【京都市・伏見区 2023.4.13】豊臣秀吉は、日本史上最高最大の出世人であることは間違いないでしょう。しかも信長のように冷徹に部下を動かし敵を切り従えてゆくのではなく、情にふかく、自虐ネタで笑いを誘い、相手をいつの間にか心服させる、その武人としての処し方に好感を持ったファンも多いはずです。ところがその秀吉は、老境に達したころから急激に狂いはじめます。いまで言う認知症の兆候もあったようですが、単純に耄碌したとかでは片づけられない言動をみせます。側室とした淀君が待望の男子(捨、あるいは鶴丸)を生み、狂喜したのもつかのま2年後の1591年に夭折、同年片腕と頼んでいた弟の秀長が病没、そしてその二ヶ月ほどのちにはもう一方の片腕であったはずの千利休に切腹を命じます。さらにその翌1592年には生母の大政所が亡くなり、このあたりから完全に精神状態がおかしくなってきたようです。世継ぎができないと悲観し、甥の秀次に関白を譲ったものの、1593年に淀君がふたたび男子(拾、のちの秀頼)を生みます。この秀頼ですが秀吉とは容姿からして違い、周囲ではタネが違うと噂しているにもかかわらず、秀吉はこの子を溺愛し、あげくに一旦は自分の後継者ときめた秀次を高野山へ追いやり自害させます。さらに秀次の妻妾子女を三条河原で全員殺して遺体は穴に投げ込んで埋めさせ、関白職とともにゆずった聚楽第の城郭兼邸宅を跡形もなく破却します。 秀吉は関白職を退き太閤となりますが、そのとき聚楽第から移り住むために造ったのが伏見城です。今日はその伏見城を訪ねてみたいと思います。●分かりやすくするため、今回は歩いた順どおりでなく、故意に並べ替えをしています。 伏見指月城 伏見指月城の石垣 じつは伏見城は3代目まであります。最初に伏見の宇治川沿いに築いたのが1代目ですが、この城は完成とほぼ同時に慶長伏見地震で崩壊してしまいます。城として存在した期間があまりに短いため資料が乏しく発掘調査が行われることがなかったのですが、この地でマンションを建設する際にひょっこり遺構が出てきたそうで、いまはそのマンションの外塀沿いに石垣を遺しています。(きっと当時の石で再現したものだと思います) 伏見丘陵 伏見指月城が崩壊したあと、2kmほど離れたいま伏見丘陵とよばれる木幡山にあたらしい城を築きます。指月城の残骸を再利用することで翌年には完成、旧城と区別するため伏見木幡山城とも呼ばれます。その城で秀吉は生涯を閉じるのですが、やがて豊臣方と徳川方の相克が表面化してゆき、関ケ原の合戦に先立つ前哨戦で焼失、こちらもわずか3年しか存在しませんでした。そして関ヶ原の2年後、1602年に家康により3代目の城が造られますが、1619年に廃城となり、伏見城は完全に姿を消します。 桓武天皇・柏原陵へつづく道 ふり返ると、なだらかに隆起しているのがわかる (模擬)大手門 現在ある伏見城は、洛中洛外図をもとにつくった模擬城で歴史的な価値はありませんが、ひとつの建造物として見て純粋に美しく、興味深いものだと思います。 小天守と大天守(耐震強度の問題で入れません) それでも公園として楽しめます(入場無料) 明治天皇御陵へむかう道 その道沿いに伏見城に使われるはずだった石が残る 明治天皇御陵... Read More | Share it now!
いまなら言いたい、桜を観るなら彦根城
【滋賀県・彦根市 2023.4.1】今年は桜の開花が早いだけでなく、開花してから満開になるまでの期間が異例の早さで、この一週間ほどの間に関西の大半の桜スポットが満開を迎えています。満開になってからの見頃はせいぜい1週間なので、どこをどのタイミングで訪ねるか計画するのに焦ってしまいます。今後の天気も含めて考えると、いまのタイミングで、今年の大本命と想定していた彦根城を訪ねるべきと判断しました。 彦根城へ 彦根駅2階より... Read More | Share it now!
