城郭・史跡,広島

【広島県・尾道市 2022.11.7】かつて瀬戸内海の、安芸(現・広島)と伊予(現・愛媛)にはさまれた一帯を支配していた村上水軍と呼ばれる海賊衆がいました。南北朝時代に起源をもち、室町時代に勢力をひろげて行きます。やがて3家にわかれ、それぞれ本拠地とする島名を冠して、能島村上家、因島村上家、来島村上家と呼ばれます。やっていたことは海峡を関所にみたて、そこを通過する船から通行税を取り立てることゆえ、地元では海賊ではなく管理者であるとの見解もあるようですが、まず幕府から認められた守護職ではなく、通行税を払わずに運航している船に対しては容赦なく急襲、略奪を行なっているのですから、やはり海賊に近いでしょう。しかし戦国時代になると各地でより大きな勢力をもつ大名が勃興し、村上水軍も単独で生き残ることが難しくなってきます。村上3家の中で、もっとも目立って歴史に名を残したのが因島村上家です。毛利家に臣従し、毛利が織田信長と激突する摂津の戦いでは、毛利からの命で摂津の地で籠城する石山本願寺へ海上から兵糧を運び入れる役をうけもち、それを阻止せんと待ち受ける織田軍の船を完膚なきまでに打ちのめし、みごとに大役を果たします。(ただし2度目には、信長がつくらせた鉄板張りの巨船に迎撃され、反対に木っ端みじんに蹴散らされてしまいます)織田家も豊臣家も戦国時代の激動の中で滅亡して行きますが、臣従していた毛利家は江戸時代をとおして存続したため、因島村上家も長州藩の船手組として生き残ります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 因島水軍城 駐車場のある麓から見上げる さて村上水軍城ですが、地元の観光案内には「日本唯一の水軍城」とうたっているものの、もともとこの場所に城はありませんでした。家臣の住居があった地に、「村上水軍史料館」を城郭風の建物としてつくったというのが実情です。 ここだけ見ると、まずまずの雰囲気ですが、 全体を見ると、まるで粗大ゴミ捨て場? 城門ではなく、山門となっていました 隅櫓 本丸に相当する建物 /... Read More | Share it now!

城郭・史跡,広島

【広島県・福山市 2022.11.6】築城400年を記念して大規模改修をおこなっていた福山城が、工事を終え今年8月から一般公開されたこともあって訪ねてみることにしました。福山城の最大のポイントは、日本において本格的に築城された最後の近代城郭ということです。江戸時代初期、徳川家康のいとこである水野勝成が10万石をあたえられ大和郡山より転封されます。目的は毛利家をはじめとする西国大名に対する抑えであり、そのため所領10万石とはとても思えない巨城を築くことになります。その偉容で牽制しようと考えてのことでしょう。福山市の観光ガイドにうたう「日本城郭の最高到達点であり最高傑作」というキャッチコピーには首をひねりますが、最後につくられた城だからこそすべての技術を集結した完成形と考えるなら、根拠のないものではないのでしょう。構造としては本丸のまわりを二の丸、さらに三の丸が取り囲む連結式の平山城で、石垣は本丸に進むにしたがい3段階により高く積み上げられた、一ニ三(ひふみ)段とよばれる縄張りになっています。多数の門や櫓が京都の伏見城から移築されその優美な姿を伝えていましたが、第二次大戦時の空襲で、伏見櫓と筋鉄御門をのぞくすべてが焼失してしまいます。1966年に天守、月見櫓などを鉄筋コンクリート造りで復元、さらに今回築城400年を記念して大規模改修が行われました。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 福山城 JR福山駅からすぐ目の前がお城です 繁華街がひろがる福山駅南口側から駅舎をぬけて北口を出ると、びっくりするほどすぐそばに福山城はあります。 東坂口門より入ります 空襲でくずれた石垣をくみ直し虎口を再現しています 天守をのぞむ 月見櫓をのぞむ 天守 天守へ 天守(東面) 天守(北面) 天守(北面と西面) 天守(西面) 天守(南面) 天守のまわりを一周すると、北面だけが黒いことがわかります。これは天守の北側は砲撃をうけたときに砲弾がとどく可能性があり、その弱点をカバーするために鉄板を北面全体にはり付けていたそうです。1966年の復元工事では鉄板はなかったそうですが、今回の修復工事では鉄板の復元もおこないました。なお蛇足になるかもしれませんが... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,兵庫

