【奈良県・天理市~桜井市 2022.12.3】かつて奈良盆地の東南に位置する三輪山の麓から東北の春日山の麓まで通じる、日本書紀にも記された古代の道がありました。山々の裾をぬうように道が走っているからか「山の辺の道」と呼ばれ、全長は26km。そのうち三輪山のある(いまの)桜井市から古墳や神社をたどるように続く天理市までの17kmの道のりが、よく整備され歴史探訪の道とした紹介されています。確認出来るかぎりでは日本でいちばん古い道とのうたい文句ですが、古墳や神社はわかるにしても古代よりはるかに後に建てられたはずの寺院までも路程にふくまれており、実際のところどこまでもとのルートを再現できているのかは疑問です。しかし堅いことは抜きにして、ともかく歩いてみようと思わせるだけの魅力ある古道です。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 天理から歩きはじめる 天理教の教団施設がならぶ 過去に2度ほど桜井側から歩いたことがあるので今回は天理側から歩きはじめることにします。 天理市は駅(JR、近鉄とも同じ駅舎)から東口へ出てそのまま進むと、みごとに天理教の教団施設が立ち並び、まるで宗教都市の観があります。誤解のないように言っておきますと、掃除は行き届いているし、いたって静かで穏やかな町です。 路上には山の辺の道の標識 石上神宮 回廊から楼門 楼門を入ると拝殿へ 拝殿と本殿(奥) 国宝・(摂社)出雲建雄神社拝殿から楼門 石上神宮(いそのかみじんぐう)は日本最古の神社のひとつと言われています。建立は一説では崇神(すじん)天皇の勅命によるとのことですが、その崇神天皇は紀元前100年頃に天皇位についていたと考えられる方です。わかりやすく言うと、もとは朝廷の武器庫であり、神武天皇が国の平定の際につかわれた神剣・韴霊(ふつのみたま)、さらにスサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した際に使った天十握剣(あめのとつかのつるぎ)なども保管されていたそうで、その剣にやどる神霊を祀るためにこの石上神宮がつくられたといわれています。また摂社の出雲建雄神社は三種神器のひとつ草薙剣の神霊を祀るためのものです。 神使の鶏 石上神宮は鶏を神の使いと崇めており、烏骨鶏などのやたらに元気のよい鶏が境内を歩き回っています。鳥類の苦手な人には恐怖かも知れませんが、恐れるのではなく畏れ多いとかしこまって参拝してください。 夜都岐神社 山の辺の道をあるく... Read More | Share it now!
明智光秀を慕ってきた街・福知山を訪ねる
【京都府・福知山市 2022.11.27】明智光秀が築いた城はたくさんあります。居城としての機能も備えた坂本城、丹波亀山城、戦の拠点とする目的でつくられた金山城、周山城。そして本能寺の変の3年前、光秀が西丹波統治に拠点として築いたのが福知山城です。光秀はこの地を治めるにあたって、領民に課す地子銭(税)を免除するだけでなく、城下町の整備にも力を入れます。たとえば川沿いに竹藪をつくることで治水につとめたそうで、この竹藪はいまでも明智藪と呼ばれています。この明智藪、元は違う呼び名だったそうですが、明智光秀の功績をたたえる意味でそう呼んで市民から親しまれてきたということで、福知山で光秀がいかに大切にされてきたかが窺えます。そもそも福知山を訪ねてみようと関心を持ちはじめたキッカケは、市内にある御霊神社の存在です。御霊神社とは、生前に人々から慕われていたひとが冤罪などにより貶められた場合に、その人の霊を祀ってなぐさめるもので、ここ福知山の御霊神社には明智光秀が祀られています。すなわち本能寺の変により光秀が逆臣とされたのは冤罪だと、福知山ではむかしから考えられていたということになります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 福知山城へ JRの車窓から福知山城が見えました(中央) JR福知山線の黒井駅から30分ほどで福知山駅に着きます。列車が駅ホームに入る直前ぐらいに窓の外を眺めていると福知山城がばっちり見えます。 市役所前 福知山駅で下車してさっそく城に向かいます。徒歩15分ぐらいでしょうか。駅から10分ほど歩いてくると市役所があり、このあたりから城の全体が見えてきます。 福知山城 北東に登城口があり、ぐるっと回って南面 さらに回って西面... Read More | Share it now!