大阪城観桜ナイター
【大阪市 2023.3.30】最近はたいへん規則正しい生活になり、夕食は午後6時と決まっています。ところで午後6時という時間帯ですが、テレビ番組に関していうとローカルなニュースぐらいしかやっていません。そこで関西のサクラ情報をつたえる番組をみていたところ、大阪城では桜満開のちょうどいま、天守閣と西の丸庭園のサクラをライトアップして、午後9時まで「観桜ナイター」をやっているとか。大阪城は自宅から徒歩圏内です。さっそく夕食後に散歩がてら出掛けてみることにしました。 大阪城天守閣 桜門から天守閣が見える 天守閣 大阪城については以前にいろいろ書いているので、今回は説明抜きにします。 西の丸庭園 大手口より出る 桜はみごとに満開のタイミングで、夜桜見物とはいえ寒くもなく、満足して帰宅します。 【アクセス】自宅から徒歩で往復【料金】西の丸庭園:入場料350円【満足度】★★★☆☆ ... Read More | Share it now!
瀬戸大橋を眺め、下津井城址を探索する
【岡山県・倉敷市 2023.3.20】まずは私事。高齢の母が地元の倉敷に残っているのですが、10年ほど前から介護が必要となり、親切で良い施設があるのでそれ以来ずっとお世話になっていますところが3年前の新型コロナの流行以来いっさい面会禁止。昨年秋にわずか15分間の制限付きで可能となったものの、月イチで2回合計30分顔を合わせただけで、打ち切りとなりました。それでも今月15日からふたたび可能になったので、しかも病院での診察に付き添うのであれば制限時間なしというボーナス付きのため、今日は朝から倉敷(瀬戸内海沿いの児島という土地)に向かいます。 さて午後2時に施設に母を連れてかえり、すこし時間があるので、以前から気になっていた児島にある下津井城址を訪ねてみることにします。この下津井城ですが、築城したのは宇喜多秀家。その後秀家は関ヶ原の合戦で豊臣方について敗北したため、八丈島へ配流となります。以後は小早川秀秋の短い治世の時を経て、池田家が岡山城を主城として岡山藩主をつとめながら、親戚筋や重臣に城代をつとめさせます。1632年に因幡鳥取藩主であり同じ池田家の血筋をひく池田光政が岡山藩に移封されたのにともない、その家臣であった池田由成がこの下津井城の城代となります。ところでこの池田由成ですが、娘の熊子が赤穂家の重臣・大石家に嫁ぎ、そこで後に大石内蔵助(おおいしくらのすけ)として知られる大石良雄を生んでいます。 赤穂井戸 赤穂井戸... Read More | Share it now!
東京にて、忠臣蔵ゆかりの地を見て歩く
【東京都・千代田区他 2023.2.18】昨秋会社をしめる際に、外出を控える世間の空気もあり直接会って挨拶することなく付合いが絶えてしまった得意先や同業者の方々がいました。そこで、かつて自分も出展していた大規模な展示会がいま東京で行われているので、そこへ行けば幾人かとは確実に会えると考え、3年ぶりに東京へ行くことになりました。仕事の続きみたいなものですが、すでに会社がないので交通費を経費で落とすわけにもいかず、それならば一泊して、いま興味を持っている忠臣蔵に関係した地を回ってみるのはどうか。ということで、かつて使っていた東品川、大崎あたりのホテルは高いので(ネットで調べると、なぜかコロナ前よりも3割程度上がっていました)、両国に安いビジネスホテルを見つけて、そこからスタートすることにしました。 吉良邸跡 吉良邸跡... Read More | Share it now!
