【長野市 2024.11.6】信濃・川中島の戦いは日本史上もっとも有名な合戦のひとつでしょう。この合戦の特徴は、あわせて5度の戦いを通してじつに12年に及ぶこと、そのなかで第4次合戦といわれる1561年におこなわれた八幡原の戦いのみが大規模な合戦であり、他の4つは小競り合いに終始するかあるいは睨みあって対陣を続けたにすぎないことです。発端は、信濃の地を領有する村上義清にたいして領地拡大をはかる武田信玄がじわじわと侵攻をすすめついに居城である葛尾城を落とします。ここにきて義清は自力では支えきれないと判断して越後の上杉謙信に助けを求めます。※武田信玄はこのころ晴信と称していますが、ここでは信玄でとおします。※上杉謙信もこのころは長尾景虎、その後なんどか改名するもののここでは上杉謙信でとおします。 なぜ大規模な合戦をさけて12年もの長期にわたったかと言えば、謙信にとっては村上義清から助勢の要請があっての、いわゆる義の戦いであり、自分の領土(越後)を侵されているのではないため武田軍を殲滅させる必要はなく追い返せば用は果たせると考えたのでしょう。信玄は武将としてデビューしたばかりのころに村上義清との戦で2連敗しますが、その後に合戦の前にはまず調略で相手の足元を崩してしまうことを得手としてからは連戦連勝。ところが川中島での相手は欲ではなく義のために、しかも地元ではなく他国から出張ってきた謙信ゆえ調略のやりようがない。かといって信玄としては強攻はしたくない。なぜなら信玄の領土である甲斐の国は山ばかりでもともと人がおおく住める土地ではありません。しぜん領民(人口)がすくないため一度の戦で大量の死傷者を出すと、たとえその戦には勝利したところで軍力をもとに戻すのに時間がかかる。それではなぜ第四次の合戦だけが大規模な激戦になったのか。この合戦のまえに謙信は関東管領に叙せられます。すなわち幕府から関東の統治を任せられたわけで義侠心のつよい謙信としては自分の力で関東地方の情勢を安定させようと決意します。その結果まずは関東全域を武力で制覇しようともくろむ北条氏の横暴に憤り、越後を発つと上野から武蔵へと破竹の勢いで進軍します。北条氏の支城を片っ端から落としてゆくその鬼神のごとき姿に諸国の武将たちもぞくぞくと従い、ついには北条氏の居城である相模の小田原城を10万もの大軍で囲むことになります。ここで北条氏がうった手は、見方によっては相模の後背に位置する甲斐国の武田信玄とむすび後方から牽制してもらうことでした。長期の対陣に倦みはじめていたことにくわえ、謙信が越後の龍なら甲斐の虎と怖れられる信玄が動き出したことで小田原城を囲んでいた関東諸国の軍勢は散り散りになってしまいます。所詮は烏合の衆にすぎなかったのでしょうが、謙信としては面目丸つぶれと感じたのでしょう。ここはいったん越後に帰りますが、すぐに軍勢をととのえて信濃・川中島へと進軍します。この第四次合戦だけは謙信にとって義の戦ではなく、信玄に対する意趣返しだったとみるべきでしょう。 キツツキ戦法はホントかウソか 八幡原の古戦場跡にあった案内板より抜粋 越後の春日山城を発った上杉軍は善光寺をへて妻女山(図の上中央)に陣取ります。一方の武田軍は、いったん茶臼山(図には入っていないさらに下方向)に陣取りますが、なぜか移動して海津城(図の左上)に全軍が入ります。 ※この図は右下が北になっており東西南北が正確にわかりません。 武田軍は海津城にて軍議をひらき通説では軍師の山本勘助の献策により、全軍を2つにわけて一隊は深夜闇にまぎれて妻女山にあがり奇襲を敢行、意表を突かれ逃避する(すなわち下山するしかない)上杉軍が平地に下りてきたところを別の一隊が強襲して壊滅する、という作戦をとります。これは啄木鳥が樹木をくちばしで突いて虫を追い出す習性からキツツキ戦法と呼ばれますが、もちろん後世における命名です。ここで疑問があります。武田軍は(諸説ありますが)総勢2万、そのうちの1万2千が奇襲部隊で平地にのこる本隊が8千というのが通説ですが、これは不可解なことこの上もありません。まず闇にまぎれての奇襲に1万2千もの大軍が動けばその気配を消すことは不可能でしょうし、人がひとりか二人ずつしか登れない山道に1万2千の大人数がとりつけばどれほどの長蛇の列になることやら、効率の悪いこと甚だしい。