【福島県・白河市 2025.5.19】かつての下野しもつけの国(いまの栃木県)から奥州(いまの東北地方)への入口にあたる場所、現在の福島県の南東部に白河小峰城はあります。ここは昔から交通の要衝で南北朝時代のころから砦や城が築かれていたようですが、その後秀吉の時代になって会津藩領となり蒲生氏、つづいて上杉氏が支配。さらに江戸時代になると、地理的な重要性が再認識されたのか白河藩として独立し丹羽長重(信長の宿老であった丹羽長秀の嫡男)が転封されてきて石垣で重装備された堅牢な城を築きます。 小峰城としての歴史であればそれだけの説明でも十分なのでしょうが、白河といえば幕末の戊辰ぼしん戦争における白河城の戦いがあまりにも有名で、これを抜きにして白河城を語ることはできません。(京都の)鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、旧幕府の長である徳川慶喜が江戸へ逃げたためそれを追うように新政府軍は東征を開始します。慶喜は江戸城をも開城し新政府軍にたいして恭順の意(すなわち降参)を示しますが、旧幕府軍の中には、たとえば新選組の首領・近藤勇のように徹底抗戦を唱えるものもいました。ここで弱腰の慶喜よりも声の大きな徹底抗戦派が旧幕府軍の主流となり、佐幕派の中心的存在である会津藩とそもそもはその会津藩にやとわれて佐幕的行動をつづけてきた新選組が中心になって、戊辰戦争の中で「東北戦争」とよばれる戦いに突入していきます。※はたして新選組がれっきとした佐幕思想をもって討幕派と戦い続けたのかは疑問で、八王子あたりの浪士集団が役職まであたえられ、れっきとした武士として生きられる自らの生きざまに陶酔して白刃を振り回しつづけたのではないか。そのあたりは疑問なのですが、ここでは主題からそれるので考察はまたの機会にします。 白河小峰城 駐車場に車を停めて、前方の案内板へ 案内板によると、このあたり一帯が二ノ丸跡車をとめた駐車場あたりが三ノ丸跡のようです 大堀跡... Read More | Share it now!
玄蕃の暴走で勝家は戦にやぶれ、玄蕃尾城がのこった
【福井県・敦賀市刀根~滋賀県・長浜市余呉町 2025.4.7】<青春18きっぷ>をつかって新大阪駅から福井県の敦賀まで、乗り換えなしの新快速にのると2時間かからずに到着します。そこからコミュニティーバスで30分南へ戻ると、滋賀県との県境ちかくに玄蕃尾城があります。この城は織田信長が本能寺で謀殺されてのち重臣たちによる覇権争いの最終決戦となる賤ヶ岳の戦いのさいに、琵琶湖南岸に陣をしく羽柴秀吉方にたいして北岸に陣をしいた柴田勝家方の、その勝家の本陣がおかれた場所です。城の名の由来については複数のサイトで確認できましたが、たんに勝家の甥にあたる佐久間玄蕃盛政の名に由来するとだけ書いてあるもの、この城が賤ヶ岳の戦いにおける佐久間玄蕃盛政の陣城と(誤)認識されていたとするもの、また盛政がこのあたりに行軍のための尾根道をつくり、その道が「玄蕃の尾根道」と呼ばれたことからとするものなどがありました。ともかく玄蕃盛政がなんらかの形で関わっていることは確かですが、築城主と書いているサイトは見当たらないので誰がこの傑出した山城を縄張したのかは不明です。(柴田勝家の指示のもとにつくられたのは確かです) 刀根バス停から歩く 刀根バス停で下車、ほぼ車の姿のない車道をあるく まったく車の姿のない林道をあるく 山の北面には雪が残っていた 登山口には駐車場があった... Read More | Share it now!