光秀が獲り春日局が生まれた黒井城を訪ねる
【兵庫県・丹波市 2022.11.27】明知光秀が丹波平定を進めてゆく上で、その堅い守りゆえにさんざんてこずらされた城がありました。丹波の豪族上がりの盟主であった赤井氏が標高356mの猪ノ口山を中心にして、山頂曲輪部分を石垣でかこみ、山稜上に砦を配して全体を要塞化した、その名は黒井城。明知光秀が信長の命をうけて攻めたてますが、八上城の波多野氏に背後をつかれ潰走させられます。(第一次黒井城の戦い)光秀は二度目は慎重を期してまずは上月城を囲んで身動きできないようにした上で、黒井城の支城をひとつひとつ攻めつぶして孤立化させ、ついに上月城、黒井城とつづけて落城させ丹波平定をなんとか成し遂げます。(第二次黒井城の戦い)しかし黒井城が落ちたのは、みずから悪右衛門と名乗った猛将・赤井直正が第二次黒井城の戦いのまえに病死してしまい、嫡男・直義が幼少のため後見人がついて指揮することになったことで弱体化していたことも大いに影響していたでしょう。光秀はこの黒井城を重臣の斎藤利三に与えます。斎藤利三は山の麓に居館をたて治世につとめますが、その時期に生まれた娘・福が成長してのちに徳川3代将軍・家光の乳母となります。福は家康の孫である家光が将軍職につくことに尽力し、大奥の公務を取り仕切るだけでなく、さらに家光の側室探しにも関わり、しだいに強大な権力を握るようになります。この女性こそがのちの春日局です。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 黒井城にのぼる 猪ノ口山 JR大阪駅から丹波路快速にのると、終点の福知山の手前に黒井駅があります。黒井駅を下りると前方に、山稜に黒井城を有する猪ノ口山が見えます。一見おだやかな山並みに見えたのですが... Read More | Share it now!
荒木村重の足跡をたどり摂津の地をあるく
【兵庫県・伊丹市、尼崎市 2022.11.24】市立伊丹ミュージアムにて荒木村重に関する展示会が先週末から始まったので覗いてみることにしました。展示会のタイトルは『信長と戦った男、荒木村重展... Read More | Share it now!
紅葉の高取城址へ高取山をのぼる
【奈良県・高取町 2022.11.12】「巽高取雪かとみれば... Read More | Share it now!
広島城を見て歩く
【広島市 2022.11.8】中国地方の覇者・毛利元就は亡くなる前、嫡男の隆元が若くして急逝していたため孫の輝元に家督を譲ります。そのとき輝元はわずか11歳、そこで亡き父・隆元の弟である吉川元春、小早川隆景の補佐を受けることになります。(元春は元就の次男で吉川家に養子入りし吉川家当主となり、隆景は三男で小早川家に養子入りし小早川家当主となっていました)毛利輝元は祖父・元就の遺言をまもり、二人の叔父に支えられながら天下をねらう野心はもたず、逆に天下をねらうゆえ中国の地を侵そうとする者には威厳をもって対抗します。織田信長、そして信長の命をうけて備中へと侵攻する羽柴秀吉との衝突は避けられませんでした。その輝元が信長の没後に天下をほぼ手中にした秀吉から中国9ヶ国120万石の領有を認められ、交通の要衝であった太田川の三角洲に新たな城を築いて郡山城から本拠地を移します。これが広島城です。その後は関ヶ原の合戦で西軍が敗れたため、その西軍の総大将にまつりあげられていた輝元は周防・長州2ヵ国に減封、結果として広島城を明け渡すことになります。広島城に城主として在任したのはわずか9年間に過ぎませんでした。そのあとには秀吉子飼いで豊臣家恩顧の大名でありながら、石田三成との確執などから徳川家康にしたがった福島正則が城主となります。しかしその正則も城を修繕したことに対して難癖をつけられ信濃へと減封のうえ体よく追いやられます。こちらは19年間の在任でした。このあと恒久的に城主となるのが浅野家です。浅野長政は豊臣家5奉行の1人でしたが、秀吉の死後影の実力者となった北政所(寧々)と兄妹関係にあり(長政は浅野家の婿養子で家督をつぎ、寧々は浅野家の養女で秀吉に嫁ぐ)、関ケ原の合戦が実質的には、豊臣家&淀君... Read More | Share it now!
