城郭・史跡,埼玉,福岡

【埼玉県・行田市 2024.5.25】埼玉県の北部、行田市に忍城(おしじょう)はあります。和田竜氏の小説「のぼうの城」の舞台になった城でもありますが、この小説は主人公の城主がたいへん個性的(のぼうとは、でくのぼうの略)に描かれている点を除けば、どこかコミカルなストーリながらなかなか史実には忠実に描かれています。※野村萬斎さんが主役を演じた映画は見ていないのでこちらとは比較できません。 忍城は利根川と荒川にはさまれた一帯に、自然の池や沼を活かし、さらに川から水をひいてあらたに堀をつくり、徹底して水を利用して防御をかためた、成田氏が室町時代につくりあげた独創的な城でした。室町から戦国時代にかけていくども攻められますが、いちども落城せず。圧巻は戦国時代末期、豊臣秀吉が関東平定(北条征伐)のため10万とも20万ともいわれる大軍で関東平野へと押寄せてきます。そのとき忍城は北条氏の出城のような役をになっており、城主・成田氏親(小説では成田長親)は城兵500に近在の農民を助っ人として3千ほどの人数で籠城していました。武士の数わずかに500なら捨ておけばよいようなものですが、景気づけの意味もあったのか、秀吉の命により石田三成が2万の軍勢を与えられ早速落としてしまう算段になります。(これといった武功のない文官あがりの三成に手柄をたてさせるため秀吉が発案したとも考えられます)三成は忍城が堀や沼にかこまれた難攻な城であることから、水攻めを採用します。一説では総延長28kmにおよぶ堤をつくったといいますが、これはずいぶん数値が水攻めだけに水増しされているようです。しかし近辺の土地の高低差とふたつの河川の水を利用して忍城を水でかこんだのは事実で、その様子は城がまるで水面に浮いていうようで「浮き城」と記録されています。しかし忍城は落ちません。とうとう主たる北条氏の小田原城がさきに落ちてしまい、主を失ったがために開城してこの水による攻城戦はおわります。 忍城 現在の地図上に当時の忍城の縄張をかさねた案内図 忍城については、その城の独創性、攻め側の総大将が石田三成であったこと、「のぼうの城」の舞台になったことなどから、訪ねる日を楽しみにしていたのですが、実際に来てみるとほとんどなにも残っておらず、トホホな思いだけでした。強いて言えば、近くにある観光案内所が親切で荷物を無料で預かってくれたこと、このあとにさほど期待せず訪れた埼玉古墳群が想定外に良かったこと、行田市にデザインマンホールがたくさんあったこと、これらで救われました。 本丸跡にたつ御三階櫓(復元?模擬?)と水堀 水堀... Read More | Share it now!

城郭・史跡,群馬

【群馬県・高崎市 2024.5.24】群馬県高崎市とはいっても市街地からはずれた旧群馬郡箕郷町に、箕輪城址はあります。箕輪城ですが、関東管領・上杉氏の家臣であった長野業政(なりまさ)によりつくられた城のようです。業政は相模から勢力を拡大する北条氏が台頭し上杉氏の威勢が衰えてくると、西上野(こうずけ)の領主としての矜持を保つかのごとく孤軍となっても勢い盛んな北条氏に抵抗しつづけます。すると西からは武田信玄が迫ってきます。ところがあの信玄さえも攻めあぐね幾度も仕切り直しすることになります。それほど抵抗が続けられたのはなんといっても箕輪城の堅い守り、そして長野業政の武勇と武略のたまものだったのでしょう。それを(皮肉にも)証すかのように、業政が死ぬと城内ではその死を秘匿していたにもかかわらず武田軍は得意の諜報で事実をつかみ、周辺の調略もあわせてひたひたと侵攻し、ついには難攻不落といわれた箕輪城を落としてしまいます。この箕輪城、険峻な山上にあるわけでもなく、こんもり盛り上がった丘状にあるいわゆる平山城です。なぜそれほど難攻不落なのか、訪ねてみることにしました。 大堀切 駐車場にあった案内板から抜粋 搦手馬出をぬけて登城します 両側の土塁がくずれていますが、堀底を歩いています。 木俣曲輪あたり 大堀切にまもられた郭馬出... Read More | Share it now!

