城郭・史跡,福岡,大分

【福岡県北九州市 2026.1.18、大分県中津市 2026.1.22】 いま日本にのこる城の天守閣は、大きく分けると以下の4つのタイプがあります。 現存天守 :... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,京都

【滋賀県大津市~京都市 2026.1.2】新年があけて早々に出かけるとなると一般には初詣か初売りになるのでしょうか。しかし年じゅう社寺を歩き回っている私にとっては初詣は蛇足のようなもの、また物欲が枯れてきている身では初売りなんぞまったく興味がない。さらに両者ともに混雑は目に見えており、人混みの苦手な私にとっては苦役にすら思える始末。 ということで本来なら人のすくない山へ登山にゆくのですが、今年は2週間後に心臓のCT検査を控えている身ゆえ無理をするわけにもいかない。ではどうしようかと考えて、昨秋探索した琵琶湖の水運から思案がすすみ琵琶湖疏水を散策しようと決まりました。 途中にあった案内板(琵琶湖疏水ウォーキングマップ)より抜粋 大津・第一疏水 第一疏水取水口琵琶湖の水を疏水にひきこむ取水口ここが琵琶湖疏水の起点になります 第一疏水取水口... Read More | Share it now!

城郭・史跡,静岡

【静岡県・掛川市 2025.12.12】高天神城といえば、武田勝頼を思い浮かべます。さほど戦国時代の歴史に興味のない方からすると、そいつぁだれだ?となるのかもしれませんが、誰もが知っている武田信玄の跡取りです。信玄の四男とされています。信玄と正室とのあいだに生まれ最初から後継者とされていた嫡男・義信は謀反の疑いで切腹(幽閉されて病死との説がいまでは有力)、次男は盲目のため出家、三男は夭折。ということで四男の勝頼が後継者に指名されます。 たんに武田家の後継者であればメデタシメデタシだったのでしょうが、だれの跡を継ぐかといえば先任者はあの傑物にして英雄の信玄。これは重荷でしょう。しかも勝頼の母は、武田家の同盟者である諏訪氏の娘。諏訪氏は諏訪神社上社の神職を世襲する名族ではありますが、武田家の本拠が甲斐国であるのにたいして諏訪は信濃国の一地方。諏訪神社といわれても見たこともないし、家中ではそいつぁだれだ?の受け止め方だったのではないでしょうか。 勝頼は信玄に従って戦をかさね武功をあげますが、つねに力が入り過ぎた戦ぶりでした。本人が凡庸でしかも謙虚な性格であれば、信玄のもとにそろう名将ぞろいの重臣たちに支えられて武田家を(そこそこに)維持してゆくこともできたのでしょうが、勝頼は凡庸ではなかった。凡庸ではなかったからこそ父・信玄を越えたいと渇望したのでしょう。 高天神城 現地にあった案内図より抜粋山頂の石垣は昭和初期に造った模擬天守が焼失した残骸(この図は北が下になっています) カーナビに目的地として「〇〇城」と入力して検索した際、それが山城だと「該当なし」で非協力的な対応をされることが多いのですが、今回借りた車のカーナビは新しいのか古いのか知りませんが、「高天神城」と入力一発で目的地表示をしてくれました。ただし到着したのはなぜか搦手口(裏口)、どうせなら大手口(表口)から登城したかったのですが、まあ良しとします。 高天神城の歴史はといえば、今川氏の勢力下で維持されていたものの武田氏と徳川氏が(一時的に)同盟して今川を滅ぼした段階で徳川の支配下にはいります。さらに武田と徳川が同盟を破棄して争うようになると、信玄が2万とも3万ともつたわる大軍勢で包囲しますがなんとか持ちこたえます。ところがその3年後、この年は信玄の没した翌年になりますが、勝頼がやはり2万の軍勢をひきいて強襲し降伏させます。この戦勝によって勝頼の名は全国に知れわたります。理由は信玄でさえ落とせなかった城を跡継ぎ息子が落とした。このとき勝頼は父・信玄を越えたと勘違いしたのかもしれません。 搦手口から二の丸へ 搦手門跡から整備された道を上がるネットで調べたところ大手口からの登城道も同じように整備されていました 三日月井戸(右)... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,静岡