因島水軍城を見て歩く
【広島県・尾道市 2022.11.7】かつて瀬戸内海の、安芸(現・広島)と伊予(現・愛媛)にはさまれた一帯を支配していた村上水軍と呼ばれる海賊衆がいました。南北朝時代に起源をもち、室町時代に勢力をひろげて行きます。やがて3家にわかれ、それぞれ本拠地とする島名を冠して、能島村上家、因島村上家、来島村上家と呼ばれます。やっていたことは海峡を関所にみたて、そこを通過する船から通行税を取り立てることゆえ、地元では海賊ではなく管理者であるとの見解もあるようですが、まず幕府から認められた守護職ではなく、通行税を払わずに運航している船に対しては容赦なく急襲、略奪を行なっているのですから、やはり海賊に近いでしょう。しかし戦国時代になると各地でより大きな勢力をもつ大名が勃興し、村上水軍も単独で生き残ることが難しくなってきます。村上3家の中で、もっとも目立って歴史に名を残したのが因島村上家です。毛利家に臣従し、毛利が織田信長と激突する摂津の戦いでは、毛利からの命で摂津の地で籠城する石山本願寺へ海上から兵糧を運び入れる役をうけもち、それを阻止せんと待ち受ける織田軍の船を完膚なきまでに打ちのめし、みごとに大役を果たします。(ただし2度目には、信長がつくらせた鉄板張りの巨船に迎撃され、反対に木っ端みじんに蹴散らされてしまいます)織田家も豊臣家も戦国時代の激動の中で滅亡して行きますが、臣従していた毛利家は江戸時代をとおして存続したため、因島村上家も長州藩の船手組として生き残ります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 因島水軍城 駐車場のある麓から見上げる さて村上水軍城ですが、地元の観光案内には「日本唯一の水軍城」とうたっているものの、もともとこの場所に城はありませんでした。家臣の住居があった地に、「村上水軍史料館」を城郭風の建物としてつくったというのが実情です。 ここだけ見ると、まずまずの雰囲気ですが、 全体を見ると、まるで粗大ゴミ捨て場? 城門ではなく、山門となっていました 隅櫓 本丸に相当する建物 /... Read More | Share it now!