さらに上杉軍の総勢(これも諸説ありますが)1万3千が逃れて下山すれば仮に1割の死傷者を出していたとしても1万以上の戦力は残っていることになり、それを迎え撃つ武田軍本隊が8千ではいかにも心もとないでしょう。ところで現実にはどうなったかというと謙信は裏の裏をいき、かがり火をのこして妻女山上にいると見せかけ別のルートをたどって下山、8千の軍勢で待ちかまえる武田軍本隊に1万3千の総力で襲いかかったということです。ではいかにして謙信が武田軍の策略を見破ったかというと、その日の夕方に海津城からあがる炊煙が通常より多いことから夜食の準備をしていると考え、そこから夜襲があると察知したというのです。そんなアホな。これではまるで仁徳天皇が炊煙のすくないことから民の生活の厳しさをしり徳政をしいたという故事を思いださせる戯言レベルです。 海津城(いまの松代城)から妻女山をのぞむ 武田信玄のもとで軍師をつとめたとされる山本勘助ですが、いぜんはその存在すら疑問視されていました。勘助が登場するのは江戸時代にかかれた軍記物「甲陽軍鑑」のみで、ほかの記録にその名が見当たらないだけでなく、いまにのこる信玄の数々の書状にも勘助のことはいちども書かれていません。 最近の研究で実存自体は証明されたようですが、ホントに軍師だったのか、どれほどの活躍をしたのかまではいまもわかりません。 妻女山から川中島一帯を見わたす海津城は右の樹木にさえぎられ見えない 一方の上杉謙信にも宇佐美定行という軍師がいたということになっています。しかしこの人物は実存はしたようですが、謙信の軍師として活躍したというのはほぼウソです。謙信は軍神・毘沙門天そのもの戦の天才で、軍師を必要としませんでした。 ではなぜ宇佐美定行と固有の名をもった人物が軍師として登場するのか、それについては後で述べます。 八幡原の戦いのホントとウソ 八幡原は史跡公園になっており、 公園内には八幡神社があります 八幡神社 さらに奥へ進むと、長野市立博物館がありますここに展示されている川中島合戦の資料はまるでダメ。 信玄と謙信の一騎打ちの像 小説や映画では、霧が晴れると武田軍の眼前にこつぜんと上杉の軍勢が姿を現すという劇的なシーンが描写されます。裏をかいたつもりがさらにその裏をかかれたのですから慌てふためくのは武田軍。上杉勢は怒涛の勢いで攻めかかり、幾重にもかさなる武田の陣を突き破りつつ、ついに謙信が信玄に討ちかかる瞬間がこの像です。 ここでも疑問があります。謙信は白頭巾をかぶっていますが、謙信が仏道に帰依して法号・謙信を名乗ったのはこの八幡原の戦いから9年後、剃髪して法体となるのはさらにその4年後ですからこのときに白頭巾をかぶっているのは道理があいません。 「甲陽軍鑑」など武田氏に好意的な軍記物には、信玄は慌てず、まさに山のごとく動かず軍配団扇ひとつで謙信の一太刀を受け止めたとなっています。これをもって信玄の豪胆を示すとともに、深読みすれば謙信の太刀さばきの未熟さを伝えたかったのでしょう。ところが紀州徳川家にのこる川中島の戦いをえがいた屏風絵には、川へと逃げる信玄を謙信が追いかけ一太刀浴びせようとする場面が描かれています。紀州徳川家は越後流軍学を取り入れており上杉氏に好意的に、逃げる信玄&追いかける謙信の構図をのこしたのでしょう。 余談ですが、「敵に塩をおくる」という慣用句、領土が海に面していない甲斐国の信玄が同盟して敵対する今川氏と北条氏から塩の流通をとめられ苦渋していたところ、日本海に面する越後の謙信が困っているものを援けるのが人たるものと敵対していながら塩を送った逸話からうまれたとされていますが、これはまっかなウソ。今川氏や北条氏に頼らなくても武田氏が信濃・美濃経由で京・大坂から塩を買い付けることは可能です。そもそも甲州金でつねに金庫がうるおっている武田氏を利にさとい商人が見捨てるはずがありません。 ホントかウソかわからないまま歴史に残った山本勘助 山本勘助の墓は八幡原から千曲川を渡った対岸にある 石田三成の家臣で関ケ原合戦で活躍した島左近について調べていたときは、資料になるものが少ないだけでなく興味をもって調べる人もすくないのか参考にする記述さえ容易に見あたりませんでした。ところが山本勘助については信用できる一次資料はないものの、後世の人の関心が満々で様々な見解が満ちあふれており、どれを信じていいのやら。一説では、山本勘助はやたらにカンだけはよくてすべてをカンに頼っていたので、ヤマカン(山勘)という言葉がうまれたなんていう、褒めてるのか貶しているのかわからない記述もありました。 