城に桜にと欲張って、アブハチ取らずの津山城
【岡山県・津山市 2025.4.6】津山城は、江戸時代初期に小早川秀秋の死によって小早川家が改易され、そのあとに信濃の地から美作一国18万石で加増転封してきた森忠政により築城されました。美濃において斎藤道三から織田信長に権力が移行するころ、その道三から信長に主家をかえて頭角をあらわしたのが父・森可成よしなりであり、忠政はその六男にあたります。ちなみに長男は若くして戦死、次男の長可ながよしは武勇をとどろかせ鬼武蔵と称されますが、小牧長久手の戦いで秀吉が止めるのを聞かず徳川軍の背後から奇襲するつもりが逆に返り討ちにあい戦死します。三男が信長の小姓として有名な蘭丸(成利)、四男が坊丸(長隆)、五男が力丸(長氏)、この3人は本能寺の変で信長に随伴していたためそろって討死しています。このとき忠政(当時は長重)も信長の小姓をつとめていましたが、どうやら幼すぎて悪戯がすぎるのか国元に返されていたようで、それがために惨事に巻き込まれることを免れたようです。 さてその津山城、ぜひ訪ねたい城のひとつであり大阪から泊りでゆくには近すぎるからと、青春18きっぷをつかっての日帰り旅行を以前から企画していました。そこまでは良かったのですが、津山城が日本百名城であると同時に、城のある鶴山公園は日本さくら名所100選でもあることから、ついつい欲張ってしまいました。しかも今日は日曜日、仕事を引退して毎日が日曜日(のような)私はついうっかり週末は観光地は混むということを失念していました。さてこの旅、吉と出るか凶と出るか。 印象に残るのは、①人、②桜、③石垣 いかにも最近作ったような階段をあがって、 階段を上がった正面にある案内図より抜粋 菜の花と桜、そして石垣... Read More | Share it now!
「天空の城」にハズレなし、今回は津和野城で感動する
【島根県・津和野町 2025.3.22】「天空の城」を英語でいうと「castel in the... Read More | Share it now!
萩の城下で毛利氏はなにを思い江戸を見ていたのか
【山口県・萩市 2025.3.21】毛利氏は戦国時代には10か国120万石の大大名でした。当主の輝元が秀吉亡きあと豊臣政権下の大老であったことに加え、西国最大の大名ということもあって関ヶ原の戦いでは西軍の総大将に祭り上げられます。輝元にとって西軍の総大将になることが本意だったか否かはここでは深く探りません。輝元の従弟にあたる吉川広家が東軍が優位であると冷静に判断して、毛利家を存続させるため徳川家に内通し、結果として西軍のなかで最大勢力である毛利家が不戦を決めこんだたため西軍は敗北します。(一般には小早川秀秋の裏切りが東軍勝利の決め手になったと語られていますが、合戦の前半は西軍優位でありこの時点で毛利軍が西軍のために果敢に戦えば西軍の勝利は手が届くところとなり、さらに戦況を見守りながらどちらに味方するか迷っていた小早川軍は、すくなくとも絶対優位な西軍に向かって突撃することはなかったはずです)広家だけでなく毛利家のすべてのものが、積極的に東軍に味方しなかったものの毛利家が戦わなかったことで東軍に勝利を呼び込んだのですから、当然自領はすべて安堵されるものと期待していたようです。ところが家康は「いともあっさり」10か国120万石の大半を削り取り、毛利氏は周防と長門2か国36万石に大減封のうえ本州の西の端へと追いやられます。この時の恨みから幕末には長州藩が餓狼のごとく倒幕に奔ったことは「吉田松陰」のところで書きました。また吉川広家は面目がなくなり岩国へ押しやられ、江戸時代は長州藩の家臣の立場をしいられたことも「岩国城」のところで書きました。 今日は宗主である毛利輝元がそれまでの居城であった広島城をはなれ(追われた、に等しい)、あらたな拠点として築いた萩城をたずねます。 平城・外観 城入口にあった案内図より抜粋 萩城は海沿いの、もと三角州につくられた平城と、背後にそびえる指月山しづきやまの山城とで構成されます。平城の方が居城であり、行政もここで行われていたようです。山城の方は詰城、すなわち敵が攻め込んできたときに山に上がり防御につとめる最後の拠点です。 関ケ原の戦いの後といえば平和な江戸時代への入口にあたり、なぜここまで戦にそなえた城を築いたのか、不思議といえば不思議です。 右にみえる橋を渡って城郭へ後方に見えるのが指月山です 海につながる水路が外堀の役もになっている この石橋をわたって二の丸から本丸へこの水面は内堀になります 石橋を渡りながら本丸の石垣を観察する... Read More | Share it now!
