【滋賀県・大津市 2025.10.19】ウソかホントかわかりませんが、かつて滋賀県民が大阪や京都府民と喧嘩になったときに、「琵琶湖の水、止めたろか」と脅し文句だか捨て台詞だかをかましてきたとか。滋賀県といえば琵琶湖、その琵琶湖を水源として流れ出る瀬田川が宇治川となり、さらに淀川になって大阪湾に注ぎます。しかも琵琶湖へながれこむ川は100本以上あるものの、琵琶湖からながれでる川は瀬田川1本のみ。大阪も京都も水源として琵琶湖の水におおいに頼っているところがあり、そのため大阪・京都が国を動かして行おうとする瀬田川流域の治水事業には滋賀が反発、滋賀が独自の案をだすと大阪・京都が猛反発。なぜかというと、琵琶湖周辺で水不足のときには滋賀は水確保のため瀬田川から流出する水量を減らしたいが、そうなると下流域の大阪・京都は渇水状態になり、逆に雨が続くと琵琶湖の氾濫をおそれて滋賀は瀬田川から水を放出したいが、そうなると下流域は水浸しの危険に。奈良時代に行基上人が瀬田川の治水事業を行おうとしたときに地域住民の反対にあったというのですから遺恨の歴史はたしかに古い。江戸時代にも琵琶湖にかかわる治水事業は計画どおりに進まなかったようで、明治から昭和にかけて民衆の権利や自由の度合いが大きくなるにつれ、反対運動もおおっぴらに見られるようになります。おそらく当時の歴史をふりかえって、冒頭の「琵琶湖の水、止めたろか」の台詞が後付けでうまれたのではないでしょうか。昭和の高度成長時代になり、さすがに治水とて一地域の問題ではなく全国規模で考える必要に迫られたのでしょう、滋賀県と下流域の府県の合意のもと、総事業費1.9兆円の琵琶湖総合開発事業が国の承認をえて行われたようです。 琵琶湖へ水が流れ込む JR大津駅で下車して東へ歩きます途中に山から流れ出る水を 琵琶湖へ運ぶ水路がありました 2日前に湖西の北端にちかいマキノから、琵琶湖岸沿いに南へ近江高島まで20kmともう少し歩きました。その日は特別な目的地もなく、長めの散歩のつもりで左手に琵琶湖の風景を眺めながら歩いていましたが、休憩の際に湖畔のベンチでスマホを弄っていると、琵琶湖の水をめぐって滋賀県と下流域の京都や大阪がたびたび揉めたことがあるとの記事を見かけました。そのとき「琵琶湖の水、止めたろか」の文言も目にしたのであり、そこからにわかに琵琶湖の水利に興味を抱くことになりました。水利といっても飲料や農業のため利用されている水の実態は上辺を見ただけでわかるものでもないので、おもに水運として琵琶湖がどのような役割を担っていたのかを見てまわることにします。 膳所城 膳所城の遺構としてのこる石垣堀は元々は琵琶湖と通じていた 膳所(ぜぜ)とは、平安時代に琵琶湖で獲れた魚介類を天皇の食膳にとどける場所、そこからつけられた地名です。ここに関ケ原合戦で勝利した徳川家康が東海道の抑えとして城を築かせます、それが膳所城です。ところでわざわざ琵琶湖の湖岸に城を築いたのは、東海道の抑えだけでなく、琵琶湖の水運の抑えも企図してのことではないでしょうか。 本丸城門(再建、元のものは他所へ移築)この日は秋祭りで露天、そして多数の人出 現地にあった案内図よりこのとおり水城でした 櫓も橋も再建したものですが、往時の城のたたずまいはイメージできます 本丸跡地秋祭りでなければ閑散としているのでしょうか 本丸から船着き場へ下りる石段前方に見えるのは近江大橋 往時はこの石垣まで湖水が迫っていたのでしょう 膳所神社 膳所神社 ここも秋祭りで多くの人出。鳥居の奥の表門が膳所城の大手門を移築したものと伝わっています。 拝殿 主祭神は食物をつかさどる豊受比売命とようけひめのみこと。伊勢神宮の内宮にまつられる天照大御神の食事をつかさどっているとされ、外宮にまつられる豊受大御神と同じ神様です。 大津城 近江大橋西詰から琵琶湖をのぞむ 大津城、ではない。往時の水城・大津城をイメージして作った滋賀県立琵琶湖文化館 大津城跡の石碑下の図からもわかるように大津城も水城です 大津城の成り立ちは、秀吉が明智光秀の居城であった坂本城(やはり水城であったと伝わる)を廃城にしてここに新たな城を築いたものです。 関ヶ原の前夜、大津城主の京極高次は豊臣方であったにもかかわらず突如寝返りここに籠城します。