山本勘助は隻眼で顔や身体にも多くの傷がありさらに足がわるくて歩行が乱れていたといいます。そのため先に長期逗留した駿河で今川氏に臣事しようとしたときにはその外見の悪さから断られたものの、つぎに向かった甲斐では信玄は部下から伝え聞いただけで100石で取り立てることをきめ、さらに本人と会って話をしてからは大いに気に入り即座に300石に加増したとか。これなどは今川家の見る目のなさを皮肉り、信玄の人を見る目の確かさを喧伝したものと思われます。 さて山本勘助に関してはなんとか実存したことが確認できるだけで軍師だったのか否かは不明、謙信の軍師とされる宇佐美定行については実存は確認できるものの軍師であったとは考えがたいということになります。ところが宇佐美定行の子孫と称する宇佐美定祐なる人物がたしかに存在し、紀州徳川家に臣事していたことが記録されています。この人物こそが越後流軍学を紀州徳川家につたえ軍学者として取り立てられた人です。ここからは想像ですが、宇佐美定祐は先祖の宇佐美定行を架空の謙信の軍師とし、その子孫であると自分にハクをつけて紀州徳川家に売りこんだのではないでしょうか。 川中島合戦の実態を揺るがす?ホントかウソか さいごに第四次川中島の戦いに関して最大の疑問を書いておきます。本来ならばこれをまず先に述べねばならないのですが、そうすると後の話の展開がむずかしくなるのであえて最後にしました。下の図を見てください。 雨宮渡にある案内図より抜粋 これは最初に掲載した川中島での両軍の陣の配置をもうすこし広範囲にえがき上を北にしたものです。あらためて陣取りの経緯をのべます。上杉謙信は右上の春日山(越後の居城)から進軍し善光寺にいったん入り、そのあと右下の黄色い山としてえがかれている妻女山に陣を敷きます。すぐ上すなわちすぐ北には信玄の支城である海津城があります。たしかに海津城を山上から監視するには好都合でしょうが、この位置はみづから自分の(越後への)退路を塞いだことになります。 つぎに信玄ですがいったん左やや上に緑色でえがかれた茶臼山に陣を敷きます。妻女山のすぐ北に海津城、北西の茶臼山山上に甲斐からきた本隊、完璧に上杉軍の退路を断ち、このまま布陣を続けただけでも上杉軍はやがて兵糧がつきて脱出のため無謀な突進をせざる得なくなります。 謙信としては自分からすすんで窮鼠となったようなものです。信玄にいたっては絶対有利なマウントポジションをとりながらゴングを聞き違えてコーナーへもどってしまったようなものです。軍神と称えられたふたりがそろいもそろってこのように稚拙な行動をとるものでしょうか。いまにつたわる川中島の第四次の戦いがあまりにも劇的な展開をするだけに、調べるにしたがい、まるでつくられたように劇的すぎると思わざるえません。 この戦いにおける死者数は武田軍4000人超え上杉軍3000人超えと伝えているものもあれば、両軍とも戦争参加者の4割が死傷したとの記述もあります。どちらにしても両軍とも戦力を回復するのに多大な時間を要するはずの大ダメージですが、信玄も謙信もその年のうちに次の戦いのため出陣しています。あまりに奇妙です。【アクセス】車と徒歩【入場料】長野県立歴史館:300円【満足度】★★★☆☆ ... 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龍岡城は、星型要塞すなわち五稜郭
【長野県・佐久市 2024.11.7】龍岡城は戦国時代の城ではありません。それどころか江戸時代も末、大政奉還が1867年ですからそのわずか3年前、三河奥殿藩主の松平乗謨(のりかた)が信濃田野口へ移転のさいに幕府の許可をえて新城の建築をはじめます。乗謨は西洋軍学をまなんでおり砲撃戦を想定して、ちょうどこの年に完成したばかりの函館五稜郭にならって星形要塞をつくります。これが龍岡五稜郭とよばれる日本にふたつしかない(ふたつだけあると言うべきか)陵堡式城郭です。 外周をあるく 切込接ぎで組まれた石垣 1864年に築城をはじめたものの時代は幕末にむかって激動のときをむかえ、松平乗謨も陸軍奉行として幕政に参与するなど時間的にも経済的にも余裕がなくなり、城は未完のまま明治維新をむかえることになります。たとえばこの写真に映っているあたりは石垣は出来上がっているものの堀がありません。 水堀にそって歩く... Read More | Share it now!