【兵庫県・赤穂市 2022.11.3】1701年、播州赤穂藩の藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城の松之廊下にて高家旗本・吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか)に突然切りかかります。吉良氏は命に別状はなかったものの、江戸城殿中でしかも吉良氏が職務として朝廷の使者の接待をしている最中の刃傷沙汰ということもあって、浅野氏はその日の内に切腹を申し渡されます。これが赤穂事件の前半部です。浅野長矩は即日切腹を命じられ播州赤穂の所領も没収となったにもかかわらず、吉良氏にはなんらお咎めもなく、それに反発した家臣たちが一旦は御家のために忍従しようとしたものの、ついに堪忍袋の緒が切れて筆頭家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を中心に赤穂浪士47名が吉良邸に討ち入り、吉良義央を討ち首をはね浅野長矩の墓前に供えて恨みをはらします。これが赤穂事件の後半部になります。この赤穂事件はなんども映画やテレビドラマになっていますが、設定は必ずと言っていいほど吉良義央が悪者、赤穂浪士47名は義憤にかられ自らの命をかけて仇討ちをしたヒーローとして扱われています。なぜ浅野長矩が突然吉良義央を切りつけたのか、その理由はまったくわかっていません。もしかするとそのとき突然神経障害(パニック障害、あるいは発狂)に陥ったのかもしれません。「喧嘩両成敗」でないことに我慢ならなかったとはいえ、そもそも喧嘩ではなく浅野氏からの一方的な攻撃であれば両成敗する方がおかしいということになります。「仇討ち」といえば聞こえはよいですが、単なる復讐に過ぎなかったのかもしれません。さて今日は、そんな浅野長矩と赤穂浪士の故郷である兵庫県・赤穂市を見て歩きます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 赤穂の街をあるく JR播州赤穂駅の階段には 赤穂浪士の姿絵が飾られています。 駅から赤穂城へとつづく道 おそらくは市の条例で、高層ビルが建てられないだけでなく、駅から城への道路「お城通り」沿いでは洋風建築すら認められず景観を保っているのでしょう。その心意気はよいのですが、祝日だというのになんという人通りの少ないこと。 通称「息継ぎの井戸」 君主・浅野内匠頭長矩による刃傷沙汰を急報するため、江戸より4昼夜早かごに揺られつづけて赤穂にたどり着いた藩士2名が城下に入り、この井戸の水をのんで一息ついたと伝えられています。 ここにも観光客はいません。 花岳寺 花岳寺(かがくじ)は、赤穂歴代藩主である浅野家、永井家、森家の菩提寺であり、大石内蔵助ほか赤穂浪士の香華院(菩提所)でもあります。 浅野家霊廟 赤穂浪士の墓所 赤穂浪士面々の墓標には、自刃(切腹)のため戒名にはすべて「刃」の文字が刻まれています。浪士面々の遺骸は江戸で葬られているため、ここには遺髪のみを納めているそうです。ところで花岳寺の案内でもそうですが、赤穂にきて気づいたことは、つねに「赤穂浪士」ではなく「赤穂義士」と記しています。「義士」とは忠義にあつい人のことで義憤から仇討ちはあっても、個人的な心情や信念から復讐などに走る人のことは指しません。さて赤穂浪士は本当に「義士」だったのか、そして忠臣蔵の話そのものは真に美談と言えるのか、少々疑問があります。 赤穂城址・石垣 大手櫓と大手門 赤穂城は櫓や塀など建造物はすべて再築したものですが、石垣は補修はしているものの現存物です。先に外周をまわって石垣を見ておきます。 大手門から入る 大手門 大手門内側から大手櫓をみる 大石宅跡 大手門から入り虎口を回り込むとすぐに大石内蔵助の邸宅跡があります。やはり筆頭家老ということでこの位置に屋敷を構えていたのでしょうか。 本丸 本丸門 本丸をかこむ石垣と堀 本丸門を入る 本丸御殿跡... Read More | Share it now!

