城郭・史跡,島根

【島根県・津和野町 2025.3.22】「天空の城」を英語でいうと「the castel in the... Read More | Share it now!

城郭・史跡,山口

【山口県・萩市 2025.3.21】毛利氏は戦国時代には10か国120万石の大大名でした。当主の輝元が秀吉亡きあと豊臣政権下の大老であったことに加え、西国最大の大名ということもあって関ヶ原の戦いでは西軍の総大将に祭り上げられます。輝元にとって西軍の総大将になることが本意だったか否かはここでは深く探りません。輝元の従弟にあたる吉川広家が東軍が優位であると冷静に判断して、毛利家を存続させるため徳川家に内通し、結果として西軍のなかで最大勢力である毛利家が不戦を決めこんだたため西軍は敗北します。(一般には小早川秀秋の裏切りが東軍勝利の決め手になったと語られていますが、合戦の前半は西軍優位でありこの時点で毛利軍が西軍のために果敢に戦えば西軍の勝利は手が届くところとなり、さらに戦況を見守りながらどちらに味方するか迷っていた小早川軍は、すくなくとも絶対優位な西軍に向かって突撃することはなかったはずです)広家だけでなく毛利家のすべてのものが、積極的に東軍に味方しなかったものの毛利家が戦わなかったことで東軍に勝利を呼び込んだのですから、当然自領はすべて安堵されるものと期待していたようです。ところが家康は「いともあっさり」10か国120万石の大半を削り取り、毛利氏は周防と長門2か国36万石に大減封のうえ本州の西の端へと追いやられます。この時の恨みから幕末には長州藩が餓狼のごとく倒幕に奔ったことは「吉田松陰」のところで書きました。また吉川広家は面目がなくなり岩国へ押しやられ、江戸時代は長州藩の家臣の立場をしいられたことも「岩国城」のところで書きました。 今日は宗主である毛利輝元がそれまでの居城であった広島城をはなれ(追われた、に等しい)、あらたな拠点として築いた萩城をたずねます。 平城・外観 城入口にあった案内図より抜粋 萩城は海沿いの、もと三角州につくられた平城と、背後にそびえる指月山しづきやまの山城とで構成されます。平城の方が居城であり、行政もここで行われていたようです。山城の方は詰城、すなわち敵が攻め込んできたときに山に上がり防御につとめる最後の拠点です。 関ケ原の戦いの後といえば平和な江戸時代への入口にあたり、なぜここまで戦にそなえた城を築いたのか、不思議といえば不思議です。 右にみえる橋を渡って城郭へ後方に見えるのが指月山です 海につながる水路が外堀の役もになっている この石橋をわたって二の丸から本丸へこの水面は内堀になります 石橋を渡りながら本丸の石垣を観察する... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,山口,山さん