福山城を見て歩く
【広島県・福山市 2022.11.6】築城400年を記念して大規模改修をおこなっていた福山城が、工事を終え今年8月から一般公開されたこともあって訪ねてみることにしました。福山城の最大のポイントは、日本において本格的に築城された最後の近代城郭ということです。江戸時代初期、徳川家康のいとこである水野勝成が10万石をあたえられ大和郡山より転封されます。目的は毛利家をはじめとする西国大名に対する抑えであり、そのため所領10万石とはとても思えない巨城を築くことになります。その偉容で牽制しようと考えてのことでしょう。福山市の観光ガイドにうたう「日本城郭の最高到達点であり最高傑作」というキャッチコピーには首をひねりますが、最後につくられた城だからこそすべての技術を集結した完成形と考えるなら、根拠のないものではないのでしょう。構造としては本丸のまわりを二の丸、さらに三の丸が取り囲む連結式の平山城で、石垣は本丸に進むにしたがい3段階により高く積み上げられた、一ニ三(ひふみ)段とよばれる縄張りになっています。多数の門や櫓が京都の伏見城から移築されその優美な姿を伝えていましたが、第二次大戦時の空襲で、伏見櫓と筋鉄御門をのぞくすべてが焼失してしまいます。1966年に天守、月見櫓などを鉄筋コンクリート造りで復元、さらに今回築城400年を記念して大規模改修が行われました。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 福山城 JR福山駅からすぐ目の前がお城です 繁華街がひろがる福山駅南口側から駅舎をぬけて北口を出ると、びっくりするほどすぐそばに福山城はあります。 東坂口門より入ります 空襲でくずれた石垣をくみ直し虎口を再現しています 天守をのぞむ 月見櫓をのぞむ 天守 天守へ 天守(東面) 天守(北面) 天守(北面と西面) 天守(西面) 天守(南面) 天守のまわりを一周すると、北面だけが黒いことがわかります。これは天守の北側は砲撃をうけたときに砲弾がとどく可能性があり、その弱点をカバーするために鉄板を北面全体にはり付けていたそうです。1966年の復元工事では鉄板はなかったそうですが、今回の修復工事では鉄板の復元もおこないました。なお蛇足になるかもしれませんが... Read More | Share it now!
赤穂義士討入と塩との関連は、ない
【兵庫県・赤穂市 2022.11.3】1701年、播州赤穂藩の藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城の松之廊下にて高家旗本・吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか)に突然切りかかります。吉良氏は命に別状はなかったものの、江戸城殿中でしかも吉良氏が職務として朝廷の使者の接待をしている最中の刃傷沙汰ということもあって、浅野氏はその日の内に切腹を申し渡されます。これが赤穂事件の前半部です。浅野長矩は即日切腹を命じられ播州赤穂の所領も没収となったにもかかわらず、吉良氏にはなんらお咎めもなく、それに反発した家臣たちが一旦は御家のために忍従しようとしたものの、ついに堪忍袋の緒が切れて筆頭家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を中心に赤穂浪士47名が吉良邸に討ち入り、吉良義央を討ち首をはね浅野長矩の墓前に供えて恨みをはらします。これが赤穂事件の後半部になります。この赤穂事件はなんども映画やテレビドラマになっていますが、設定は必ずと言っていいほど吉良義央が悪者、赤穂浪士47名は義憤にかられ自らの命をかけて仇討ちをしたヒーローとして扱われています。なぜ浅野長矩が突然吉良義央を切りつけたのか、その理由はまったくわかっていません。もしかするとそのとき突然神経障害(パニック障害、あるいは発狂)に陥ったのかもしれません。「喧嘩両成敗」でないことに我慢ならなかったとはいえ、そもそも喧嘩ではなく浅野氏からの一方的な攻撃であれば両成敗する方がおかしいということになります。「仇討ち」といえば聞こえはよいですが、単なる復讐に過ぎなかったのかもしれません。さて今日は、そんな浅野長矩と赤穂浪士の故郷である兵庫県・赤穂市を見て歩きます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 赤穂の街をあるく JR播州赤穂駅の階段には 赤穂浪士の姿絵が飾られています。 