山本勘助の縄張かどうかわからんまま小諸城をたずねた
【長野県・小諸市 2024.11.7】小諸城は以前からあった小城を武田信玄が奪い信濃地方進出の橋頭保とするため山本勘助に命じて縄張りをさせあらたに造り直したもの、と伝えられています。どうじに同じくらい多くの書籍やウェブサイトで山本勘助は小諸城の縄張りにまったく関わっていない、と書いています。両者ともに多数の意見があるので、真相はよくわかりません。わからないけれどわからんままに訪ねてみることにしました。 小諸城は穴の底にある 大手門... Read More | Share it now!
真田の郷を訪ねる、まずは砥石城
【長野県・上田市... Read More | Share it now!
武田の海津城は真田の松代城へと移りかわる
【長野市 2024.11.6】 武田信玄が上杉謙信との攻防の前線拠点として、山本勘助に命じてつくらせた海津(かいづ)城が、松代城の前身になります。山本勘助についてはその実存さえ疑う意見もありますが、信玄が謙信との戦闘を有利に進めるためここに城を築いたことは事実で、もっともはげしい戦いとなる第四次川中島合戦では武田軍がいったんはこの城に入って戦端をひらく機会をうかがったと記録されています。武田氏滅亡の後は、織田信長の家臣・森長可(もりながよし)が信濃統治のため入領しその海津城を居城としました。しかし信濃の地というのは国衆とよばれる地元の小勢力が、武田氏や上杉氏ら戦国大名に従属しながらも自立して群雄割拠するところで、たいへん統治の難しい土地だったようです。豊臣時代には豊臣家が直管する蔵入地となりますが、大阪の陣ののち真田信之(真田昌幸の長男、信繁=幸村の兄)が上田城から13万石に加増のうえ移封され、その後は明治維新まで真田家10代にわたる居城となります。城郭は千曲川を天然の要害とした独特の造りだったようですが、建物はすべて焼失し、当時のものとしては本丸周辺の石垣と濠などの一部が現存するのみです。 二ノ丸南門から入る 二ノ丸南門から本丸入口・太鼓門をのぞむ 現地の案内板から抜粋 二ノ丸南門からつづく土塁 堀越しに太鼓門をみる 堀に隔てられた本丸全体を西側から そして東側から見る 二ノ丸 二ノ丸 二ノ丸の外周をまもる巨大な土塁 土塁上から二ノ丸、本丸の石垣をみる その北側(土塁の外側) 徳川家康と、豊臣家の永続をねがう石田三成との間で風雲急をつげついに大合戦(関ケ原合戦)が始まろうとしたとき、真田家では父子3人のあいだで家族会議がもたれます。徳川につくか豊臣(石田)につくか。このときどちらが勝者になっても真田家が生き残れるよう父子でふたつに分かれたとされていますが、もうすこし事情があります。長男信之は家康から高く評価されており、家康自身が重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女としたうえで正室に娶らせていました。一方の次男信繁(幸村は後世につけられた名で、本人は名乗っていません)の正室は大谷吉継の娘・竹林院。これだけなら長男は徳川へ、次男は豊臣へと容易に察しがつきます。それではなぜ父昌幸は次男とともに豊臣に従ったのでしょうか。 本丸 太鼓門から本丸へ 本丸に入ってすぐ太鼓門を真横から見る 本丸をまもる石垣 天守台 天守台上より本丸を見下ろす 天守台より西側を見る後方の山が第四次川中島合戦のさい謙信が布陣した妻女山 ここからは個人的な想像です。真田昌幸はその武略の才だけでいえば信玄や謙信に劣らなかったと思います。しかし昌幸は天下どころか信濃を支配することすら望まず、出身地の村とその周辺の数郡を安定して占有することに専心します。自分には軍才はあっても自力で大大名になるほどの大器ではないと悟っていたのでしょうか。同時に並外れた軍才をもつゆえに、このたびの合戦では徳川が勝利することも見通していたかもしれません。兄の信之は文武に優れているだけでなく性格も実直で、いわゆる出来のよい優等生タイプです。きっと信之が(勝利するであろう)徳川についておけば、その家臣となって末永く真田家を残してくれると計算したことでしょう。都合のよいことに信之は徳川家と縁戚関係を結んでいるのですから、おまえだけは徳川につけと言われて嫌というはずがありません。 