【愛知県・名古屋市 2022.10.26】いまの名古屋城の地には、かつて織田信長が生まれたとも育ったともいわれる那古野城がありましたが、両者には繋がりがありません。それゆえ名古屋城は比較的新しく造られた城ということになります。徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利したのは、すでに60歳を目前にしたときでした。自分が天下人となり、さらに盤石な基盤を築くためにはすべてを急がねばなりません。自分の余命とのにらみ合い、とでもいった心境だったのではないでしょうか。家康は征夷大将軍となって江戸幕府をひらくと、西国(豊臣家およびその勢力下の大名が多い)への備えとして西日本の要衝となる地へ新たに城を築き、自身の身内や信頼できる家臣を移り住まわせます。名古屋城はそのなかでも最大規模の、象徴的な存在でした。城普請は、かつては秀吉の恩顧を受けていた加藤清正、福島正則、黒田長政、毛利秀就、池田輝政ら外様大名に命じ、石垣の組み上げだけで言えば一年足らずで仕上げています。そして天守閣が築かれるのが1612年で、大坂冬の陣がおこるのが1614年ですから、この名古屋城の完成をもって満を持し大手を打ってきたかのようです。その後、名古屋城は尾張徳川家が17代にわたって城主をつとめながら尾張の中心的存在として繁栄します。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 名古屋城へ 名古屋城はまだ先ですが、街中に城普請の跡が残っています。近くに「○○三の丸幼稚園」があったので、かつてこのあたりが三の丸だったということでしょう。 陸橋をわたっていると、ちょうどいい具合に天守閣が見えました。なんとなく計算してやっているようですが、これもサービス精神ゆえということで。 正門 まずは正門から入ってみます。それにしても看板、案内板が多いし、このあたりでは名所旧跡には三角コーンは必須とでも考えているのでしょうか。 西の丸 西南隅櫓から大天守、必須アイテムの▲コーン 西南隅櫓から東南隅櫓 東南隅櫓 石垣 石垣はもちろんですが、各隅櫓も当時のものが現存しているそうです。明治維新において全国に廃城令が出されますが、ここ名古屋城は市民からの強い要望で存続が決まります。しかし明治時代に起きた濃尾地震で石垣と建物の一部が崩壊、さらに大戦時の空襲で天守閣が消失してしまいました。 本丸 表二之門を入ると立派な虎口があります。 小天守と大天守 大天守 小天守と大天守 空襲で焼失した天守閣は、残っている写真や資料をもとにコンクリートで「復元天守」として1959年に再建されました。しかしいまは耐震強度の問題とかで入場できなくなっており、木造による再建を検討しているそうですが、関係者間ですったもんだしており、いまのところ見通しが立たないようです。 2018年に再建された本丸御殿 本丸御殿も空襲で建物はすべて焼失しましたが、障壁画などは取り外して他の場所で保管していたため難を逃れ現存しています。ただしこの本丸御殿を飾るそれらは、すべてデジタル技術を駆使してつくった模写です。京都の元離宮二条城の本丸御殿とおなじで、本物は宝物館で(期間限定で)見られます。 表書院 上洛殿 上洛殿 東二之門 二の丸とつながる東二之門 清正石... Read More | Share it now!