楠木正成をたずねて千早赤阪村を歩く
【大阪府・南河内郡千早赤阪村 2023.2.5】楠木正成と書いても、今の時代では「くすのきまさなり」と読んで、それ誰?と反応する若い人もいるのかもしれません。「くすのきまさしげ」と読みます。天皇を日本国の頂点とする勤王思想によるならば、間違いなく日本史上トップクラスのヒーローです。天皇家が分裂して争うことになる南北朝時代に、後醍醐天皇に忠誠をつくして南朝のもとをつくる人物です。同朋であった足利尊氏と袂をわけて戦い敗れますが(湊川の戦い)、それも10万もの足利勢を少数で迎え撃つべく練り上げた戦略を後醍醐天皇に却下され、敵の大軍に玉砕覚悟で挑んでゆく私心のない姿があたかも仁義勇を象徴するかのようで、むしろ評価を上げます。足利尊氏がひらいた室町時代をのぞくと、戦国時代から江戸時代にかけては、軍事の天才として「多聞天」の化身と崇敬されます。(四天王として祀られる場合には多聞天、単独では毘沙門天といわれます)また明治時代には正一位を贈られます。正一位は位階のなかでももっとも上のもので、幕府の将軍であるとか関白など公卿の最上位にあるもの以外では、例外中の例外といえます。ところが昭和の時代になると、崇敬されることに変わりはないのですが、その私心のない忠誠心を都合よく利用されることになります。楠木正成は湊川の戦いで敗れ、「七度人として生まれ変わり、朝敵を誅して国に報いたい」と言葉をのこして自害しますが、太平洋戦争において日本帝国軍部はこの言葉を借用し「七生報国」なるスローガンを掲げます。なにかというと四字熟語をつくって有難がるあたりにも何やら寒いものを感じますが、さらに楠木正成を看板がわりに利用して無策のきわみのような作戦計画を立てます。戦争末期の沖縄決戦において、じつに1800を超える戦闘機がアメリカ軍の戦艦に体当たりしてゆきます。俗にいう神風特攻隊ですが、この戦闘は「菊水作戦」と呼ばれていました。「菊水」は楠木正成の旗印です。後醍醐天皇から天皇家の菊紋をつかうよう下賜された正成は、そのまま使うのは畏れ多いと恐縮し、菊のしたに水が流れる独自の紋をつくります。どこまでも私心のない忠誠心を示しつづけた楠木正成を称えることと、その楠木正成を象徴として、どこまでも私心のない忠誠心を強要するのとは、いかに時代が変わろうとも同体にはなりえません。前置きが長くなりました。今日は楠木正成ゆかりの地、大阪府南西部にある千早赤阪村を訪ねます。 千早赤阪村へ JR富田林駅から歩く... Read More | Share it now!
祐徳稲荷神社は日本三大稲荷なのか、訪ねてみた
【佐賀県・鹿島市 2023.1.20】サッカーチームの鹿島アントラーズがあるのは鹿嶋市で、茨城県南東部一体の「鹿行:ろっこう」あるいは「鹿島」とよばれる地域の5つの市をホームタウンとしていることから、鹿島アントラーズと表記しているのではないかと推測します。その鹿嶋市とはまったく別に、佐賀県南部に鹿島市があります。ところが日本三大神宮である鹿島神宮は、この鹿島市ではなく茨城県の鹿嶋市にあるので話はややこしくなります。では佐賀県の鹿島市はどうかというと、鹿島○○とは称しませんが、年間参詣者数300万人をかぞえる祐徳稲荷神社があります。さてこの祐徳稲荷神社ですが、ホームページ上でも、また鹿島市観光協会の案内でも「日本三大稲荷」と明記しています。日本三大稲荷と言えば、総本社である伏見稲荷大社は別格として、笠間稲荷神社(茨城県)と豊川稲荷(愛知県)を2番目3番目に並べるのが妥当でしょう。祐徳稲荷神社が自称しているのだとしても、なにを根拠に自称しているのか、訪ねてみることにしました。 祐徳稲荷神社へ 参道を進みます 錦波川をへだてて神社を見る 境内へ入る手前にある「神橋」 「稲荷神」はもとは稲を象徴とする穀物および農耕の神様ですが、いまでは五穀豊穣だけでなく商売繁盛、家内安全、病気平癒、恋愛成就、開運、金運、子宝、安産、等々生活全般にわたってマルチに御利益のある、ありがた~い神様です。 鳥居をくぐる D神池をわたる... Read More | Share it now!
久留米城についてもっと知ってもらいたい
【福岡県・久留米市 2023.1.18】久留米城は室町時代後期に、このあたりの土豪が砦をつくり篠原城と呼んだのがはじまりと言われています。1587年秀吉が九州一円の平定を終え、論功行賞として「九州国割」をおこない、毛利元就の九男・毛利秀包(ひでかね)を7万5千石の大名として入封させます。その秀包が大規模改修をしていまの久留米城をつくり上げたようです。秀包は秀吉の下、朝鮮の役でも武功をあげ13万石に加増されますが、関ケ原の戦いでは西軍(豊臣方)についていたため、家康の政権下では日の目をみることなく、改易により久留米を去ってのちは毛利輝元の庇護下で長門国内に小さな所領を与えられて蟄居のような暮らしをし、剃髪して仏門に入り、35歳の若さで病死しています。その後は関ヶ原の戦いにおいて家康側で功績のあった田中吉政が近江八幡より32万石に加増の上で筑後に封じられ、その際は柳川城を主城とし、この久留米城は支城として次男が城主となっていたようです。歴史は続きます。田中吉政の長男・忠政が子を残さぬまま死んだため田中家は改易され、かわりに福知山城主であった有馬豊氏が入封し、この有馬家が明治維新まで代々この城を守り続けることになります。さてここまで読んでなにか興味深いことをみつけられましたか。あまりなじみのない人達が入れ替わり立ち代わりしているだけで、それがどうしたんですか、と片付けられそうです。じっさい書きながら記憶に残ったのは「毛利元就はいったいどんだけ子供を残したんや」とその絶倫ぶりに驚いたぐらいでした。そのためか久留米城は訪れる人もなく、さびしくたたずむばかりなのですが、現地で興味をもって見て歩くと、これはなかなか見ごたえある遺産です。 久留米城 久留米城・東南側 久留米城は連郭式の平城で、最南部に外郭があり、北へ向かって三の丸、二の丸、本丸と郭(くるわ:曲輪)が連結して並んでいたようです。そして本丸だけが堅牢な石垣で守られており、その本丸のみが城跡として残っています。いま見ているのは東南側からで、左に大手口、右角には、天守の代わりともいえる3重の巽櫓がありました。 大手口 大手口から入城します 大手口より東側 大手口より西側 大手口より入って振り返る... Read More | Share it now!