駅から赤穂城へとつづく道 おそらくは市の条例で、高層ビルが建てられないだけでなく、駅から城への道路「お城通り」沿いでは洋風建築すら認められず景観を保っているのでしょう。その心意気はよいのですが、祝日だというのになんという人通りの少ないこと。 通称「息継ぎの井戸」 君主・浅野内匠頭長矩による刃傷沙汰を急報するため、江戸より4昼夜早かごに揺られつづけて赤穂にたどり着いた藩士2名が城下に入り、この井戸の水をのんで一息ついたと伝えられています。 ここにも観光客はいません。 花岳寺 花岳寺(かがくじ)は、赤穂歴代藩主である浅野家、永井家、森家の菩提寺であり、大石内蔵助ほか赤穂浪士の香華院(菩提所)でもあります。 浅野家霊廟 赤穂浪士の墓所 赤穂浪士面々の墓標には、自刃(切腹)のため戒名にはすべて「刃」の文字が刻まれています。浪士面々の遺骸は江戸で葬られているため、ここには遺髪のみを納めているそうです。ところで花岳寺の案内でもそうですが、赤穂にきて気づいたことは、つねに「赤穂浪士」ではなく「赤穂義士」と記しています。「義士」とは忠義にあつい人のことで義憤から仇討ちはあっても、個人的な心情や信念から復讐などに走る人のことは指しません。さて赤穂浪士は本当に「義士」だったのか、そして忠臣蔵の話そのものは真に美談と言えるのか、少々疑問があります。 赤穂城址・石垣 大手櫓と大手門 赤穂城は櫓や塀など建造物はすべて再築したものですが、石垣は補修はしているものの現存物です。先に外周をまわって石垣を見ておきます。 大手門から入る 大手門 大手門内側から大手櫓をみる 大石宅跡 大手門から入り虎口を回り込むとすぐに大石内蔵助の邸宅跡があります。やはり筆頭家老ということでこの位置に屋敷を構えていたのでしょうか。 本丸 本丸門 本丸をかこむ石垣と堀 本丸門を入る 本丸御殿跡... Read More | Share it now!
大阪の最高峰(?)金剛山にのぼる
【大阪府・千早赤阪村 2022.10.30】金剛山は、大阪府と奈良県の境に位置し、いわゆる山頂は間違いなく奈良県側にあります。ところが金剛山というと、多くの人(とくに大阪人)は大阪の山と信じています。ガイドの中にも「大阪の最高峰で標高1125m」と書いているものさえあります。どうしてこのような勘違いが起きているのかといえば、なによりも金剛山に上ると言えば、(おそらく)100人中99人以上の人が大阪側からの登っているがためでしょう。金剛山に上る道は俗に48本あると言われていますが、主要な道はすべて大阪側からあります。それどころか大阪側からはロープウェイすらあります。(このロープウェイは現在停止中です)もう一つの理由は、金剛山の名を知らしめている千早城が、楠木正成(くすのきまさしげ)の出身地である千早赤阪村とともに大阪府に属していることもあります。楠木正成といえば大阪、千早赤坂は大阪、それゆえ金剛山は大阪の山ということになったのではないでしょうか。今日はその金剛山にのぼり、千早城(跡)に寄ってみます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 黒栂谷道 金剛山登山口バス停から歩きはじめてすぐにこの分岐に出会います。右が千早本道で大半の人がこの道をつかいますが、今日は人が少ないだけでなく、登山道としておもしろい黒栂(くろとが)谷道からカトラ谷ルートを歩きたいので左に折れます。 車止めのゲートを抜けてまっすぐ このゲートがひとつの目印になります。まっすぐゆくと黒栂谷道からカトラ谷、右の道をすすむと妙見滝のあるタカハタ谷ルートに入ります。 しばらく林道を歩きます 林道も山道らしくなってきました この道では一人も出会いませんでした 黒栂谷道からのルートはずっと渓流沿いを登ってゆきます。本来それほど難しいルートではないのですが、倒木のひどい場所や山道が崩れている箇所もあり、十分に注意が必要です。 (現地で通行禁止のロープは張られていませんでしたが、ネットの道路情報では注意勧告が出ています) ★黒栂谷道からカトラ谷を通る予定でしたが、途中で道を誤り、ずっと脇道を上っていたことに後から気づきました。 谷部分をすぎて尾根部分に出てきたようです 山並みが紅葉しているのが見えます 金剛山頂 山頂の表示... Read More | Share it now!