清洲城を見て歩く
【愛知県・清須市 2022.10.26】清洲城は、室町時代に尾張、遠江、越前守護の名門・斯波氏により築城され、守護所が移ってきてからは尾張国の中心地となります。守護職(ここでは斯波氏)は、自身ですべての領地を統治することはできないので各地を分割してそれぞれに代理のものを置いていました。これを守護代といいます。尾張は岩倉織田家が国の上四郡を、清洲織田家が下四郡を、二つに分けてそれぞれ守護代として勤めており、この清洲織田家がここ清洲城を本城としていました。この清洲織田家には家臣にあたる清洲三奉行家がおり、そのうちのひとつ弾正忠家が織田信長の出身家系になります。信長の父・信秀に時代には武力の面では守護、守護代をしのぐまでになりますが、統治の面ではまだ上から頭を押さえられる状態でした。それを打ち破ったのが信長です。信長は叔父の信光(信秀の弟)と組んで当時の清洲城の城主・信友を殺害して自身が移り住みます。信長はこの清洲城を10年間居城としますが、その間に尾張を統一し、さらに桶狭間の合戦で今川義元を葬るなど確実に力をつけて行きます。信長が小牧山城へ移ってからは織田家支配の城のひとつとして残るに過ぎませんでしたが、本能寺の変で信長が横死してのち、その信長の跡取りをきめる会議が秀吉主導で行われたのがこの清洲城です(清洲会議)清洲会議のあとには、信長の次男・信雄が城主となり、大規模な改修改造を行なったようです。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 清洲城 オッと、という感じで工場の建物と建物の間に清洲城が見えました。 ところで、市は清須市、城は清洲城と書きます。 五条川と大手橋ごしに城をみる 大手橋から城へ 色々な角度から天守を撮影してみました。空も澄みわたり美しい写真ができましたが、残念ながら、そもそもこの天守は資料をもとに復元したものではありません。それどころか当時の清洲城に天守があったかどうかもはっきりしないまま、桃山時代の城の造形からイメージで造りあげた「模擬天守」と呼ばれるものです。 天守の分類https://blog.kojodan.jp/entry/2019/02/25/191515 天守へ 門から この庭の意図は??? 500円払って入城しましたが、はっきり言って見るべきものは特にはありません。ただ、この新聞には笑いました。他にも「長篠の合戦で大勝」とか「信長公、本能寺で横死」など数種類ありました。 天守最上階から、五条川にかかる大手橋、清洲古城跡公園を見渡す。 信長と濃姫 濃姫(左)と信長(右) 信長と濃姫の像があります。濃姫は美濃から嫁いできた信長の正室で、「美濃からきた姫」ゆえ濃姫、もとは帰蝶と呼ばれ斎藤道三の娘です。 この濃姫、信長と数年ここ清洲城で暮らしていた記録はあるのですが、その後まったく歴史の記録から消息が消えてしまいます。そのため死亡説、離婚説、出奔説など出てきますが、いまだに確定できる説はありません。 濃姫 信長 【アクセス】JR枇杷島駅から徒歩30分、名鉄新清洲駅へ徒歩15分【入城料】清洲城天守... Read More | Share it now!
犬山城を見て歩く
【愛知県・犬山市 2022.10.25】犬山城の歴史は織田信長の叔父・信康が当時あった砦を改修して城の形にしたことに始まります。信康の死後、息子の信清があとを継ぎますが、そのころ頭角を現しはじめていた信長に追われ、ここで信長の城となります。信長時代には池田恒興が城主をつとめていましたが、本能寺の変の後は信長の次男・信雄の管轄下におかれます。小牧・長久手の戦いで秀吉と家康が激突した際ふたたび大きな動きがあります。大垣城に移っていた元城主で秀吉の有力な協力者である池田恒興が奇襲をかけこの城を奪い取ってしまうのです。この時点で犬山城は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のものとなります。そして秀吉はこの犬山城に本陣をかまえて、小牧山城に陣を敷く家康と対峙します。秀吉は天下統一のために着々と手を打ち、この犬山城もいったんは信雄に返しますが、すぐに信雄を減封のうえこの要衝の地から追い出し、甥の秀次に統治をまかせます。さらに秀次を切腹させたあと腹心の石川貞清を城主に据えます。この貞清が犬山城を大いに改築し、今につたわる城に仕上げます。その後は、関ケ原の合戦でも西軍の拠点となりますが、西軍が敗れてからは家康の手にわたり、江戸時代をとおして成瀬家が城主をつとめることになります。さてこの犬山城は、信長、秀吉、家康それぞれに奪い奪われ、歴史の荒波にもまれてきた城なのです。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 犬山城へ 名鉄犬山駅前の方向表示は犬山城が中心 本町通を城へ向かってあるく 前方に城の天守が見えてきました 名鉄犬山駅から西へ歩き、右折して城下町の面影のこる本町通を北上すると城に着くのですが、そこそこ観光客も歩いているその本町通を車が走っているのにはびっくりしました。日中だけでも歩行者専用にすることはできないのでしょうか。 赤鳥居が三光稲荷神社、石鳥居が針綱神社 ふたつの神社の間の道(大手道)を進んでも、あるいはそれぞれの神社の境内を通っても天守へはたどり着けます。標高88mですので山ではなく、丘の上といった方が正しいでしょう。 それにしても看板やら▲コーンやらが目立つ 針綱神社 針綱神社・鳥居 そり橋 ご神馬 針綱神社はおもに子授け、安産、厄除けなどの御神徳があるそうです。子授けのお守りが800円ですが、夫婦で一つずつ持つのがよいと但し書きがあり、セットで1600円ということになります。販促みたいな-... Read More | Share it now!