これで真田家の存続は保証されたようなものです。真田家の当主として生き残るために武田、織田、北条、徳川、上杉、豊臣と主君をつぎつぎに変え、表裏比興(ひょうりひきょう)のものとそしられながら生き抜いてきました。いまこそ誰のためでもなく強いて言えば自分自身の冥途の土産がわりに、一世一代の大戦をやってやろうではないか、そのためには(勝利するであろう)徳川に一泡吹かせてやろうか、そんなことをおもい不敵な笑みを浮かべたに違いありません。 北不明門 北不明門を抜けて 本丸から出るとはじめに歩いた二ノ丸へ戻れます 徳川家康は関東から上方(関ヶ原)にむかうに際して従える10万の軍勢を二手にわけ、元豊臣方の武将たちはまとめて東海道を西進させ、徳川本隊は嫡男の秀忠の指揮のもと中山道を西へと行軍します。ところが中山道の途上では上田城にたてこもる真田昌幸・信繁父子が待ちかまえていました。秀忠と徳川本隊3万7千、たいする真田勢わずか3千。ところが昌幸の巧妙な戦略と信繁の果敢な挑発に翻弄され、徳川の大軍勢は事もあろうに関ヶ原合戦に遅参するという大失態をおかしてしまいます。 長国寺 松代城近くにある真田(信之)家菩提寺・長国寺 一方の信之ですが、冒頭でも書いたように関ヶ原合戦ののち加増転封されて松代城へ入城。その後は明治維新まで10代にわたって領主として存続し、さらに維新後も華族に叙せられ名門真田家として生きつづけます。 【料金】松代城城郭、長国寺境内のみは無料【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!
長野の山城でローテクな石垣に出合って感動する
【長野市、千曲市 2024.11.6】日本で最初に本格的な石垣を用いた城は、六角氏が近江の地につくらせた観音寺城といわれています。その築城時期は14~15世紀。ところが推定11~12世紀に技術の上ではずいぶん初歩的ではあるものの、単なる石積みではなく十分に石垣とよべる築造をなした山城が信濃で複数つくられており、しかもずいぶん良好な状態で残っていることをネットの情報で知りました。※ところが、さらに調べるうちにわかったことは、石垣は築城後数百年もたってから改築の際につくられようです。残念。 霞城 最初に訪ねるのは長野市松代町にのこる霞城、当時このあたりに勢力をもっていた大室氏の居城として造られたもののようです。 「永福寺」を目印に集落の奥まで入る ここに到るまでの道は幅狭でコンパクトカーでなければ入れません。また画像の右側は駐車スペースですが前日の雨でぬかるみひどい状態でした。 石塔のたつ道を登りはじめると、 すぐに岩が迫ってきます 山に岩が多いというより、山全体が岩という印象 堀切が残っていました 石垣 2段構えの石垣が見てきました 主郭部分全体を巻くように石垣がつづく ごぼう積みの石垣... Read More | Share it now!
1年ぶりに訪れた出石城から有子山城へのぼる
【兵庫県・豊岡市 2024.10.21】昨年夏に出石の街を訪れた際にはまず名産の出石蕎麦をたべて腹ごしらえし、出石城を見学しました。その出石城の裏手からさらに山道をのぼって背後にそびえる有子山の山上の城を見に行くつもりだったのですが、その日はたしか最高気温が37度に達する猛暑日で、急峻な坂道を目の前につぎの一歩が踏み出せず断念。それ以後忘れていたわけではありませんが、再訪はのびのびになっていました。 きっかけは些細な記事です。天空の城として全国にしられる竹田城を築いたのが山名家の全盛期をきずいた山名持豊(宗全)ですが、その持豊から5代あとの祐豊(すけとよ)は此隅山(このすみやま)城を本拠にしていたものの織田信長の下ではたらく秀吉に攻められ降伏、その後信長の許しをえてあらたに有子山城を築きます。その有子山ですが、落城した此隅山城が「子盗み」を連想させて縁起が悪いので、もとは別の名だった山を「有り子」山と名づけたのだとか。真偽のほどはわかりませんが、「そうだ、出石へ有子山城を見にいこう」と思い立つ発端にはなりました。 出石城から 出石城入口... Read More | Share it now!