【山口県岩国市 2025.3.18】岩国城は吉川広家により江戸時代初期に築城された城です。吉川広家について書いておきます。戦国時代に中国地方の覇者となった毛利家の宗主・毛利元就は、長男が早世したためその嫡男・輝元に家を継がせ、次男・元春については地元の有力国人である吉川家に養子入りさせ、後にその家督を継承させます。(要は家督の乗っ取り)(三男・隆景は小早川家に養子入りして後に家督をつぎます)その元春のあとを継いだ次男(長男は戦死)が広家です。広家は秀吉にその武と智を認められ、豊臣姓を名乗ることを許されるほどに厚遇されますが、どうやら秀吉の一番の側近である石田三成を嫌悪していたようで、その嫌悪ゆえに関ヶ原の役では情勢を冷静に分析して東軍・家康に内通することを決めます。関ヶ原で天下をかけた合戦がおこなわれている最中に陣から動こうとしない吉川軍にたいして西軍から矢のような催促がなされますが、広家は「いま昼飯の弁当を食べている」といかにも人を喰ったような言い訳をして不動を決めこんだため、この逸話は「広家の空弁当」としていまに伝わっています。ところで広家としては関ヶ原で不戦をきめこむことで実質的に東軍に味方したわけで、家康から毛利家の全領土の安堵を約束してもらったつもりでいたのですが、そこは役者が数段上の家康のこと、あっさり約束は反故にされ毛利家は10ヶ国120万石の大大名から周防・長門2か国36万石へと大減封されてしまいます。ここからの広家の立場は微妙です。毛利家では白い目でみられ毛利領の東の端である岩国に追いやられ、江戸時代を通して岩国は藩とは認められず長州藩の家臣として冷遇されます。一方徳川家からは相応の待遇をもってむかえられ一国の領主であり大名として遇され岩国の地にあらたな城を築くことを認められます。そうして築かれたのが岩国城です。 錦帯橋の頭上にみえる岩国城 錦帯橋と山上に小さくみえる岩国城・天守 錦帯橋をわたったあたり一帯が居城であり、山上の城は詰城に相当します。※詰城とは戦時に最期にこもって拠点とする山城のこと ところで晴れ男を自認する私にとっては珍しい雨模様、旅先で雨に遭遇するのはいつ以来でしょうか。傘を携帯するなど考えてもいなかったので駅そばの店で折り畳み傘を買いました。 自動車も上がれる道を30分雨は上がりました 山城の入口にあった案内図より抜粋 石垣 二ノ丸と本丸をまもる石垣 本丸側から二ノ丸側をみる 出丸をまもる石垣 大手門へつづく 天守 天守はコンクリートで復元したものですさすが晴れ男、山城に到着したら青空 天守は下層より上層の方が大きい、唐風とか南蛮風とよばれる様式だそうです 天守からの眺望 拡大すると錦帯橋がはっきり見えている もともとの天守台跡 昭和の時代に天守を復元するに際して、山麓から天守がよく見えるように、また錦帯橋とセットにした図柄の見栄えも計算して、もとあった位置(この天守台の位置)から30メートル南寄りに築城したようです。 またこの天守台の石垣も掘り起こして組み立てなおした復元物です。 堀、北の丸 本丸を離れると石垣は崩れたまま 個人的には、一部はそのまま残すことを希望します 本丸との間を区切る巨大な堀案内図によると、ここは水堀だったようです 違う角度からみると、石積跡がありました 北の丸 大釣井(井戸)跡 錦帯橋の頭上に岩国城か、岩国城の眼下に錦帯橋か、どちらの眺めも素晴らしいものですが、城の天守を南に動かして再築した事実を考えれば、前者は観光用につくられたものと言えます。しかも私にとっては前者の眺めは雨のもと、後者は晴天のもととなれば、自ずと軍配は後者となります。岩国を訪れた際にはぜひ山上まで上がって錦帯橋をふくめた眼下の絶景をお楽しみください。(ロープウェイも運行しています) 【アクセス】錦帯橋を渡った地点から山城まで徒歩30分、下りは20分【料金】錦帯橋:往復310円、岩国城・天守入城料:270円【満足度】★★★★☆  ... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,鳥取

【鳥取県・東伯郡湯梨浜町 2025.3.1】鳥取県は東西に長細い地形ですが、ちょうど中央あたりの日本海寄りに東郷池があります。最寄りの駅はJR松崎駅、そこから内陸にむかって1時間余り歩くと羽衣石うえし山に着きます。その山腹には天女が舞い降りて羽衣をそこに掛け水浴びをしたとの伝説がのこる羽衣石はごろもいしがあります。羽衣石の伝説から羽衣石うえし山の名がのこり、その山上に築かれた城ゆえ羽衣石うえし城と呼ばれることになったのでしょう。 羽衣石城は南北朝時代の出雲の守護・塩治高貞の次男・南条貞宗が築城し、この貞宗がのちに伯耆一円の有力国人として名をのこす南条氏の始祖とされています。南条氏はこの羽衣石城を拠点にして主に東伯耆の支配をはかりますが、戦国時代になると山陰地方の各地がそうであったように尼子氏、大内氏、毛利氏、織田氏が入り乱れ、幾たびかの攻防の末に最期は南条氏が属する関ヶ原の戦いで西軍が敗れたために廃城、230年の歴史に幕を引きます。 羽衣石山にむかって 歩くのは公道ですが、車はほとんど走っていません 中央の盛り上がった山が羽衣石山 羽衣石山をのぼる 中腹まで車で上がれます... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,鳥取

【鳥取市 2025.2.27】鳥取駅から北東に5kmほどのところに、いまでは駅周辺の中心街よりもむしろ開けた感のある湖山の街があります。家内の実家がこの湖山にあるのですが、家内が里帰りしている期間中に私も訪ねることにしました。じつはこの家にはほぼ人間と同等にくらす犬犬がいます。私が訪ねるおもな目的はこの犬犬の世話ということになります。 ケンタ・柴 ソウタ・豆柴 いきなり犬犬の写真をアップするところなど、親バカなバカ親のようなものですが、そのように自覚はしていますので笑って見逃してください。 湖山池について 犬犬と湖山池を散歩する 家内の実家から300mほどのところに湖山池があります。周囲18kmの、池と呼ばれるものの中では日本でもっとも大きな湖沼です。この湖山池をあるいて一周するのも今回の目標のひとつでした。天気もよいので今日こそと考えていたのですが、犬犬の日頃の運動量からして散歩がてらに一周歩かせるのはとても無理だろうということで、残念ながら犬犬はいったん家にもどし、ひとりで歩くことにします。 湖山池公園オアシスパークをあるく 池中央右寄りに青島が見える いったん公道に出ます... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,大阪