大津は交通の要衝であり、しかも琵琶湖水運の拠点でもあり、西軍としてはなんとしても大津城を奪還せねばなりません。西軍1万5千の軍勢が包囲し、なかでも立花宗茂の活躍でなんとか降伏させるのですが、その落城の日が関ケ原合戦と同日で、この1万5千の軍勢、なかでも戦巧者の宗茂が合戦に間に合わなかったことも西軍敗北の原因のひとつとされています。 大津城の数少ない遺構である石垣の一部おそらく後から組み直したものでしょう、下手くそ 民家のフェンス越しに撮影させていただきましたこちらはいかにも往時のものらしい 織田信長の時代には、信長本人が琵琶湖東岸に安土城を築き、ちょうどその対岸に甥の津田信澄に大溝城を築かせ、大溝城の南に光秀が坂本城、安土城の北に秀吉が長浜城といったぐあいに、信頼できる甥と、重臣二人をあわせて琵琶湖を四方から囲むよう領土の統治をおこなっています。 豊臣秀吉の甥であり後に関白になる秀次の居城は、安土城からすこし南の近江八幡城。秀次が聚楽第に移ってからは、石田三成がさらに少し南の佐和山城。徳川家康の場合も、徳川四天王のひとり井伊直政が佐和山城からさらに湖岸沿いに彦根城を築いています。こうしてみてくると、水運が物流の大動脈であった時代には、京の都に近いこともあって琵琶湖を抑えることは全国平定のためには必須だったのでしょう。 琵琶湖疏水 時代は明治へと飛びます。琵琶湖から取水してそれを京都までながすため、この疏水(人口の水路)がつくられました。利用目的は、飲用、農業用水、工業用水、さらに蹴上(現・京都市東山区)に発電所がつくられそこで本格的な水力発電もおこなわれました。そして水運も。 琵琶湖からつづく水路 大津閘門(おおつこうもん)ここで水位を調整して船を山側に送る 閘門を裏側からみる 水路は山に吸い込まれ、そして京都へ Oh!... Read More | Share it now!
別子銅山、見どころ2つは必ず両方回りましょう
【愛媛県・新居浜市 2025.10.3】奈良の大仏にはおよそ500トンの銅が使われています。(加工しやすく耐久性も増すよう8トンの錫すずをくわえた青銅製)752年に開眼した初代の大仏はいまのものより全体に1割大きかったそうなので、単純に考えると550トンほどの銅が使われていたことになります。1300年近く前ですら銅の需要はそれほどあり、しかもその需要に応えうる生産もあったということでしょう。 戦国時代までは、銅のおもな使い道と言えば貨幣または仏像仏具をつくることに特化していたようです。加工しやすい反面鉄にくらべて軟らかいため武器や工具には向かなかったのでしょう。江戸時代になると、火事への防火対策から屋根瓦として使われるようになります、ただし社寺や城がおもな対象で、一般の家屋には普及していません。単純に高価なためというのが理由です。高価といえば、江戸時代には鉄鍋も普及していましたが、熱効率のよい銅鍋はコストの面で生産に到っていなかったようです。 明治から大正へと時代が進むにつれて電気が普及し、電線として銅が使われます。その後も文明がすすむにしたがい、導電効率、熱伝導効率などの観点から銅の需要はますます高まってゆきます。 ブログの冒頭ではいつもはその歴史について書くのですが、別子銅山は江戸時代に住友が開坑し、昭和48年(1973)に住友が閉山。最初から最後まで同一企業により操業していたもので、歴史では書くことがなにもありませんでした。 別子銅山・端出場地区 別子銅山の見どころはこんな山の中にある 新居浜駅から7.5km南へ。初めは市街地を走りますが、突然に山のなかへと入りこんでゆきます。そして到着したところはこんな山中。雨雲が垂れ込めているので心細ささえ感じる風景です。 トロッコ列車にのって鉱山入口までゆきますが、その出発時まで時間があるので先に発電所を見にゆきます。 水力発電所 別子銅山が操業していた当時使われていた水力発電所 レンガ造りのしっかりした建物 建物内の様子タービンと発電機 建物下にある放水口ここから噴出する水の勢いでタービン(水車)を回す 坑道 実際に使われていたトロッコ列車 観光客が乗るのはこれ... Read More | Share it now!
