋賀県立琵琶湖文化館 大津城跡の石碑下の図からもわかるように大津城も水城です 大津城の成り立ちは、秀吉が明智光秀の居城であった坂本城(やはり水城であったと伝わる)を廃城にしてここに新たな城を築いたものです。 関ヶ原の前夜、大津城主の京極高次は豊臣方であったにもかかわらず突如寝返りここに籠城します。大津は交通の要衝であり、しかも琵琶湖水運の拠点でもあり、西軍としてはなんとしても大津城を奪還せねばなりません。西軍1万5千の軍勢が包囲し、なかでも立花宗茂の活躍でなんとか降伏させるのですが、その落城の日が関ケ原合戦と同日で、この1万5千の軍勢、なかでも戦巧者の宗茂が合戦に間に合わなかったことも西軍敗北の原因のひとつとされています。 大津城の数少ない遺構である石垣の一部おそらく後から組み直したものでしょう、下手くそ 民家のフェンス越しに撮影させていただきましたこちらはいかにも往時のものらしい 織田信長の時代には、信長本人が琵琶湖東岸に安土城を築き、ちょうどその対岸に甥の津田信澄に大溝城を築かせ、大溝城の南に光秀が坂本城、安土城の北に秀吉が長浜城といったぐあいに、信頼できる甥と、重臣二人をあわせて琵琶湖を四方から囲むよう領土の統治をおこなっています。 豊臣秀吉の甥であり後に関白になる秀次の居城は、安土城からすこし南の近江八幡城。秀次が聚楽第に移ってからは、石田三成がさらに少し南の佐和山城。徳川家康の場合も、徳川四天王のひとり井伊直政が佐和山城からさらに湖岸沿いに彦根城を築いています。こうしてみてくると、水運が物流の大動脈であった時代には、京の都に近いこともあって琵琶湖を抑えることは全国平定のためには必須だったのでしょう。 琵琶湖疏水 時代は明治へと飛びます。琵琶湖から取水してそれを京都までながすため、この疏水(人口の水路)がつくられました。利用目的は、飲用、農業用水、工業用水、さらに蹴上(現・京都市東山区)に発電所がつくられそこで本格的な水力発電もおこなわれました。そして水運も。 琵琶湖からつづく水路 大津閘門(おおつこうもん)ここで水位を調整して船を山側に送る 閘門を裏側からみる 水路は山に吸い込まれ、そして京都へ Oh!... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛媛

【愛媛県・新居浜市 2025.10.3】奈良の大仏にはおよそ500トンの銅が使われています。(加工しやすく耐久性も増すよう8トンの錫すずをくわえた青銅製)752年に開眼した初代の大仏はいまのものより全体に1割大きかったそうなので、単純に考えると550トンほどの銅が使われていたことになります。1300年近く前ですら銅の需要はそれほどあり、しかもその需要に応えうる生産もあったということでしょう。 戦国時代までは、銅のおもな使い道と言えば貨幣または仏像仏具をつくることに特化していたようです。加工しやすい反面鉄にくらべて軟らかいため武器や工具には向かなかったのでしょう。江戸時代になると、火事への防火対策から屋根瓦として使われるようになります、ただし社寺や城がおもな対象で、一般の家屋には普及していません。単純に高価なためというのが理由です。高価といえば、江戸時代には鉄鍋も普及していましたが、熱効率のよい銅鍋はコストの面で生産に到っていなかったようです。 明治から大正へと時代が進むにつれて電気が普及し、電線として銅が使われます。その後も文明がすすむにしたがい、導電効率、熱伝導効率などの観点から銅の需要はますます高まってゆきます。 ブログの冒頭ではいつもはその歴史について書くのですが、別子銅山は江戸時代に住友が開坑し、昭和48年(1973)に住友が閉山。最初から最後まで同一企業により操業していたもので、歴史では書くことがなにもありませんでした。 別子銅山・端出場地区 別子銅山の見どころはこんな山の中にある 新居浜駅から7.5km南へ。初めは市街地を走りますが、突然に山のなかへと入りこんでゆきます。そして到着したところはこんな山中。雨雲が垂れ込めているので心細ささえ感じる風景です。 トロッコ列車にのって鉱山入口までゆきますが、その出発時まで時間があるので先に発電所を見にゆきます。 水力発電所 別子銅山が操業していた当時使われていた水力発電所 レンガ造りのしっかりした建物 建物内の様子タービンと発電機 建物下にある放水口ここから噴出する水の勢いでタービン(水車)を回す 坑道 実際に使われていたトロッコ列車 観光客が乗るのはこれ... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛媛

【愛媛県・北宇和郡 2025.9.30】愛媛県南部(いわゆる南予)の中心都市である宇和島から東(内陸)へ15kmほど、高知県との県境近くに河後森かごもり城はあります。昔風にいえば、伊予国と土佐国の境。地図上で見れば、東を流れる広見川とその広見川に各々注ぎこむ鰯川が北、堀切川が南をかこむ防御面からは絶好の山上。 この河後森城ですが、歴史的には特筆するようなものはありません。長曾我部氏が四国制覇を目指していたころ、抗戦する城主を家臣の某氏が裏切り、いったんは長曾我部氏に下ったものの、次には四国平定に乗り出した秀吉の軍のまえに降伏。大きな力、次はさらに大きな力に圧迫されつづける戦国時代の典型的な城の歴史をたどったと言うことです。 興味深い出来事をしいてあげれば、藤堂高虎が宇和島城主だったときに、この河後森城の天守を解体して運び、宇和島城の月見櫓に移築したとのこと。しかしこれも「事実」として記しているものもあれば、「伝承」として片づけているものもあり、そもそも宇和島城に当該の月見櫓が残っていないのですから感慨にふけることもできません。 そんな河後森城ですが、現実に探索してみるとこれがなかなか面白い。と言うことで、ブログに残しておくことにしました。 河後森城 駐車場から奥へ進みます 谷間の道をあるく 現地にあった案内図より抜粋 いま案内図真ん中の「現在地」に居ます。この城の特徴は谷をかこむ... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛媛

【愛媛県・宇和島市 2025.9.30】戦国武将のなかで築城名人として知られるのは、藤堂高虎、加藤清正、黒田官兵衛(孝高)の3人です。その築城術において長けているところは各々異なり、誰が一番優れているかの判断は好みもあって決めがたいでしょうが、もっとも多くの城普請に携わりその才能を後世に多数遺したのは間違いなく藤堂高虎です。 藤堂高虎ははじめ浅井長政につかえていたようですが、浅井家が織田信長に滅ぼされたことから浮かばれぬ浪人さながらの境遇をへて、秀吉の弟・秀長にひろわれます。これが運命の出会いだったのか、まずは武人として頭角をあらわし、秀長の但馬攻めをへて、賤ヶ岳の戦いでも七本槍の七人に負けぬ戦功をあげています。さらに秀長が紀伊平定を進めるなかで、粉河寺こかわでら勢力を牽制するため猿岡山城(和歌山県・紀の川市)を築きます。これが高虎の最初の築城となります。(この猿岡山城はいまは公園として整備され当時の姿を思い浮かべるにも無理があります) その後秀長の紀伊平定が東へとすすむと、一揆をおさえるため(いまの三重県・熊野市に)赤木城を築きます。もちろん普請役は高虎。この城は大規模なものではありませんが、高虎の非凡な才能をうかがわせる傑作です。 赤木城をつくって一揆を平定した2年後に秀長が死去。高虎は秀吉・秀長の甥(一時期関白になった秀次の次弟)であり秀長の養子となっていた秀保ひでやすに仕えることになりますが、その秀保も夭逝。よほど律儀な性格なのか、高虎は出家して高野山に上がってしまいます。 宇和島城 長屋門から入る... Read More | Share it now!