山登り,城郭・史跡,大阪

【大阪府・千早赤阪村 2022.10.30】金剛山は、大阪府と奈良県の境に位置し、いわゆる山頂は間違いなく奈良県側にあります。ところが金剛山というと、多くの人(とくに大阪人)は大阪の山と信じています。ガイドの中にも「大阪の最高峰で標高1125m」と書いているものさえあります。どうしてこのような勘違いが起きているのかといえば、なによりも金剛山に上ると言えば、(おそらく)100人中99人以上の人が大阪側からの登っているがためでしょう。金剛山に上る道は俗に48本あると言われていますが、主要な道はすべて大阪側からあります。それどころか大阪側からはロープウェイすらあります。(このロープウェイは現在停止中です)もう一つの理由は、金剛山の名を知らしめている千早城が、楠木正成(くすのきまさしげ)の出身地である千早赤阪村とともに大阪府に属していることもあります。楠木正成といえば大阪、千早赤坂は大阪、それゆえ金剛山は大阪の山ということになったのではないでしょうか。今日はその金剛山にのぼり、千早城(跡)に寄ってみます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 黒栂谷道 金剛山登山口バス停から歩きはじめてすぐにこの分岐に出会います。右が千早本道で大半の人がこの道をつかいますが、今日は人が少ないだけでなく、登山道としておもしろい黒栂(くろとが)谷道からカトラ谷ルートを歩きたいので左に折れます。 車止めのゲートを抜けてまっすぐ このゲートがひとつの目印になります。まっすぐゆくと黒栂谷道からカトラ谷、右の道をすすむと妙見滝のあるタカハタ谷ルートに入ります。 しばらく林道を歩きます 林道も山道らしくなってきました この道では一人も出会いませんでした 黒栂谷道からのルートはずっと渓流沿いを登ってゆきます。本来それほど難しいルートではないのですが、倒木のひどい場所や山道が崩れている箇所もあり、十分に注意が必要です。 (現地で通行禁止のロープは張られていませんでしたが、ネットの道路情報では注意勧告が出ています) ★黒栂谷道からカトラ谷を通る予定でしたが、途中で道を誤り、ずっと脇道を上っていたことに後から気づきました。 谷部分をすぎて尾根部分に出てきたようです 山並みが紅葉しているのが見えます 金剛山頂 山頂の表示... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,愛知