河の後ろの森にあるから河後森城か
【愛媛県・北宇和郡 2025.9.30】愛媛県南部(いわゆる南予)の中心都市である宇和島から東(内陸)へ15kmほど、高知県との県境近くに河後森かごもり城はあります。昔風にいえば、伊予国と土佐国の境。地図上で見れば、東を流れる広見川とその広見川に各々注ぎこむ鰯川が北、堀切川が南をかこむ防御面からは絶好の山上。 この河後森城ですが、歴史的には特筆するようなものはありません。長曾我部氏が四国制覇を目指していたころ、抗戦する城主を家臣の某氏が裏切り、いったんは長曾我部氏に下ったものの、次には四国平定に乗り出した秀吉の軍のまえに降伏。大きな力、次はさらに大きな力に圧迫されつづける戦国時代の典型的な城の歴史をたどったと言うことです。 興味深い出来事をしいてあげれば、藤堂高虎が宇和島城主だったときに、この河後森城の天守を解体して運び、宇和島城の月見櫓に移築したとのこと。しかしこれも「事実」として記しているものもあれば、「伝承」として片づけているものもあり、そもそも宇和島城に当該の月見櫓が残っていないのですから感慨にふけることもできません。 そんな河後森城ですが、現実に探索してみるとこれがなかなか面白い。と言うことで、ブログに残しておくことにしました。 河後森城 駐車場から奥へ進みます 谷間の道をあるく 現地にあった案内図より抜粋 いま案内図真ん中の「現在地」に居ます。この城の特徴は谷をかこむ... Read More | Share it now!
宇和島城はずいぶん変わってしまったようで
【愛媛県・宇和島市 2025.9.30】戦国武将のなかで築城名人として知られるのは、藤堂高虎、加藤清正、黒田官兵衛(孝高)の3人です。その築城術において長けているところは各々異なり、誰が一番優れているかの判断は好みもあって決めがたいでしょうが、もっとも多くの城普請に携わりその才能を後世に多数遺したのは間違いなく藤堂高虎です。 藤堂高虎ははじめ浅井長政につかえていたようですが、浅井家が織田信長に滅ぼされたことから浮かばれぬ浪人さながらの境遇をへて、秀吉の弟・秀長にひろわれます。これが運命の出会いだったのか、まずは武人として頭角をあらわし、秀長の但馬攻めをへて、賤ヶ岳の戦いでも七本槍の七人に負けぬ戦功をあげています。さらに秀長が紀伊平定を進めるなかで、粉河寺こかわでら勢力を牽制するため猿岡山城(和歌山県・紀の川市)を築きます。これが高虎の最初の築城となります。(この猿岡山城はいまは公園として整備され当時の姿を思い浮かべるにも無理があります) その後秀長の紀伊平定が東へとすすむと、一揆をおさえるため(いまの三重県・熊野市に)赤木城を築きます。もちろん普請役は高虎。この城は大規模なものではありませんが、高虎の非凡な才能をうかがわせる傑作です。 赤木城をつくって一揆を平定した2年後に秀長が死去。高虎は秀吉・秀長の甥(一時期関白になった秀次の次弟)であり秀長の養子となっていた秀保ひでやすに仕えることになりますが、その秀保も夭逝。よほど律儀な性格なのか、高虎は出家して高野山に上がってしまいます。 宇和島城 長屋門から入る... Read More | Share it now!
知られざる勇将・加藤嘉明が築いた松山城
【愛媛県・松山市 2025.9.29】賤ヶ岳の七本槍と称された加藤姓の武将、といえば少しばかり歴史好きな方なら容易に加藤清正を思い浮かべるはずです。ところが加藤姓の武将がもう一人います、加藤嘉明よしあき。といってもこの武将の名をフルネームで覚えている方はさぞかし少ないのではないでしょうか。たしかに清正のことを知りたいと思って探せば、研究書、解説書、小説、コミックなどわんさかみつかります。一方の嘉明はというと、せいぜい近衛龍春氏の小説『加藤嘉明』くらいのもの。しかもこの小説には副題が付いていて「賤ヶ岳七本槍・知られざる勇将」-... Read More | Share it now!