松本城を見て歩く
【長野県・松本市 2022.10.11】松本城はもとは深志城とよばれる小規模の城郭でした。武田信玄に獲られ、織田信長の軍勢に侵攻されるなどの歴史をへて、石川数正・康長父子が豊臣秀吉の命により入城してから天守閣をつくり整備をすすめ、本格的な城に造りかえます。この石川数正(いしかわかずまさ)ですが、そもそもは徳川家康の片腕として徳川家の屋台骨を背負う重臣でした。ところがある時突然徳川家を裏切り、出奔して豊臣秀吉に臣従したと言われています。真相は定かではありませんが、どうやら秀吉の調略あるいは謀略により落とされたようです。ことの起こりは秀吉が天下統一にむけて勢力を拡大する中、徳川家が豊臣方との交渉役につけたのが重臣・石川数正ですが、秀吉は数正が上洛するたびに歓待します。そしてみずから歓待しながら、石川殿は秀吉のもとへ行くたびに歓待されている、どうやら寝返るつもりではないか、そのような不穏な噂を徳川領で意図的に流してゆきます。石川数正は家康が今川家に人質として預けられていた時にも付き従って苦労を共にしたほどの臣従関係にあり、寝返る意思はなかったのではないでしょうか。ところが不穏な噂が独り歩きし、しだいに居心地が悪くなってきます。どうやら家康自身は数正のことを信用しており不穏な噂も無視する姿勢だったようなのですが、数正としては周りから白い目で見られるのに耐えられなくなったところに、頃良しとみた秀吉から河内8万石でどうかと誘われ、寝返った(寝返えさせられた)のが真実ではかないかと思います。さて秀吉は関東の北条家を平らげると、その地に家康を移封します。言うまでもなく秀吉にとっては一番の脅威である徳川家を京・大阪からより遠い地へと追いやるのが目的でした。そしてその関東地方を信頼できる大名たちに取り囲ませるように領地をあたえて移り住まわせます。石川数正もその一人で、信濃国松本に10万石を与えられ、皮肉にも家康にたいする防御の駒としてこの地に移り住むことになります。なお松本城はわずか12だけのこる現存天守をもつ城のひとつで、国宝に指定されています。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 天守をのぞむ 入口に国宝とうたっています 濠越しに回りながら天守を望んでみます 乾小天守(左)、大天守(中央)、月見櫓(右) 左が乾小天守... Read More | Share it now!
上田城を見て歩く
【長野県・上田市 2022.10.15】上田城ですが、もとは千曲川の分流である尼ヶ淵に面しており、尼ヶ淵城とも呼ばれていました。そもそもはこのあたり一帯を治める土豪が城館を築いていたものですが、真田氏が頭角をあらわすにしたがい、昌幸がこの地の優位さに目をつけ本格的に築城をはじめます。真田家は武田氏に臣従していましたが、その武田氏滅亡の後は主家を次々に替え、ついには徳川家康に従うことになります。ところがその徳川と対立して戦に及ぶのですが、大方の予想を裏切って、真田勢はみごとに徳川勢を撃退します。(第一次上田の戦い)その後豊臣家と徳川家の争いから関ヶ原の合戦がおこりますが、真田昌幸は家の存続をはかり、昌幸自身と次男の信繁(幸村)は豊臣方につき上田城をかため、長男の信之は徳川方について城をでます。上田城にこもる昌幸・信繁親子はよく戦い、江戸から関ヶ原へとむかう家康の嫡男・秀忠の3万8千ともいわれる大軍の侵攻を抑え、結果として秀忠軍は関ヶ原の合戦に間に合わないという失態を犯すことになります。(第二次上田の戦い)しかし関ヶ原の合戦自体が西軍(豊臣方)の敗北に終わったため、昌幸・信繁親子は信之の働きもあって死罪は免れたものの高野山へ追放(のちに九度山で蟄居)、上田城は徹底的に破却され濠も埋められます。その後、その信之がこの地を安堵されますが、城が見る影もなく壊されているため本来の沼田城を居城としたまま治世をおこない、やがて松代へ加増転封となります。そして真田信之のあとに小諸から転封されてきた仙石氏によって上田城は、改修ではなく、あらたに造られることになります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 南櫓、東虎口櫓門、北櫓 南櫓 南櫓と東虎口櫓門(本丸入口) 東虎口櫓門と北櫓 本丸入口になるのが東虎口櫓門。その左に南櫓、右に北櫓があります。 この上田城には天守がなかったとの見解が主流ですが、本丸には櫓7棟があり防備につとめていたそうです。 真田氏の上田城には天守閣はあったのかhttps://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/shogaku/1779.html 櫓門にある巨岩・真田石 櫓門から 本丸 北櫓と櫓門(本丸内から) 櫓門を入ると正面に真田神社(櫓門上から) 真田神社・拝殿 賽銭箱にも六文銭 真田信繁(幸村)の像 地元の人が書いていました。この上田城は江戸時代に仙石氏が建てたものを基に再現を試みており、戦国時代の真田氏が築城したものとは関係ないので、これほどに「真田」「六文銭」を強調するのは、あまりにも商売っ気丸出しではないか。