【愛知県・名古屋市 2022.10.26】いまの名古屋城の地には、かつて織田信長が生まれたとも育ったともいわれる那古野城がありましたが、両者には繋がりがありません。それゆえ名古屋城は比較的新しく造られた城ということになります。徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利したのは、すでに60歳を目前にしたときでした。自分が天下人となり、さらに盤石な基盤を築くためにはすべてを急がねばなりません。自分の余命とのにらみ合い、とでもいった心境だったのではないでしょうか。家康は征夷大将軍となって江戸幕府をひらくと、西国(豊臣家およびその勢力下の大名が多い)への備えとして西日本の要衝となる地へ新たに城を築き、自身の身内や信頼できる家臣を移り住まわせます。名古屋城はそのなかでも最大規模の、象徴的な存在でした。城普請は、かつては秀吉の恩顧を受けていた加藤清正、福島正則、黒田長政、毛利秀就、池田輝政ら外様大名に命じ、石垣の組み上げだけで言えば一年足らずで仕上げています。そして天守閣が築かれるのが1612年で、大坂冬の陣がおこるのが1614年ですから、この名古屋城の完成をもって満を持し大手を打ってきたかのようです。その後、名古屋城は尾張徳川家が17代にわたって城主をつとめながら尾張の中心的存在として繁栄します。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 名古屋城へ 名古屋城はまだ先ですが、街中に城普請の跡が残っています。近くに「○○三の丸幼稚園」があったので、かつてこのあたりが三の丸だったということでしょう。 陸橋をわたっていると、ちょうどいい具合に天守閣が見えました。なんとなく計算してやっているようですが、これもサービス精神ゆえということで。 正門 まずは正門から入ってみます。それにしても看板、案内板が多いし、このあたりでは名所旧跡には三角コーンは必須とでも考えているのでしょうか。 西の丸 西南隅櫓から大天守、必須アイテムの▲コーン 西南隅櫓から東南隅櫓 東南隅櫓 石垣 石垣はもちろんですが、各隅櫓も当時のものが現存しているそうです。明治維新において全国に廃城令が出されますが、ここ名古屋城は市民からの強い要望で存続が決まります。しかし明治時代に起きた濃尾地震で石垣と建物の一部が崩壊、さらに大戦時の空襲で天守閣が消失してしまいました。 本丸 表二之門を入ると立派な虎口があります。 小天守と大天守 大天守 小天守と大天守 空襲で焼失した天守閣は、残っている写真や資料をもとにコンクリートで「復元天守」として1959年に再建されました。しかしいまは耐震強度の問題とかで入場できなくなっており、木造による再建を検討しているそうですが、関係者間ですったもんだしており、いまのところ見通しが立たないようです。 2018年に再建された本丸御殿 本丸御殿も空襲で建物はすべて焼失しましたが、障壁画などは取り外して他の場所で保管していたため難を逃れ現存しています。ただしこの本丸御殿を飾るそれらは、すべてデジタル技術を駆使してつくった模写です。京都の元離宮二条城の本丸御殿とおなじで、本物は宝物館で(期間限定で)見られます。 表書院 上洛殿 上洛殿 東二之門 二の丸とつながる東二之門 清正石... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛知

【愛知県・清須市 2022.10.26】清洲城は、室町時代に尾張、遠江、越前守護の名門・斯波氏により築城され、守護所が移ってきてからは尾張国の中心地となります。守護職(ここでは斯波氏)は、自身ですべての領地を統治することはできないので各地を分割してそれぞれに代理のものを置いていました。これを守護代といいます。尾張は岩倉織田家が国の上四郡を、清洲織田家が下四郡を、二つに分けてそれぞれ守護代として勤めており、この清洲織田家がここ清洲城を本城としていました。この清洲織田家には家臣にあたる清洲三奉行家がおり、そのうちのひとつ弾正忠家が織田信長の出身家系になります。信長の父・信秀に時代には武力の面では守護、守護代をしのぐまでになりますが、統治の面ではまだ上から頭を押さえられる状態でした。それを打ち破ったのが信長です。信長は叔父の信光(信秀の弟)と組んで当時の清洲城の城主・信友を殺害して自身が移り住みます。信長はこの清洲城を10年間居城としますが、その間に尾張を統一し、さらに桶狭間の合戦で今川義元を葬るなど確実に力をつけて行きます。信長が小牧山城へ移ってからは織田家支配の城のひとつとして残るに過ぎませんでしたが、本能寺の変で信長が横死してのち、その信長の跡取りをきめる会議が秀吉主導で行われたのがこの清洲城です(清洲会議)清洲会議のあとには、信長の次男・信雄が城主となり、大規模な改修改造を行なったようです。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 清洲城 オッと、という感じで工場の建物と建物の間に清洲城が見えました。 ところで、市は清須市、城は清洲城と書きます。 五条川と大手橋ごしに城をみる 大手橋から城へ 色々な角度から天守を撮影してみました。空も澄みわたり美しい写真ができましたが、残念ながら、そもそもこの天守は資料をもとに復元したものではありません。それどころか当時の清洲城に天守があったかどうかもはっきりしないまま、桃山時代の城の造形からイメージで造りあげた「模擬天守」と呼ばれるものです。 天守の分類https://blog.kojodan.jp/entry/2019/02/25/191515 天守へ 門から この庭の意図は??? 500円払って入城しましたが、はっきり言って見るべきものは特にはありません。ただ、この新聞には笑いました。他にも「長篠の合戦で大勝」とか「信長公、本能寺で横死」など数種類ありました。 天守最上階から、五条川にかかる大手橋、清洲古城跡公園を見渡す。 信長と濃姫 濃姫(左)と信長(右) 信長と濃姫の像があります。濃姫は美濃から嫁いできた信長の正室で、「美濃からきた姫」ゆえ濃姫、もとは帰蝶と呼ばれ斎藤道三の娘です。 この濃姫、信長と数年ここ清洲城で暮らしていた記録はあるのですが、その後まったく歴史の記録から消息が消えてしまいます。そのため死亡説、離婚説、出奔説など出てきますが、いまだに確定できる説はありません。 濃姫 信長 【アクセス】JR枇杷島駅から徒歩30分、名鉄新清洲駅へ徒歩15分【入城料】清洲城天守... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛知