剣山の磐座をたずねて、神に接することはできるのか
【徳島県・つるぎ町~美馬市... Read More | Share it now!
ひきたと読めば引田天功、ここはひけたと読む引田城
【香川県・東かがわ市 2025.9.17】東西に横長な香川県のずっと東の端、まもなく徳島県との県境をこえて鳴門海峡から淡路島に到るというあたりの、瀬戸内海に突きでた岬の山上に引田城はあります。なお「ひけたじょう」と読みます。「ひきた」と読めばマジシャンの引田天功、「ひいた」と読めば興ざめということで誰も訪ねてはくれなくなります。それでは歴史をざっと。そもそもは室町時代の守護職・山内氏の家臣である寒川氏の、そのまた家臣である四宮氏の居城でした。守護の家臣の家臣ですからそれほどの大物ではありません。すなわちさほど大物でもない人物の城だったわけで、そのまま終われば今の時代に国の史跡に指定される(続日本百名城に選定もされている)こともなかったでしょう。織田信長がこの世の現れなければ、おそらく最初に武士として天下統一を成し遂げたのは三好長慶であろうといわれています。その三好氏の出身地は徳島県(阿波)の三好市、三好郡あたりで、そこから讃岐へと勢力をのばしこの引田城も我が物とします。信長の出現で三好氏の勢力は畿内から一掃され、四国でも土佐の長曾我部氏の台頭でしだいに影が薄くなってゆきます。そんななかで本能寺の変により信長が横死。信長の死による時世の混乱に便乗して畿内へ攻めあがろうとした長曾我部氏を抑えるべく、秀吉は若い時から馬廻衆をつとめていた仙石秀久を差し向けます。仙石久秀は淡路島を攻めくだりこの引田城にかまえて果敢に戦いますが、そこは四国の虎の異名をもつ長曾我部元親のこと、力攻めに攻め立てたため仙石勢はたまらず城を捨てて敗走します。 この時点での引田城は石垣も石組もない、土塁と堀だけで防御された室町時代の山城のまんまだったものと思われます。秀吉は天下統一も大方なし終えたころ、信長の従兄弟でもあり重臣ともいえる生駒親正に讃岐一国をあたえます。引田城に石垣の防御が取り入れられたのはこの親正の時代のことと推定されます。 しかし石垣で守りを固めたもののその後は戦乱もなく、江戸時代に入ると一国一城令が出され、引田城は廃城となりしだいに朽ち果ててゆきます。 引田城・北曲輪から北二の丸 登城口近くの駐車場にあった案内図より抜粋 赤で記された【現在地】から北曲輪へ上がり、北二の丸へ、そこから時計回りに一周して東の丸、化粧池、天守台、本丸とみて、北二の丸へもどって元の駐車場へと下ることにします。 登城道というより、登山道と呼ぶ方がふさわしい? このあたりが北曲輪... Read More | Share it now!
唐の進攻にそなえて造られた古代山城・屋島城、城山城
【香川県・高松市、坂出市 2025.9.17】7世紀、朝鮮半島でおこなわれた白村江の戦いにいたるまでの経緯を述べておきます。そのころ中国大陸において隋のあとに興った唐は、朝鮮半島のなかで自国と国境を接する高句麗に対してたびたび侵攻をくり返していました。朝鮮半島の南端にある新羅は、唐からの直接の脅威はないものの隣国の百済とは敵対関係にあり、しかも高句麗が倒された時には、つぎは唐の進攻がわが身に及ぶことは明らか。そこでみずから唐にすり寄り、冊封国(宗主国=唐にたいして臣下の礼をとって朝貢国となり、攻撃を受けないだけでなく他国との争乱のさいには援軍を要請する)の位置におさまります。そして唐が高句麗を征圧するのと前後して、新羅は唐に対して百済征討を要請します。 そのころ日本(倭国)は百済と友好関係をむすんでいました。