たしかに違和感はあります。この像にしても、父・昌幸のものならわかりますが、信繁(幸村)はこの上田城時代にはまだ青年で、それほどの活躍はしていません。 本丸跡 本丸からみた濠(内堀) 西櫓 西櫓 この西櫓が江戸時代からのこる唯一の建物 尼ヶ淵 ここは千曲川の支流としてあった尼ヶ淵の流れを要害としていた上田城の南側面で、通称「尼ヶ淵」とよばれています。 本丸土塁の隅落とし 土塁の隅落とし 内堀沿いに北東角までまわると、この城独特の「隅落とし」が見られます。神社や屋敷で北東の位置、すなわち鬼門の位置に厄除けのため隅切りをする例はよくありますが、ここでは本丸の土塁を大きく削って隅落としとしています。たいへん珍しい例です。 上田城縄張り図 上田の戦い合戦図 北国街道・柳町 上田城から徒歩10分ほどのところにある北国街道・柳町。北国街道はそもそも上杉謙信が軍用道路としてつくったものがその起源となり、江戸時代に整備されて宿場もつくられ、ここ柳町もそのときに発展したそうです。 【料金】上田城(櫓門と博物館セット)500円【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!
秋の気配ただよう丹波篠山を見てあるく
【兵庫県・丹波篠山市 2022.10.2】丹波篠山市は兵庫県の中東部にある人口3万人ほどの小都市です。もと多紀郡・篠山町、今田町、丹南町、西紀町の4町が1999年に合併して市となったもので、そこからわかるように田舎といえば田舎であり、自然豊かなこじんまりした町です。JRが市内を走っていますが、最近になって4町が合併してひとつの市となったため、その路線は市域の西の端を通っており、最寄りの篠山口駅から中心街まではバスに乗り換えるか1時間ほどかけて歩く必要があります。そのためでしょうか公共の交通機関をつかって訪問する人は少なく、自家用車かバスツアーということになり、観光地としてもうひとつ注目されないのはそんな不便さもあってかもしれません。自分自身も大阪に住んでいながら、今回が初めての訪問になります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 黒岡の春日神社 鳥居 JR篠山口駅からバスで中心街まで来ました。すぐ南に篠山城址が見えましたが、さきに春日神社に参詣します。 ここは平安時代に奈良の春日大社より分霊された社で、かつて黒岡村の笹山とよばれた、現在の篠山城址のある小丘に祀られていたそうです。 楼門(神門) 春日神社といえば、鹿です。 拝殿 ここには常駐する宮司さんがいないそうで、地元の人たちが清掃なども担当してやっているとか。そのぶん地元との人にはより密着したものなのかもしれませんが、それにしても大変ですね。 篠山城址 大手門をのぞむ 大手門より先に進む 篠山城は、徳川家康が豊臣方の西国大名をおさえるため、山陰道の要衝である篠山の地に急ぎつくらせたものだそうです。縄張り担当は築城の名人・藤堂高虎、普請総奉行は池田輝政、20国の大名に下知されわずか6か月で完成します。 大書院 大書院が復元されています。大書院は廃城後も取り壊すのに金がかかるとの理由で残され、学校施設などに使われていたそうですが、その後失火により焼失。平成の時代になって再建されました。 この大書院だけは入館料400円が要ります。 大書院・内観 大書院・内観 埋門(うずみもん) 埋門(うずみもん)は低い位置にあるため城の内から見たときは目立たず見逃しやすく、城の外から入ってきたときには三方が階段のためすぐに場内が見渡せないようになっています。 天守台 天守台は残っていますが、天守閣は結局最後までつくられなかったそうです。 きれいな石垣が残っています 大手門(跡)から黒金門(跡)へつづく石垣 内濠と石垣 これだけのものを6ヵ月でつくり上げたとは驚きです。まず第一に、石の切り出し場が近くにあったのでしょう。遠方から運んでいたのではとても間に合わないはずです。 外濠 たいていの案内や資料には「篠山城跡」となっていますが、ここでは敢えて「篠山城址」としました。 城址と城跡の違いhttps://kokugoryokuup.com/shiroato/ 河原町妻入商家群 古い街並みのようですが、 それ風に再建されたものが大半(?) 八上城跡 山全体を要塞化した八上城があった高城山 丹波の国人であった波多野氏がながく本拠としていた八上城(跡)を見にゆきます。篠山城址から5km足らず、バス便も少ないので歩きます。 登城口にある春日神社はほぼ廃墟でした この八上城は堅固に守られた城で、明智光秀が丹波攻略の際には力押しに押しても落とせず、兵糧攻めと渾身の説得でなんとか開城させました。なお開城(降伏)にいたって、光秀が城主の波多野兄弟を助命すると約束したにもかかわらず、織田信長が有無を言わせず殺してしまったと史実にあります。 登り道はほぼ丸太階段ですが、 これが延々とつづくので結構バテます 山頂手前で篠山市街方面をのぞむ 山頂... Read More | Share it now!