【愛知県・犬山市 2022.10.25】犬山城の歴史は織田信長の叔父・信康が当時あった砦を改修して城の形にしたことに始まります。信康の死後、息子の信清があとを継ぎますが、そのころ頭角を現しはじめていた信長に追われ、ここで信長の城となります。信長時代には池田恒興が城主をつとめていましたが、本能寺の変の後は信長の次男・信雄の管轄下におかれます。小牧・長久手の戦いで秀吉と家康が激突した際ふたたび大きな動きがあります。大垣城に移っていた元城主で秀吉の有力な協力者である池田恒興が奇襲をかけこの城を奪い取ってしまうのです。この時点で犬山城は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のものとなります。そして秀吉はこの犬山城に本陣をかまえて、小牧山城に陣を敷く家康と対峙します。秀吉は天下統一のために着々と手を打ち、この犬山城もいったんは信雄に返しますが、すぐに信雄を減封のうえこの要衝の地から追い出し、甥の秀次に統治をまかせます。さらに秀次を切腹させたあと腹心の石川貞清を城主に据えます。この貞清が犬山城を大いに改築し、今につたわる城に仕上げます。その後は、関ケ原の合戦でも西軍の拠点となりますが、西軍が敗れてからは家康の手にわたり、江戸時代をとおして成瀬家が城主をつとめることになります。さてこの犬山城は、信長、秀吉、家康それぞれに奪い奪われ、歴史の荒波にもまれてきた城なのです。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 犬山城へ 名鉄犬山駅前の方向表示は犬山城が中心 本町通を城へ向かってあるく 前方に城の天守が見えてきました 名鉄犬山駅から西へ歩き、右折して城下町の面影のこる本町通を北上すると城に着くのですが、そこそこ観光客も歩いているその本町通を車が走っているのにはびっくりしました。日中だけでも歩行者専用にすることはできないのでしょうか。 赤鳥居が三光稲荷神社、石鳥居が針綱神社 ふたつの神社の間の道(大手道)を進んでも、あるいはそれぞれの神社の境内を通っても天守へはたどり着けます。標高88mですので山ではなく、丘の上といった方が正しいでしょう。 それにしても看板やら▲コーンやらが目立つ 針綱神社 針綱神社・鳥居 そり橋 ご神馬 針綱神社はおもに子授け、安産、厄除けなどの御神徳があるそうです。子授けのお守りが800円ですが、夫婦で一つずつ持つのがよいと但し書きがあり、セットで1600円ということになります。販促みたいな-... Read More | Share it now!