天空の城・竹田城は雲海が見られなくても大満足
【兵庫県・朝来市 2024.10.21】鎌倉時代から清和源氏を先祖として歴史に名をつらねる山名氏は室町時代に全盛期をむかえます。山名兄弟で全国66ヶ国のうち山陰から丹後一帯の11か国を守護領国とし、そのため「六分の一殿」と呼ばれています。応仁の乱といえば足利義政や日野富子が主役の将軍家の後継争いが中心に取り上げられますが、そもそもの発端は細川勝元と山名宗全の幕府内における勢力争いが引き金になっています。その山名宗全、これは出家後の名で、諱(いみな)は足利4代将軍義持の一字を賜り、持豊。このひとが但馬の守護であったときに播磨の赤松氏にそなえて国境に築いたのが竹田城です。 竹田城といえば天空の城、雲海に浮かぶ城、あまりにもビジュアル面が有名であり、縁あってこのブログを見てくださっている方にとっても城の歴史はどうでもええわ、が本音かもしれませんのでさっそく見学に向かいましょう。 山上の竹田城 朝7時前 秋の竹田城といえば雲海があまりにも有名です。ネット等で調べたところ夜明けから8時ごろまでがチャンスとのことなので、7時前に着くよう早起きして来てみましたが、雲は左端のほうにわずかに見られるのみ。これは今年の秋の異常にたかい気温のため霧が発生しにくい、あるいは夜明けごろには見られてもすぐに気温が上がるため早々に消滅してしまうようです。今年のように高温がつづく秋には、見頃は11月も後半からと考えた方がよいのでしょうか。 古城山の山頂に竹田城の石垣がみえる日差で空が青くひろがる7時半頃から登城開始 表米神社から登ることにします 丸太階段道をえんえんと登る 以前(10年ぐらい前)に訪れたときにはJR竹田駅の裏から出発する道を登ったので、今回は500mほど南西にある表米神社から登る道をえらびました。結論からいうと、これはオススメできません。ふだん山登りに親しんでいない人にとっては、「修行に来たんとちゃうでぇ」と一声あげたくなることでしょう。 竹田城 縄張図を見かけたので掲載します 縄張としての竹田城の特徴をいうと、中心に本丸があり、北と南に両翼のように曲輪がのびて端がともにひろい千畳曲輪になっていること。山麓の駅裏から登っても表米神社からでもいったんは同じところにたどり着きます。そこが料金所になっています。料金所からは登り専用道があり北千畳よこにたどりつきます。そして城跡を縦走するようにあるいて南千畳から下ると、料金所から50mほど離れた場所に下りてきます。そこから駅裏へ下るのも表米神社へ下りるのも可能です。 北曲輪群 城郭が見えてきました 城内へ 桝形虎口になった大手門 大手門をあがって振り返る 二ノ丸から三の丸方向をみる 天守台方向をみる 北二ノ丸、三の丸をみる 南曲輪と天守台をみる 南曲輪群 天守台 天守台から南曲輪群を見わたす 天守台と周辺 南二ノ丸から天守台と北曲輪群の石垣をみる このあたりの石垣の石はきれいに削られ、 このあたりの石は粗く、築かれた時代が早い 下城する 駅裏道は九十九折りで歩きやすい 気持ち良さげな東屋がありました 駅裏は城下町の風情をのこす 寺院越しに山上の城郭をのぞむ 【アクセス】JR竹田駅より登城口はすぐ、登城口から城まで徒歩30~40分【入城料】500円【満足度】★★★★★ ... Read More | Share it now!
細川ガラシャが幽閉されていた三土野をたずねる