百済に危険が迫っていることを知った朝廷内では、救済のため海をわたって軍を派遣することも検討されますが、唐の戦力を怖れてのことか、あるいは侮っていたのか積極派の案は却下。そうこうしているうちに唐と新羅の連合軍は百済全土を蹂躙してしまいます。さすがに倭国の朝廷も目が覚めたようで、さっそく船をととのえて朝鮮半島にむかいます。これが白村江の戦いにいたるまでの推移です。さて白村江の戦いで、倭国と百済(の敗残兵)の連合軍は、唐に大敗、惨敗、完敗。這う這うの体で逃げかえります。こうして朝鮮半島では高句麗と百済が滅亡し、新羅は唐の冊封国となっており、いまでいう東アジアにおいて唐に相対するのは倭国のみとなっていました。 屋島城 冒頭「つかみ」の部分が一見ムダな記述のように思えるかもしれませんが、いかに当時の日本(倭国)が唐と新羅の進攻を怖れていたかが念頭にないと、対馬から畿内にかけていまにのこる古代山城の築城理由が実感として理解できないと思います。またこのとき日本(倭国)へと逃避した多くの百済の人々がそのまま定住し、朝鮮の文化や技術をつたえた歴史も認識しておく必要があります。いままでに訪ねた古代山城としては、奈良県の高安城➀(遺構はわずか)、岡山県・総社市の鬼ノ城きのじょう➁、福岡県・太宰府近郊にある大野城➀、基肄きい城➀ --それぞれブログはあります。今回は香川県の瀬戸内海を見下ろす位置にある屋島城➀、城山城➁をたずねます。※古代山城は厳密には、日本書紀に唐や新羅からの進攻を防衛するため築城したと記録ののこる朝鮮式山城➀と、記録がなく遺構の発見・発掘によって古代山城と認定した神籠石式山城こうごいししきやまじろ➁にわけられます。なお朝鮮式山城とよばれる理由ですが、日本に定住した百済人から伝えられた当時の朝鮮の技術により築城されたゆえです。 前方に見えるのが屋島の特異な山容 そもそも屋島は「島」ではありません。一部(北嶺)が瀬戸内海にむかって突き出してはいますが、南嶺からは地続きで、南から北の海へとのびる台地状の丘陵と思ってください。 現地にあった案内板より抜粋 今回歩くのは、城跡がのこる南嶺だけです。地図の右下の屋嶋城城門まで麓から登り、北へすすんで談古嶺、西へ進み南へくだり、屋島寺に寄ったのち地図上の南嶺を一周して城門までもどります。 そこそこ自分の足で上がる観光客もいるのか、登り道は丸太階段で整えられています。 防御のための竪堀が2列、いわゆる畝状竪堀跡 まもなく、とはいっても結構しんどい登りの後、城門にたどり着きます。 古代城ですから、言うまでもなく石垣は修復したもの 城門上から 城門を俯瞰する崩落を防ぐためでしょうが、修復のやり過ぎ 談古嶺から瀬戸内海を遠望する 談古嶺から西進しながら瀬戸内海へと突きだす北嶺をのぞむ 新屋島水族館あたりから北嶺をのぞむいかにもテーブルマウンテンの異名どおり 西尾根から南嶺の山頂あたりをのぞむ山頂ちかく中央の土色部分が城門 のちの城でいうところの、本丸跡いまは集いの広場と名づけられた公園? 屋島寺 見てまわった感想は、なんと言えば良いのでしょうか。ここは山城を探索にくるのではなく、瀬戸内海の眺望を楽しみながらの山歩きを目的に訪ねることを断然おすすめします。 城山城 上から読んでも下から読んでも「しろやましろ」ではなく、「きやまじょう」と読みます。兵庫県たつの市にも漢字で書くとおなじ城山城があり、こちらは「きのやまじょう」と読ませています。読み方はどうあれどちらも神籠石式山城であり、「城山城」という安易なネーミングを重複して使っていることからも推測できるように、古代山城はずいぶんたくさん造られたようです。 車道脇に城跡へあがる山道がありました ホロソ石... Read More | Share it now!