城郭・史跡,栃木

【栃木県・佐野市 2024.5.23】栃木県の南西部に佐野市があり、そこに唐沢山城はあります。室町~戦国時代の地理でいうと、太平洋側の相模と日本海側の越後の中間点あたりに位置します。この地理的条件が佐野の地、すなわち唐沢山城の運命を翻弄することになります。そしてその激震する時代をなんとか綱渡りのように乗り切ったのが、佐野家15代当主の佐野昌綱です。戦国時代初期のちに北条早雲とよばれる伊勢宗瑞が伊豆・相模を領有します。その息子である2代目氏綱、さらに孫にあたる3代目氏康ともに勢力拡大につとめ、ついには鎌倉から関東一帯を席巻してゆきます。当時の関東管領を世襲していたのは上杉氏ですが、とうてい北条氏の侵略を食い止めることはできず、そのころ越後において百戦百勝、軍神とさえ畏怖されていた長尾景虎に支援を求めます。現実には支援を求めるという以上に、景虎を上杉家の養子とし関東管領職を譲り渡し、ここに景虎は関東管領・上杉景虎(のちの上杉謙信)をなのり、その威名によって一説には坂東武者10万を糾合、南から浸食してくる北条氏を撃退します。この戦においては佐野昌綱はほかの坂東武者同様に上杉景虎に従っています。 唐沢山城・西城 くい違い虎口 現地の案内板より抜粋... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,栃木

【栃木県・足利市 2024.5.21】室町から戦国時代を掘りさげた歴史書や歴史小説を読んでいると、下野国(しもつけのくに)にあった足利学校のことがちょくちょく登場します。当時の最高学府だったそうですが、小説だけでなく歴史書でさえ話を面白くするためか軍師を育成する学校として描かれ、なかでも出自のはっきりしない山本勘助がここで学び、武田信玄に軍師として仕えたと設定するものもあります。しかし史実としてわかっている範囲では、山本勘助は浪人ののち(足利学校にはまったく縁がない)武田家に仕え、武勇はすぐれており手柄もたて侍大将のひとりに取り立てられたようですが、軍略をたてて信玄に具申するほどの人物だったのかとなると疑問です。むしろ緻密とは反対に勘(かん)にたよって一か八かの行動をとるところがあり、そこから山本勘助➡山勘(やまかん)という言葉がうまれたとする説もあります。足利学校の創設は鎌倉時代と言われていますが、その存在が世間に知られるようになったのは1430年ごろ関東管領・上杉憲実(のりざね)が足利の地に腰をすえ復興に尽力したことによります。それゆえ足利学校の名は足利氏がつくった学校ではなく、足利氏発祥の地にあった学校ゆえといえます。※上杉憲実の5代ほど前の上杉某の娘が足利家に嫁ぎ足利尊氏の母となっており、その尊氏は上杉憲実のちょうど1世前を生きていました。※のちに上杉と姓をあらため関東管領職につく長尾景虎(のちの上杉謙信)は憲実のちょうど1世紀あとを生きています。 足利学校 入徳門の奥にある学校門 学校門から入ると杏壇門 杏壇門から孔子廟をみる... Read More | Share it now!

城郭・史跡,徳島

【徳島市 2024.5.11】秀吉の出自はあきらかでなく、若いころに百姓家をとびだして針を売る行商をやっていたとの説もあります。そのころ蜂須賀小六(のちの正勝)に出合います。この小六は野盗の親分で、仕事柄(?)迅速にうごきまわり情報を集める術にも長けており、秀吉は小六の野盗集団を核にして独自の諜報網をつくったとも言われています。あるいは小六は木曽川での輸送を支配する川並衆だったとの説もあり、秀吉は小六がひきいる川並衆の協力を得て墨俣に一夜で城を築いた(墨俣一夜城)と言われています。どれも興味深い話ですが、いまではすべて「興味深い話」を後世に伝えるために創作したものと考えられています。しかし秀吉がやっと武士として歩きはじめた当初から、蜂須賀小六がその歩程に寄り添っていたのは確かです。秀吉は天下人へと歩みつづけるなか四国平定に先立ち、いままでの働きに感謝して正勝(小六)に阿波の国を与えると約束します。しかし正勝はそのときすでに高齢で隠居の身であり、むしろ秀吉のそばで仕えることを望みます。そこで阿波の国は正勝の嫡男であり蜂須賀家の家督をつぐ家政にあたえられます。その家政ですが、親は親と割り切っていたのか、あるいはよほど石田三成を嫌っていたのか、秀吉の死後(父・正勝はずっと前に亡くなっている)は徳川家康に臣従し、関ヶ原でも大坂の陣でも東軍として奮戦し、その功でもって阿波に淡路をくわえた25万7千石の大名として君臨します。その蜂須賀家政がとうしょ内陸の一宮城にはいり、その後治世のやりやすさを考えてあらたに築いたのが徳島城です。 平城 城山... Read More | Share it now!