【京都府・宮津市 2024.10.20】まず細川家の説明から始めます。細川氏は南北朝時代に足利尊氏のもとで要職について勃興しますが、その後も脈々と家系を存続しつづけます。明治維新後も細川氏の系譜から侯爵、子爵、男爵と計8家もの華族がうまれ、平成の時代に誕生した細川姓の総理大臣もこの家系の人です。応仁の乱ののち勢力をうしなった細川氏本流にたいして、室町時代も末期になって分流ながら足利義昭をたてて幕府再興をはかったのが細川藤孝(のちの幽斎)。それを援けたのが明智光秀。光秀は(一説では)美濃の国衆であり、一時期美濃を掌握した斎藤道三と縁故関係にあり、さらに道三の愛娘・濃姫が織田信長に嫁いでいた縁から信長に接近。ここで義昭をともなって上洛し天皇の詔(みことのり)をえてあらたな将軍に据えることで、将軍家にたいしては大きな貸しを、朝廷に対しては太いパイプをつくる利を説きます。この計略はあらたな将軍となった義昭が信長の思惑どおり操り人形となることを嫌い独立独歩の態度を示したことで破綻、それどころか信長の逆鱗に触れ義昭は追放、信長は独力で天下統一にむけて驀進してゆきます。ここには明らかに歪みがあります。義昭はこのとき将軍のままなので信長は幕府の存在(意向)を完全に無視、また相手方から頼まれて義昭を新将軍たらしめる詔をくだした朝廷も完全に無視。一説では本能寺の変の黒幕は、幕府とも朝廷ともいわれています。 一方明智光秀と細川藤孝はともに信長に仕えながら戦功をあげ、城もちの家臣として取り立てられます。さらに家同士の関係強化のため信長の勧めもあって、光秀の三女・玉(のちに洗礼を受けてガラシャ)が藤孝の嫡男(跡取り息子)忠興に嫁ぎます。それから4年後、本能寺の変。もともと盟友でもあり親友でもありさらに互いの娘と息子が婚姻しているゆえ光秀としては細川家が味方してくれるのは前提としていた感すらあるのですが、想定外なことに藤孝は拒否の返事こそ寄こさないものの剃髪して引退し、家督を忠興にゆずります。明智光秀とは関わりはないし今後も関わる気はないとの宣言といえます。南北朝時代からえんえんと「家」をまもってきた細川家のこと、状況を細心に判断し光秀に与しても利もなければ与するだけの理もないと判断したのでしょう。忠興はどうかというと、明智光秀が主君・織田信長を討ったことはまぎれもなく謀反であり、「家」の存続を考えるなら光秀の実娘の玉の存在は厄介そのもので、通常ならば離縁したはずです。ところが夫の忠興には愛する妻を離縁することはできませんでした。 宮津 宮津市内にたつガラシャの像 忠興は玉を心底愛していました。しかしその愛は偏愛であり、しだいに狂愛のおもむきを帯びてきます。 宮津の城で暮らしていたときには、玉を誰にも見らないよう屋敷の一番奥の棟に監禁するように住まわせていました。もちろんいっさいの外出を禁じていたといいます。 山上から天橋立をみる 天橋立の先、入り江部分に宮津の街がひろがっています。そこに宮津城はありましたが、おそらく玉(ガラシャ)は最後まで天橋立を見ることはなかったのではないでしょうか。 忠興の狂愛についてはいくつも逸話が残っています。有名なところでは屋敷に出入りする庭師が偶然にも室内にいる玉の姿をのぞき見てしまい、そのことに激怒した忠興が即座に庭へ駆け下り刀で首をすっ飛ばしたとか。この逸話はよく耳目にふれますが、はっきり否定しているものはないのでけっこう真実なのかもしれません。 三土野へ 本能寺の変のあと、忠興は丹後半島の山中深くにある三土野の地に玉の身柄を移します。いうまでもなく大名の正室ですから身辺の世話をする侍女数名、さらに護衛のための武人と男手十数名程度がしたがいます。宮津城で暮らしたところで人に見られないよう屋敷奥に軟禁しているのですからわざわざ山奥に移さなくても良かろうにと突っ込みを入れたくもなりますが、資料によってはいったん離縁したと書いているものもあるので、もしかすると世間には離縁したこととし身柄を隠したのかもしれません。 棚田のひろがる山里 ここまででもずいぶん山奥へと入ってきましたが、三土野はさらに山奥の奥です。それどころかさらに奥へと進んだところ道が荒れはてて通行止めになっており、Uターンしていったん山をくだり違う道からあらためてアプローチすることになりました。とにかく車でたどり着くのさえ大変です。 なんとか三土野に着きました 大滝... Read More | Share it now!
関ケ原の合戦は仁義なきウチワモメだった?