紀州徳川家の居城だった和歌山城を見にゆく
【和歌山市 2022.9.24】和歌山城は、豊臣秀吉が弟・秀長に紀州を平定させてのち当時若山(のちに和歌山と改名)と呼ばれていた地に、築城の名人・藤堂高虎を城普請奉行として、わずか1年で築城させたのが始まりです。その後江戸時代になって、浅野幸長が37万石で紀州藩主となり城主となると大改修をおこないます。つづいて徳川家康の十男・頼宣が55万石で入城し、のちに徳川御三家のひとつにかぞえられる紀州徳川家を興すことになります。城郭は紀州徳川家の居城だっただけにずいぶん立派なものだったようで、第二次大戦前までは天守閣をふくむ11棟の建物が国宝に指定されていましたが、和歌山大空襲によりすべて焼失してしまいました。現在のこる天守閣は昭和30年代にコンクリートで復元されたものです。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 和歌山城へ 和歌山城・全景 濠と石垣 一の橋をわたり大手門へ 石垣は往時のものが遺っているため、なかなか見ごたえがあります。実際に歩いて見たのとは順番が変わりますが、次に和歌山城に現存している石垣を歴史的に古いものから順にならべてみます。 石垣 石垣① 以下、3種の石垣は築かれた時代により、使われた石の種類と組み方がそれぞれ異なります。石垣①は豊臣時代に築かれた、紀州青石など自然石を切り出してそのまま積んだ野面積み。 石垣② 石垣②は浅野時代に築かれた、和泉砂岩を打って形をととのえ接ぎ合せながら積む、打込みハギ。「ハギ」とは「接合」の意味です。 石垣③... Read More | Share it now!
日本で最初の石垣の城・観音寺城を見にゆく
【滋賀県・近江八幡市安土 2022.5.28】思えば、安土にくるのはほんの3か月ぶりです。もっとも前回は信長がらみでしたが、今回はその信長と敵対した六角義賢(ろっかくよしかた)の居城であった観音寺城を見にゆきます。観音寺城(址)は、安土城(址)の北東にある標高432mの繖山(きぬがさやま)の山頂から南山麓部分にかけてひろがる大城郭です。しかも単に大きいというだけでなく、城郭全体に石垣が組まれており、日本最初の総石垣の城と言われています。 安土駅から繖山へ JR安土駅から歩きはじめます 後方が観音寺城址のある繖山 今回は安土城はスルーして、六角氏の居城・観音寺城(址)にむかいます。 桑実寺 桑実寺参道から登ってみます。 山門をぬけても階段がつづきます。 本堂 桑実寺は通り抜けるだけでも、拝観料300円が要ります。すなわち観音寺城址... Read More | Share it now!
奈良・明日香村にて、飛鳥の里をあるく
【奈良県・明日香村 2022.4.17】ややこしいのですが、飛鳥文化の遺構がのこる地域を飛鳥の里といい、奈良県の明日香村にあります。大阪から電車でくると、近鉄・飛鳥駅で下車しますが、駅近くのコンビニは「○○明日香店」となっています。要は、地名としては明日香、文化としては飛鳥ということなのでしょう。なにはともあれ、明日香村の飛鳥の里を歩いてみます。 飛鳥駅から歩きはじめる ... Read More | Share it now!