城郭・史跡,徳島

【徳島市・2024.5.10】徳島市の中心街から10㎞ほど西すなわち内陸に入った郊外の地に一宮城はあります。すでに南北朝時代には当地の土豪であった一宮氏によりつくられていたようで、やがて三好氏が阿波を支配するようになると、一宮氏は三好氏に臣従しこの城を拠点として周囲ににらみを利かせます。ずいぶん難攻不落の堅城だったようで、四国制覇をもくろむ長曾我部氏が阿波へと進行してきた際にもしぶとく抵抗したようです。またその長曾我部氏が城主となりその後秀吉の四国平定のさいには数万の軍勢で攻め立てられますが、この際にもしぶとく奮戦します。しかし軍勢の数で圧倒する秀吉の軍の前にやがて落城。秀吉は阿波の国に蜂須賀氏を配します。その蜂須賀氏は堅城ではあるものの一国を統治するには不便なこの城をはなれ徳島城にうつります。そして家臣の益田某に一宮城は任せることになります。いま残る曲輪や竪堀、土塁は南北朝から戦国時代の遺構と思われますが、石垣に関してはすべて蜂須賀氏時代のものと考えられています。 一宮城へ 北東側から一宮城がのこる山並みをみる このあたり四国御遍路のため地蔵石仏多数あり 麓に鎮座する一宮神社 神社のむかいに登城口がある 赤文字の現在地から時計まわりりに回ります 蜂須賀氏が徳島城を居城としてから、その防御として周囲をかこむように九つの支城を築きます。それが俗に阿波九城と呼ばれるものですが、調べたかぎりではこの一宮城が規模が大きいだけでなく、もっともよく遺構がのこっており、ぜひ訪ねてみたい城としてピックアップしていました。 南城 整備された階段をのぼります 竪堀跡 曲輪跡 右側はいかにも手を加えた様子 三方を崖でかこんだ鉄壁の防御 堀切の底を歩いてゆく、ここも攻めにくそう 才蔵丸の曲輪 門跡... Read More | Share it now!

城郭・史跡,徳島

徳島県に城と城跡を見にゆき、ぜんぶで5城を訪ねました。もちろんすべてに大満足を期待してはいませんが、あらかじめネットで調べて訪ねるか否かを判断してのことゆえ、「まずまず」の成果は得られるものと信じています。しかしです、その「まずまず」にもいたらなかった、残念だったものもありました。 撫養城 【徳島県・鳴門市... Read More | Share it now!

城郭・史跡,兵庫

【兵庫県・洲本市 2024.5.9】いまの洲本市の中心地は地理的に淡路島の中心にあるだけでなく、戦国時代のころから淡路一国の政治、経済の中心地として栄えていました。この地に最初に城を築いたのは三好氏の家臣であり淡路水軍をひきいた安宅氏といわれています。世が戦国時代に突入すると、中国地方の大勢力である毛利氏と東から勢力を拡大する織田信長との間に挟まれ、淡路のなかでも両勢力のどちらにつくか意見が割れますが、安宅信康は織田氏へ、それに対して菅平右衛門は毛利氏につきます。淡路での攻防はまず先手を取ったのは毛利氏。淡路島の北端にある信康のまもる岩屋城が落とされると平右衛門は岩屋城主にとって代わります。しかしほどなく信長の命をうけた秀吉により淡路が平定されると、平右衛門は遁走していずこかに身を潜めます。ところが本能寺の変により信長が謀殺されると、明智光秀に呼応した長曾我部氏の後押しもあって平右衛門は表舞台に復活し、その時は仙石秀久の下にあった洲本城を電光石火というよりもドサクサ紛れに奪い取ります。ところがところが、それもつかの間のことでいわゆる中国大返しで備前から畿内へもどる秀吉の遠隔操作による派兵であっという間に追い出され四国の長曾我部氏のもとへ逃れたということです。菅平右衛門は戦下手だったのでしょうか、そこのところはよくわかりませんが、この武将の最期には胸を打たれるものがあります。平右衛門は紆余曲折をへて秀吉の家臣となり、水軍をひきいて朝鮮の役にも加わったようです。そして関ヶ原の戦いでは西軍についていたため敗軍となり領地を没収され蟄居します。ここでまた表舞台から消えるのですが、やがて大坂冬の陣で豊臣方が敗れると、徳川方との講和条約として大阪城の外堀を埋めることになります。そのさい平右衛門は堀をうめる工事の一部を担当させられます。ところが講和条約では外堀だけを埋めることとなっていたにもかかわらず、工事が進むにつれて当たり前のように内堀までも埋めるよう指示が下されます。平右衛門はこの講和条件を無視する行為を武士の道に反すると反発し、一歩もひかぬ抵抗をしめしたのでしょうか、ついに切腹を命じられます。この話が記憶に残っていて、菅平右衛門から洲本城に関心を持つにいたりました。 平城 街の南に位置する洲本城... Read More | Share it now!