城郭・史跡,長野

【長野市・松代町 2022.10.13】武田信玄が上杉謙信との攻防の前線拠点として、山本勘助に命じてつくらせた海津(かいづ)城が、松代城の前身になります。武田氏滅亡の後は、織田信長の家臣・森長可(もりながよし)が信濃統治のため入領しその海津城を居城としました。豊臣時代には豊臣家が直管する蔵入地となりますが、大阪の陣ののち真田信之(真田幸村の兄)が上田城から13万石に加増のうえ移封され、その後は明治維新まで真田家10代にわたる居城となります。商人たちはこの松代に移住するよう呼びかけられますが、善光寺(松代から10kmほど北)から離れることを拒み、そのため松代は城下町として発展することはなかったそうです。城郭は千曲川を天然の要害とした独特の造りだったようですが、建物はすべて焼失し、当時のものとしては本丸周辺の石垣と濠などの一部が現存するのみです。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 三の丸、二の丸 三の丸から二の丸へ 二の丸から、石垣・土塁の向こうが三の丸 松代城は平城であり高低差なく、外周が三の丸、濠(外堀)と石垣を抜けるとその内側が二の丸、さらに濠(内堀)と石垣に隔てられて本丸という縄張りになっています。三の丸と二の丸をへだてる石垣は一部だけが残っており、濠は埋められて現存しません。ところで元は、二の丸から外堀をわたって三の丸に入ると、そこに武田氏独自の「三日月堀」があったそうです。三日月堀とはhttps://www.homemate-research-castle.com/useful/glossary/castle/2138601/ 太鼓門 内堀に囲まれた本丸 内堀と太鼓門 太鼓門 いまある建築物は平成の時代に再現されたものですが、当時の資料をしらべ出来るかぎり忠実に再現したものだそうです。 内堀と石垣 左が太鼓門、右が東不明門(跡) 東不明門跡 本丸北側 夕焼け 真田邸 真田邸 真田邸の塀がつづく 真田邸は信之の時代ではなく、真田家9代目ですから江戸時代末期に建てられたものですが、それでも松代城に関係する建物としては、唯一建てられた当時のまま残っている貴重な現存建築物だそうです。 【入場料】どこも時間が遅くて入れませんでしたが、松代城跡は無料、真田邸は400円となっています。【満足度】★★★☆☆ ... Read More | Share it now!

城郭・史跡,長野

【長野県・松本市 2022.10.11】松本城はもとは深志城とよばれる小規模の城郭でした。武田信玄に獲られ、織田信長の軍勢に侵攻されるなどの歴史をへて、石川数正・康長父子が豊臣秀吉の命により入城してから天守閣をつくり整備をすすめ、本格的な城に造りかえます。この石川数正(いしかわかずまさ)ですが、そもそもは徳川家康の片腕として徳川家の屋台骨を背負う重臣でした。ところがある時突然徳川家を裏切り、出奔して豊臣秀吉に臣従したと言われています。真相は定かではありませんが、どうやら秀吉の調略あるいは謀略により落とされたようです。ことの起こりは秀吉が天下統一にむけて勢力を拡大する中、徳川家が豊臣方との交渉役につけたのが重臣・石川数正ですが、秀吉は数正が上洛するたびに歓待します。そしてみずから歓待しながら、石川殿は秀吉のもとへ行くたびに歓待されている、どうやら寝返るつもりではないか、そのような不穏な噂を徳川領で意図的に流してゆきます。石川数正は家康が今川家に人質として預けられていた時にも付き従って苦労を共にしたほどの臣従関係にあり、寝返る意思はなかったのではないでしょうか。ところが不穏な噂が独り歩きし、しだいに居心地が悪くなってきます。どうやら家康自身は数正のことを信用しており不穏な噂も無視する姿勢だったようなのですが、数正としては周りから白い目で見られるのに耐えられなくなったところに、頃良しとみた秀吉から河内8万石でどうかと誘われ、寝返った(寝返えさせられた)のが真実ではかないかと思います。さて秀吉は関東の北条家を平らげると、その地に家康を移封します。言うまでもなく秀吉にとっては一番の脅威である徳川家を京・大阪からより遠い地へと追いやるのが目的でした。そしてその関東地方を信頼できる大名たちに取り囲ませるように領地をあたえて移り住まわせます。石川数正もその一人で、信濃国松本に10万石を与えられ、皮肉にも家康にたいする防御の駒としてこの地に移り住むことになります。なお松本城はわずか12だけのこる現存天守をもつ城のひとつで、国宝に指定されています。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 天守をのぞむ 入口に国宝とうたっています 濠越しに回りながら天守を望んでみます 乾小天守(左)、大天守(中央)、月見櫓(右) 左が乾小天守... Read More | Share it now!