【岐阜県・関ケ原町 2024.10.10】関ヶ原の合戦については、徳川家康率いる東軍と豊臣家を代表する石田三成率いる西軍が天下をわけて争ったというイメージがあるのですが、調べればしらべるほど違和感を覚えてしまいます。まずこの争いについては敵対する者同士が領土の取り合いをするといった戦国時代特有の戦ではなく、豊臣家の中での主導権をめぐる、いうなれば内輪揉めであると捉えた方がしっくりきます。 秀吉による豪奢な城づくりをはじめとした放逸な散財、あるいは意図の理解できない朝鮮出兵などの愚政に庶民だけでなく武人たちもほとほと嫌気がさしていました。それに取って代わろうとした家康。家康が天下をおさめた結果として生まれた江戸幕府が、大きな争乱もなく260余年にわたって太平な時代をつむいで行けたのは、ひとえに家康のビジョンが優れていたからでしょう。 関ヶ原の合戦を前にして、豊臣派であった多くの武将たちが家康に従うようになります。しかし家康がえがく将来の日本の姿に共感した、なんて者はひとりもいなかったのではないでしょうか。大半の武将はわが家(いえ)の存続のため豊臣方と徳川方とどちらが勝ちそうか天秤にかけた上でのこと。あるいは石田三成憎しの私怨で突っ走った者。ただ一人だけ家康の器量を認めたうえで、(豊臣政権を倒すかどうかは別にして)家康がトップに立って国政を取り仕切るべきと考えていた、と思われる武将がいます。それが石田三成に従い獅子奮迅の活躍をする大谷吉継であるのは皮肉すぎますが。 豊臣家の面々はどうなのかと見ると、北政所ねね(高台院)はどちらかというと三成よりも家康のほうに傾いていたようです。淀君と秀頼、一般には淀君が近江の生まれのため三成をはじめ近江衆と懇親であったと言われていますが、関ヶ原合戦の前後に淀君がいわゆる西軍のためになんらかの助成をしたかというとまったくその痕跡はありません。そうなると、西軍vs東軍とは豊臣方vs徳川方だったのかその構図さえ怪しくなってきます。 そもそも石田三成は、秀吉亡きあと秀頼をたてて豊臣政権を末永くつづけていこうと考えていたとして、どのような国づくりをするか明確なビジョンがあったのでしょうか。三成があれほど嫌われたのは本人の横柄な性格にくわえて、秀吉がおこなった悪政をそのまま取り仕切る代官であり、ほかの武将としては恩義のある秀吉には向けられない怒りの矛先を三成に集中させていたとも考えられます。 この関ヶ原へは今年の夏に訪れる予定だったのですが、あまりにも暑い日々がつづくため10月も半ば近くになってやっと腰をあげました。その間にもさらに下調べをすすめたため準備万端、いざ出発です。 ◆話の展開をわかりやすくするため、今回は歩いた順ではなく故意に並べ替えをしています。 毛利秀元、吉川広家 合戦がはじまる直前の陣形 赤で記された「東軍」のやや後方・桃配山に徳川家康が布陣しています。そのさらに後方の南宮山には黒で「傍観軍」と記された吉川広家をはじめ秀元率いる毛利家の本隊が控えています。 そもそも寝返ったのは吉川広家、そして毛利本隊を説得して山上にとどめ置き、安国寺恵瓊、長束正家、長曾我部盛親は西軍に味方していましたが、毛利の大軍が居座るため動くに動けなかったようです。 桃配山の家康の陣跡 後方の山並みが南宮山、その手前麓に桃配山 南宮山の手前にひろがる平地一帯に東軍の軍勢が陣取っていました。その後方に家康が本陣をかまえること自体に不自然さはないのですが、そびえる南宮山には毛利の大軍がいます。吉川広家の寝返りは確実だったものの、家康としては毛利秀元がどう動くかは最後まで確信できずにいたと伝わっています。しかしこの陣形をみれば秀元の寝返りも確信していたと考えるべきです。家康としては吉川だけでなく毛利も100%内応しており、南宮山山上から自分に襲いかかってくることは200%ないと信じていたからこそあの場所に陣を敷いたのでしょう。 毛利氏が徳川方に寝返ったのは、一にも二にも御家存続のためです。ところが家康の剛腕のまえには抗うすべもなく、関ヶ原後毛利氏は120万石から30万石に減封されたうえ、本州の西の端の長門・周防へ押しやられます。関ヶ原合戦で一番の貧乏くじをひいたのは毛利氏かもしれません。◆毛利氏はこのときの恨みを二百数十年忘れず、幕末には長州藩みずから先頭に立って江戸幕府(徳川幕府)をたおすため決起するのですが、それはのちの話。 黒田長政 黒田長政が布陣した丸山 黒田長政は、秀吉に天下を取らせた男といわれた黒田官兵衛の息子で、まさにあの親にしてこの子あり、たくみな人心掌握により秀吉子飼いの武将たちを次々に徳川方に引きこみます。父親の官兵衛(このときは剃髪後で如水と号す)が秀吉と一心同体のごとくであったにもかかわらずなぜ家康にすり寄ったのか。そもそもが石田三成とは反目しており、さらに親は親とわりきっていざ情勢を俯瞰したところおのずと家康に傾いたということでしょう。関ヶ原合戦後は、豊前中津12.5万石から筑前52万石の大名に大抜擢されています。 ◆黒田長政はなかなか恨み深い性格だったようです。官兵衛が幼少時から育てた家臣の後藤基次(又兵衛)とそりが合わずついには又兵衛が出奔してしまいます。又兵衛は武勇名高く仕官先には事欠かなかったのですが、長政がこのもの召し抱えることならずと全国に布告したため(これを奉公構という)又兵衛はその後浪人生活をおくるしかなく、それがゆえに大坂の陣では招かれて豊臣方につくことになります。 細川忠興 細川忠興の陣跡... Read More | Share it now!