【大阪府・堺市~大阪狭山市 2025.1.20】行基上人は正真正銘のえらい人だと思います。14歳(15歳?)で出家し薬師寺(奈良市)で法相宗を学び名を行基とあらためます。そこまではフツーの出家者なのですが、やがて自分だけがどれだけ学ぼうがこれでは誰ひとり救えないと思いいたります。飛鳥時代当時の僧侶の役割とは、中国(隋または唐)から仏教を取り入れそれを学問としてまなび、知識として吸収し寺院を建立することでその教えを定着させることでした。そんな時代に行基は寺から俗世にでて民衆に辻説法をおこないます。僧侶が直接民衆に説法をおこなうのは禁じられていた時代です。まず寺院が騒ぎ立てますが行基人気は高まるばかり、その説法の場にはときに一千人もがあつまるほどになり、ついに寺院は朝廷に讒言ざんげんしてまで弾圧をつよめます。行基はといえば弾圧なんぞどこ吹く風、説法であつまった人々を指導し先ずは布施屋(貧しい人たちの救護施設であり宿泊施設)をつくり、さらに民衆のための土木事業にも着手し、橋をかけ用水路を掘り溜池をつくります。※井上薫氏の「行基事典」をもとに国土交通省が作成した図表には、行基がたずさわったインフラとして、池(溜池)15、溝(用水路)6、堀4、樋(水門)3、道1、橋6、船息(港)2、布施屋9とありました。 開口あぐち神社 赤鳥居 本殿 神仏習合の時代には寺と社が混在した<境内の案内図より抜粋> 開口あぐち神社は奈良と堺をむすぶ日本最古の官道(国道)である竹内街道の西端に位置し、堺の港を守るために建立されたと伝えられています。かつては広大な敷地内に行基が建立した念仏寺が存在したそうです。いまは念仏寺は廃寺となり痕跡すらありませんが、いまも神社でありながら当時の愛称から「大寺さん」とも呼ばれていると説明板にありました。 堺をあるくと古墳にあたる 大きな交差点を越えて東南方向へ陸橋の錆び具合からも自治体の困窮ぶりが伺えます 仁徳天皇陵の脇をかすめ、 大仙公園から履中天皇陵をのぞみ、 文殊塚古墳のまえを通る 家願寺えばらじ 本堂... Read More | Share it now!

城郭・史跡,神奈川

【神奈川県・足柄上郡山北町 2025.1.10】二宮金次郎(のちの尊徳)はいまの小田原市栢山かやまの生まれです。金次郎の実家はそこそこの田畑を有し食べるには困らないレベルの農家でした。いまの栢山もそうですが、当時(江戸時代末)の栢山村も富士山東麓を源とする酒匂川さかわがわが村を北から南へ縦断するように流れており、金次郎の幼少時代に大規模な氾濫があり村の田畑はほぼ壊滅するほどの被害に見舞われます。むかし小学校に必ずと言っていいほど設置されていた、書を読みながら薪を背負ってあるく二宮金次郎の像は極貧時代のこのころのものと思われます。その金次郎は苦学と努力の末に今でいう農政家となり、地元の酒匂川の治水事業もふくめて国内の数々の村落を復興させます。 相模湾にそそぐ酒匂川の河口から上流へとさかのぼること20km、いまの足柄下郡山北町のやはり酒匂川沿いに河村城はあります。じつは二宮金次郎は今回のブログの内容とはまったく関係がありません。河村城の地理的位置を説明するうえで印象にのこるものはないかと地図を見ているうちにめずらしい酒匂川の名が目にとまり、そこから金次郎にたどり着いたという次第です。なお酒匂川さかわがわは氾濫のさいの暴れぶりから川が逆流するという意味でむかしは逆川さかがわともよばれていたそうです。 登城する 現地の案内板より抜粋... Read More | Share it now!