吉野ヶ里遺跡はなぜ日本百名城に選定されたのか
【佐賀県・神埼郡 2023.1.18】佐賀県の北東部、福岡県との県境近くに吉野ヶ里遺跡はあります。弥生時代の典型的な環濠集落で、120haにおよぶ広大さもさることながら、弥生時代700年間の歴史がぎっしり詰まっているのも見逃せません。そしてこの遺跡に注目した一番の理由はというと、「日本百名城」に選定されていることです。日本百名城は、選定の基準自体がはっきりしないのですが、すくなくとも「見た目が美しく感動的」というだけで選定されるものではありません。保存状態が良好なことは大いに関係しているようですが、見事な堀や石垣あるいは建物が残っているにもかかわらず選に漏れている例はたくさんあります。ましてやここは弥生時代の遺跡であり、しかも建物の類はすべて復元です。なぜ選定されることになったのか。訪ねてみることにしました。 吉野ヶ里歴史公園 メインゲートの東口 この地に古代の遺跡が残っていることはずいぶん前から認識されていたようです。大々的に発掘調査が行われることになった発端は、1980年代に佐賀県が企業誘致のためこの地に大型の工業団地を建設することを決め、そのための事前調査を行ったところ、思わぬ大規模な発掘発見があり、工業団地建設は縮小となったようです。そして1989年ごろから一部を一般公開することになり、2001年から遺跡公園として開園したとのことです。 土塁、柵、濠、逆茂木... Read More | Share it now!
肥前・佐賀藩鍋島氏の居城を訪ねる
【2023.1.17 佐賀市】「肥前、佐賀藩、鍋島氏」とならべても戦国時代の中心となる地域から大きく外れており、同じ九州でも島津義弘や大友宗麟のような有名武将がいたのでもなく、あまりピンと来ないかもしれません。この地はもとは龍造寺氏が領有していました。龍造寺隆信の時代に近辺の土豪を切り従え、居城としての龍造寺佐賀城を築きます。ここで史実として押さえておくべきは、龍造寺隆信の母は夫を亡くしそのとき亡き主人(夫)の菩提を弔う身でした。ところが重臣であった鍋島清房とその子直茂の武勇と才に惚れ込み、父子を完全に龍造寺家に取り込みたいと考えた彼女は、正室が亡くなった鍋島清房のもとへみずから進んで後妻としておさまります。のちに龍造寺隆信がなくなりその嫡子が幼少病弱であることにつけ入って、重臣の鍋島氏が実権を奪ったと歴史には記されています。たしかにそこは事実なのですが、上に書いたような経緯で、龍造寺家側から鍋島家を親戚として取り込み、鍋島直茂が龍造寺隆信の義弟になっていたのも事実です。また直茂は隆信のもとで獅子奮迅のごとく戦働きをしたとの記録はありますが、主君を討ったとか毒殺したとか黒い記録はありません。それゆえ隆信が亡くなれば、義弟の直茂が家督を継ぐことに無理はなく、いわゆる下克上とは意味合いが違うといえます。さらに龍造寺時代よりも領民にとって善政であったならば、これはめでたしめでたしの歴史だったのかもしれません。その鍋島直茂が龍造寺佐賀城を改修して造り上げたのが、この佐賀城です。 佐賀城へ 堀の内側にのこる大楠... Read More | Share it now!