【静岡県・浜松市 2025.12.6】2023年放送の大河ドラマ「どうする家康」でもその騒動はあつかわれたようなので、ディープな歴史ファンでなくとも一般に知られているものとして話をすすめます。信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、そのドサクサに便乗して今川家の人質の身から脱出した家康。両者は臣従の関係ではなく同盟関係をむすびます。立場上信長が兄、家康が弟的な上下関係ではありますが、臣従ではなく同盟関係ですからあくまで対等な立場です。ここは大事なポイントですので念頭においてください。同盟関係を強化するため家康の長男・信康のもとへ信長の長女・徳姫が嫁入りします。このとき新郎・新婦ともに9歳、さらに信康の「信」は信長の一字を与えられたもの。政略結婚ミエミエですが、長男と長女の婚姻というところにこの政略結婚がいかに重要視されていたかが伺えます。ところがその二人が成人し娘ふたりが生まれたころから不仲になり、徳姫が父・信長に不平不満だけでなく、夫の信康と姑(家康の妻)の築山つきやま殿(せな姫)が敵の武田氏と通じているとホントかウソかわからないことを書きならべた手紙をおくり、それに激怒した信長が家康に無理強いして信康と築山殿を殺害させしめる、といういかにも眉唾物の話があります。家康の指示で信康が切腹したのが二俣城、また築山殿は見苦しく取り乱す懸念から二俣城に護送される途中で殺されたと伝わっています。今日はその二俣城を訪ねます。 二俣城 二俣城および鳥羽山城は浜松市の北部、以前は天竜市とよばれた(いまは浜松市天竜区)地域にあります。両城が隣り合わせており、縄張の具合から二俣城は軍事のため、鳥羽山城は居住だけでなく迎賓の意図もこめて造られたものと考えられます。天竜川と旧二俣川が合流する3方向を川の流れに阻まれた要害の地にありました。いまは天竜川が180度湾曲し同じように3方向をその流れで阻んでいます。残念なのは両城共にいまは木立が密生し、山城の最高部に立ってすら3方向をかこむ川面をはっきり見ることができず、いま自分がいかに要害の地に立っているのかを実感することができません。 現地にあった縄張図より抜粋 北の丸は神社の境内になっていました 北の丸と本丸を区切る堀(四号堀) 虎口... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,花、紅葉見ごろ,京都

【京都市 2025.12.1】「紅葉狩り / もみじがり」の言葉の由来は、「野山に分け入って自然の恵みを探し求める =... Read More | Share it now!

城郭・史跡,岐阜

【岐阜県・中津川市 2025.11.5】恵那市の岩村城から25kmほど北、中津川市の苗木城に移動しました。岩村城を居城にしていた遠山氏がさらに北へと侵攻する足掛かりとして築いたのがこの苗木城、それゆえ岩村城を本城とするとその支城ということになります。 歴史的にいえば、織田氏と武田氏の勢力争いの渦中に容赦なく放り込まれたような存在で、信長vs信玄から世代が変わってそれぞれの嫡男である信忠vs勝頼により獲った取られたと、目まぐるしく立ち位置がかわるのですが、その争乱については岩村城のブログで(その一部を)詳しく書いているのでここでは省きます。 今回ここ苗木城で注目したいのは、山城とはいえその山が岩山ゆえに、自然の岩を取り入れながら人の手による石積と合体して特異な石垣となっていること。岩を足場に支柱をたてその上に建物をすえる懸造かけづくりが築城に取り入れられていること。とくに後者は、ウェブの画像で見るかぎりにおいてもずいぶん珍しい城郭建築で、たいへん楽しみではあります。 登城口から足軽長屋 現地で入手した案内図より抜粋 左下の駐車場よりスタートし、足軽長屋から➀大矢倉、➁千石井戸、➂武器蔵をへて➃天守展望台へ向かいます。 なおこの案内図は部分的にずいぶんデフォルメされており、とくに中核となる天守周辺は大いに誇張されているため、現実に歩くのとは異なります。 足軽長屋から天守(展望台)をのぞむ手前の平坦地は二の丸 石垣に囲まれた道をすすむ 大矢倉 風吹門跡... Read More | Share it now!