城郭・史跡,長野

【長野県・上田市 2022.10.15】上田城ですが、もとは千曲川の分流である尼ヶ淵に面しており、尼ヶ淵城とも呼ばれていました。そもそもはこのあたり一帯を治める土豪が城館を築いていたものですが、真田氏が頭角をあらわすにしたがい、昌幸がこの地の優位さに目をつけ本格的に築城をはじめます。真田家は武田氏に臣従していましたが、その武田氏滅亡の後は主家を次々に替え、ついには徳川家康に従うことになります。ところがその徳川と対立して戦に及ぶのですが、大方の予想を裏切って、真田勢はみごとに徳川勢を撃退します。(第一次上田の戦い)その後豊臣家と徳川家の争いから関ヶ原の合戦がおこりますが、真田昌幸は家の存続をはかり、昌幸自身と次男の信繁(幸村)は豊臣方につき上田城をかため、長男の信之は徳川方について城をでます。上田城にこもる昌幸・信繁親子はよく戦い、江戸から関ヶ原へとむかう家康の嫡男・秀忠の3万8千ともいわれる大軍の侵攻を抑え、結果として秀忠軍は関ヶ原の合戦に間に合わないという失態を犯すことになります。(第二次上田の戦い)しかし関ヶ原の合戦自体が西軍(豊臣方)の敗北に終わったため、昌幸・信繁親子は信之の働きもあって死罪は免れたものの高野山へ追放(のちに九度山で蟄居)、上田城は徹底的に破却され濠も埋められます。その後、その信之がこの地を安堵されますが、城が見る影もなく壊されているため本来の沼田城を居城としたまま治世をおこない、やがて松代へ加増転封となります。そして真田信之のあとに小諸から転封されてきた仙石氏によって上田城は、改修ではなく、あらたに造られることになります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 南櫓、東虎口櫓門、北櫓 南櫓 南櫓と東虎口櫓門(本丸入口) 東虎口櫓門と北櫓 本丸入口になるのが東虎口櫓門。その左に南櫓、右に北櫓があります。 この上田城には天守がなかったとの見解が主流ですが、本丸には櫓7棟があり防備につとめていたそうです。 真田氏の上田城には天守閣はあったのかhttps://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/shogaku/1779.html 櫓門にある巨岩・真田石 櫓門から 本丸 北櫓と櫓門(本丸内から) 櫓門を入ると正面に真田神社(櫓門上から) 真田神社・拝殿 賽銭箱にも六文銭 真田信繁(幸村)の像 地元の人が書いていました。この上田城は江戸時代に仙石氏が建てたものを基に再現を試みており、戦国時代の真田氏が築城したものとは関係ないので、これほどに「真田」「六文銭」を強調するのは、あまりにも商売っ気丸出しではないか。たしかに違和感はあります。この像にしても、父・昌幸のものならわかりますが、信繁(幸村)はこの上田城時代にはまだ青年で、それほどの活躍はしていません。 本丸跡 本丸からみた濠(内堀) 西櫓 西櫓 この西櫓が江戸時代からのこる唯一の建物 尼ヶ淵 ここは千曲川の支流としてあった尼ヶ淵の流れを要害としていた上田城の南側面で、通称「尼ヶ淵」とよばれています。 本丸土塁の隅落とし 土塁の隅落とし 内堀沿いに北東角までまわると、この城独特の「隅落とし」が見られます。神社や屋敷で北東の位置、すなわち鬼門の位置に厄除けのため隅切りをする例はよくありますが、ここでは本丸の土塁を大きく削って隅落としとしています。たいへん珍しい例です。 上田城縄張り図 上田の戦い合戦図 北国街道・柳町 上田城から徒歩10分ほどのところにある北国街道・柳町。北国街道はそもそも上杉謙信が軍用道路としてつくったものがその起源となり、江戸時代に整備されて宿場もつくられ、ここ柳町もそのときに発展したそうです。 【料金】上田城(櫓門と博物館セット)500円【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!