城郭・史跡,神奈川

【神奈川県・小田原市 2025.1.8】1589年(天正17年)11月、豊臣秀吉は北条氏宛の宣戦布告状をおくる。1590年(天正18年)2月、西国から下向する本隊16万、越後・信濃から南下する北国勢4万、瀬戸内・志摩から水軍2万がぞくぞくと出陣する。3月、豊臣秀吉は北条氏討伐の勅命をうけ、万全の態勢で小田原へ向かう。 小田原征伐の名のもとに北条氏を屈服させるべく秀吉が出陣した時点で、この戦の趨勢は決まっていたようなものです。襲来する22万の軍勢にたいして迎え撃つ北条軍は5万数千。その数の差だけではなくこの時点で秀吉は全国をほぼ平定し終えているため、征伐軍をかく乱するため蜂起する北条氏にとっては救いの神となるような勢力はどこにもいません。おまけに小田原征伐自体が勅命を受けたものとなっており、征伐軍は官軍であり正義のために悪を討つ聖戦に仕立てられています。 北条氏は小田原城のまわりに100もの支城を築き防備をかためますが、ぎゃくにこれが災いした感は否めません。守る軍勢はぜんぶで5万数千、主城(小田原城)に1、2万を割いたとすれば他の城には200人とかせいぜい500人程度しか回せません。200人で守る城に2万人の大軍が攻め寄せたとして、しかも相手は官軍です、あっさり降伏するものが続出したとしても不思議ではありません。秀吉は4月初めには早くも箱根山に本陣をしき、北条氏の菩提寺である早雲寺に本営をおきます。 早雲寺 箱根湯本の早雲寺の画像があるのでアップします いまは惣門、本堂、庫裡、鐘楼があるだけ どうやら秀吉は箱根山に布陣するとすぐに石垣山城の築城にかかったようです。縄張は黒田官兵衛によると現地の案内板に書いてありました。80日間で造り上げたと伝えられています。複数の記録があるそうなので80日間という日数は偽りではないはずです。ほぼ人力であることを考えると、信じがたいほどの早業です。 入城する 縄張図... Read More | Share it now!

城郭・史跡,神奈川

【神奈川県・小田原市 2025.1.8】「小田原評定」とネットで調べると、AIが「会議や相談が長引いて結論が出ないことを意味する慣用句」と教えてくれます。さらに類義語として「押し問答」「水掛け論」といった負のイメージの言葉が紹介されます。AIはしょせん人間が表示した情報を集積し分析するのですからAIの責任ではありませんが、この説明だか解釈だかは微妙に違うように感じます。(鎌倉時代の執権をになった北条氏とは区別して小田原北条あるいは後北条といわれる)北条氏5代は、宗瑞(早雲)にはじまり、およそ100年にわたり氏綱、氏康、氏政、氏直と正統な後継者である嫡男がお家騒動もなく順当に家督をついでゆきます。驚くべきは5代にわたって皆が非凡であること、しかも親(君主)が息子に幼少時から帝王学を説き、自分が君主として衰えの見えないうちから家督を譲って相談役に徹することを常としています。二代目氏綱の代から北条氏の主城となる小田原城では、定期的におもだった家臣があつまり内政を中心に重要事項を合議により決定していました。この会合に出席するものを評定衆といい、小田原城で行われたゆえにこれが小田原評定です。 北条早雲とは伊勢新九郎のこと 小田原駅前にたつ北条早雲像 小田原駅前にたつ像ですら北条早雲公と記していますが、本人が生前にそのように名乗った記録はありません。室町幕府の政所まんどころ執事をつとめる伊勢氏の出身で、本名は伊勢新九郎盛時が正しいのではないかとされています。戒名が早雲庵宗瑞そううんあんそうずい、この勇ましい馬上の姿はどう見ても出家者のそれではありません。まして北条の姓はというと、氏綱の時代にれっきとした大名になり、西国の政所執事の姓では締まりが悪いので鎌倉時代に関東で覇権をにぎっていた北条氏の姓にあやかったものと考えられます。 新九郎は姉が駿河守護の今川義忠に嫁いでいたことからその今川家の家督争いに介入し、みごとに調停したことから名を上げます。ふたたび争いが勃発したときにはあたえられた軍勢で反抗勢力を切り伏せ、その功で興国寺城をあたえられます。このころまでは新九郎も幕府の家臣として幕府のために働いていたようですが、しだいに野心を抑えがたくなったのでしょう、将軍家の家督争いが起こると騒動の渦中にみずから兵をひきいて伊豆平定をなしとげ、ついに伊豆一帯の統治者におさまります。ここから北条氏5代100年の歴史が始まります。 小田原城・早川口遺構 小田原市観光協会のサイトより抜粋 小田原城というと「総構え」。小田原征伐と称し北条氏を屈服させるため豊臣秀吉が22万の軍勢をひきいて東進してきます。そこで氏直は小田原評定をひらき、城だけでなく城下町もふくめた広大な土地を堀と土塁で囲うことで未曽有の防御を整えることを決めます。小田原市のサイトによると、堀の幅は16m、深さ10m、内側には堀を掘ることで溜まる大量の土で土塁が盛られ、その総延長は9kmにも及んだということです。 まずは案内図の左下に見られる早川口遺構に寄ってみます。 早川口... Read More | Share it now!