城郭・史跡,岐阜

【岐阜県・恵那市 2025.11.5】今日これから訪ねるのは、岐阜県・恵那市の岩村城です。前回の妻木城のブログでも書きましたが、このあたり一帯はともに平安時代に始祖をもつ名門の土岐氏と遠山氏がしのぎを削っていた土地で、岩村城は遠山氏宗家の居城でした。鎌倉幕府がたおれ南北朝時代になると、土岐氏が足利尊氏のもとで勲功をあげ美濃の守護となり、この時点で遠山氏は土岐氏の後塵を拝することになります。さらに室町時代になると土岐氏が美濃全体の守護職であるのに対して遠山氏は美濃の一部地域の地頭職にすぎず、遠山氏は土岐氏に従属する立場になります。 時は移って下剋上に象徴される戦国時代。土岐氏の家臣であった斎藤道三が主君を追い出して美濃一国の主君になります。ところがその道三を嫡男の義龍が敗死させ、さらにその義龍が病死し浮足立っているところを織田信長が攻め立てて斎藤氏を壊滅させます。こうして美濃一国は西から織田氏(信長)、東から武田氏(信玄)が餓狼のごとく領土拡大をねらう草刈場と化してゆきます。このような状況下では、弱小の武家はより強い方に臣下の礼をとって家の存続をはかる以外に生き残る道はありません。ところがこのときの遠山家当主であり岩村城主である遠山景任かげとうは、巧妙なのか細心なのか、それとも単に行き当たりばったりなのか、武田に臣従しながら織田にも誼よしみを通じ、信長からその信長の叔母にあたる「おつやの方」を正妻としてもらい受けます。ここからドラマが始まります。 藤坂~初門~一之門 登城口にあった案内板より抜粋 ➀の現在地より番号にしたがって登城します。後に掲載する画像にはわかりやすいように案内図にある番号を記すようにします。 ➃藤坂 この石畳道は原型をとどめていなかったため昭和の末に修復復元したようです。この水路が当時からあったのかは不明 ➄初門... Read More | Share it now!

城郭・史跡,岐阜

【岐阜県・土岐市 2025.11.4】今回は岐阜県の東南部を回るつもりで大阪から(交通費節約のため)新快速と普通電車を乗り継いでまずは岐阜市へ、そこからはレンタカーを借りて一路東へ、向かうのは土岐市、恵那市、中津川市。このあたりは室町から戦国時代にはともに名門の土岐市と遠山氏がしのぎを削っていた土地です。 明智光秀が本能寺で信長を討つに先立って、愛宕百韻あたごひゃくいんの発句として「ときは今 あめが下しる 五月かな」と詠んだことは有名ですが、(このさいホントかウソかは別にして)ときは時と土岐を掛け、あめは雨と天を掛け、「時は今、土岐氏の出である自分=光秀が天下を治めるべき雨降る五月になった」と信長を討つ決意を表明したと言われています。 もし光秀が「とき」に時と土岐の意味をかさねているのであれば、たしかに明智一族は土岐氏の系譜です。名字が変わっているので宗家ではなく庶流ということになります。妻木城はその明智氏の始祖あたりの明智某がつくったとされています。ではなぜ妻木つまぎ城と呼ばれるかというと、明智氏の庶流に妻木氏がおり、明智某はここから25kmほど北西にある明智城を居城としたため、この城は妻木某に譲ったということです。まずはその妻木城を訪ねてみます。 ※明智光秀は明智城で生まれ育ったとされていますが、彼の前半生をあきらかにする資料は存在せず、「伝」の域をでません。そんなとこからも「ときは今... Read More | Share it now!