秀吉が朝鮮出兵のためだけに造らせた名護屋城
【佐賀県・唐津市 2025.7.11】秀吉は木下藤吉郎を名乗っていたころは、明るいキャラクターで好漢といって良いと思います。そこから出世して、羽柴秀吉を名乗るころからずいぶん狡猾な顔が見えはじめますが、それでも成り上がる姿とあわせて見れば英傑と評価できます。ところが天下統一をなしとげ、豊臣秀吉を名乗りはじめたときから理解しがたい行動が目立ちはじめます。欲と見栄に毒されたのだろうでは説明のできない、正常な判断力がうしなわれついに狂気にとりつかれたのか。狂気とするなら、その最たるものが朝鮮出兵かもしれません。 秀吉の外征(俗にいう唐入り:当時の中国は明の時代ですが、通称として唐とよんでいた)といえば朝鮮出兵ということになりますが、もともとは朝鮮を切りしたがえて続いて明に侵攻するというのではなく、秀吉の意識のなかではどうやら端から朝鮮が日本に対して反抗するはずがないと決めつけていたようです。そこで、明(中国大陸)を征圧するための軍をすすめる上で朝鮮半島を通るゆえ「征明嚮導せいみんきょうどう(明を征圧に向かうときにはその道案内をしろ)」と秀吉は一方的に命じます。朝鮮王国は公的にも明に対して臣従しています、明国の保護下にあるとも言えます。一方日本に対してはなんら主従関係はありません。秀吉の使者はことを荒立てないよう「仮途入明かとにゅうみん(明に入るときには道を貸してくれ)」と表現をかえて要請しますが、朝鮮王国の抱く不快感は警戒感へとかわってゆきます。 名護屋城 大手口前に入城口があります。入城料は無料ですが、遺跡保存のための協力金として一人100円を任意で払うとここにアップしたガイドマップをもらえます。 協力金は別にして、この地図のためだけでも100円は払うべきです。 大手口から東出丸へ 大手口を通り抜け、 登城坂をのぼる... Read More | Share it now!
基肄城 / 佐賀県にも大宰府の遺構はのこる
【佐賀県・三養基郡基山町みやきぐんきやまちょう 2025.7.10】基肄城きいじょうについては基山町のHPに簡潔に要約された説明がありましたので、抜粋して添付させていただきます。『基肄城跡は、今から1,360年前の天智4年(665年)に大野城跡(福岡県)とともに築かれた日本最古の本格的な山城で、構造上の特徴から「朝鮮式山城」と呼ばれています。 天智2年(663年)、唐・新羅の連合軍に滅ぼされた百済の再建を支援するため、韓半島に出兵した倭(当時の日本)は、白村江の戦いで大敗します。その後、大宰府を中心としたこの地一体の防衛する目的で、この基肄城が築城されました。 自然地形がうまく利用されており、基山(きざん:標高約405m)とその東峰(標高327m)にかけて谷を囲み、約4kmの土塁・石塁を巡らして城壁としています。尾根沿いには土を盛りあげた土塁を、谷部には石を積んだ石塁を築いて塞いでおり、城壁の途中には、4ヵ所(推定を含む)の城門が備えられています。』 それでは現地を歩きながら何点か補足してゆきます。 基肄城 南門跡付近にあった案内図より抜粋 同じく、よりリアルな案内図 南門から北へあがって東北門へ。丸尾礎石群、展望台を経由して基山山頂へ向かいます。 土塁線沿いに一周すると3時間くらいだそうです。普段なら歩くのですが、あまりにも暑いので短縮します。 「基肄城」の名の由来ですが、『肥前風土記』に記録されるところでは、むかし景行天皇がこの地で行宮あんぐうしたさいに霧が立ち込めていたため「彼の国は霧の国と謂うべし」と告げた、その霧に由来するとの説もあるようですが、そう聞かされてもあまりピンときません。よくわからない、ということで片づけさせてください。 南門跡 南門をかためる石垣最下部に複数の排水路がみられる 城内の雨水などを排出する水路と水門 東北門跡 南門から谷沿いを20分ほどあるいて東北門につきました。手前までは作業車が走れるぐらいの道で、楽に歩けます。 丸尾礎石群 ほぼ山登り、または山歩き 丸尾礎石群 丸尾南礎石群有事のさいにそなえた倉庫群と考えられている 丸尾西礎石群建物の大きさは大半が3✕5間(1間=1.8m)と予想 展望所 山中からひょっこり開けた場所へ 北帝方向をのぞむここを北帝門まで歩くつもりでしたが、あまりにも暑いので中止、眺めるにとどめました。 南の基山にむかって歩きます 前方の方形が基山山頂です。 大礎石群、基山 すこし下って大礎石群へ ここの建物は礎石の間隔から3✕10間と考えられる。ここだけが大きく、しかも全体を見わたす地にあたることから、特別な目的でつくられた建物であろうとのこと。作戦室とか集会所のようなところだったのではないでしょうか。 ところで基肄城跡全体では40の建物跡がみつかっています。 道をもどって基山山頂へ 基山山頂手前で振りかえる土塁を4つに割ってつくった堀切... Read More | Share it now!