吉田松陰は長州・萩の草葉の陰でなにを思う
【山口県・下関市~萩市... Read More | Share it now!
錦帯橋の頭上に岩国城か、岩国城の眼下に錦帯橋か
【山口県岩国市 2025.3.18】岩国城は吉川広家により江戸時代初期に築城された城です。吉川広家について書いておきます。戦国時代に中国地方の覇者となった毛利家の宗主・毛利元就は、長男が早世したためその嫡男・輝元に家を継がせ、次男・元春については地元の有力国人である吉川家に養子入りさせ、後にその家督を継承させます。(要は家督の乗っ取り)(三男・隆景は小早川家に養子入りして後に家督をつぎます)その元春のあとを継いだ次男(長男は戦死)が広家です。広家は秀吉にその武と智を認められ、豊臣姓を名乗ることを許されるほどに厚遇されますが、どうやら秀吉の一番の側近である石田三成を嫌悪していたようで、その嫌悪ゆえに関ヶ原の役では情勢を冷静に分析して東軍・家康に内通することを決めます。関ヶ原で天下をかけた合戦がおこなわれている最中に陣から動こうとしない吉川軍にたいして西軍から矢のような催促がなされますが、広家は「いま昼飯の弁当を食べている」といかにも人を喰ったような言い訳をして不動を決めこんだため、この逸話は「広家の空弁当」としていまに伝わっています。ところで広家としては関ヶ原で不戦をきめこむことで実質的に東軍に味方したわけで、家康から毛利家の全領土の安堵を約束してもらったつもりでいたのですが、そこは役者が数段上の家康のこと、あっさり約束は反故にされ毛利家は10ヶ国120万石の大大名から周防・長門2か国36万石へと大減封されてしまいます。ここからの広家の立場は微妙です。毛利家では白い目でみられ毛利領の東の端である岩国に追いやられ、江戸時代を通して岩国は藩とは認められず長州藩の家臣として冷遇されます。一方徳川家からは相応の待遇をもってむかえられ一国の領主であり大名として遇され岩国の地にあらたな城を築くことを認められます。そうして築かれたのが岩国城です。 錦帯橋の頭上にみえる岩国城 錦帯橋と山上に小さくみえる岩国城・天守 錦帯橋をわたったあたり一帯が居城であり、山上の城は詰城に相当します。※詰城とは戦時に最期にこもって拠点とする山城のこと ところで晴れ男を自認する私にとっては珍しい雨模様、旅先で雨に遭遇するのはいつ以来でしょうか。傘を携帯するなど考えてもいなかったので駅そばの店で折り畳み傘を買いました。 自動車も上がれる道を30分雨は上がりました 山城の入口にあった案内図より抜粋 石垣 二ノ丸と本丸をまもる石垣 本丸側から二ノ丸側をみる 出丸をまもる石垣 大手門へつづく 天守 天守はコンクリートで復元したものですさすが晴れ男、山城に到着したら青空 天守は下層より上層の方が大きい、唐風とか南蛮風とよばれる様式だそうです 天守からの眺望 拡大すると錦帯橋がはっきり見えている もともとの天守台跡 昭和の時代に天守を復元するに際して、山麓から天守がよく見えるように、また錦帯橋とセットにした図柄の見栄えも計算して、もとあった位置(この天守台の位置)から30メートル南寄りに築城したようです。 またこの天守台の石垣も掘り起こして組み立てなおした復元物です。 堀、北の丸 本丸を離れると石垣は崩れたまま 個人的には、一部はそのまま残すことを希望します 本丸との間を区切る巨大な堀案内図によると、ここは水堀だったようです 違う角度からみると、石積跡がありました 北の丸 大釣井(井戸)跡 錦帯橋の頭上に岩国城か、岩国城の眼下に錦帯橋か、どちらの眺めも素晴らしいものですが、城の天守を南に動かして再築した事実を考えれば、前者は観光用につくられたものと言えます。しかも私にとっては前者の眺めは雨のもと、後者は晴天のもととなれば、自ずと軍配は後者となります。岩国を訪れた際にはぜひ山上まで上がって錦帯橋をふくめた眼下の絶景をお楽しみください。(ロープウェイも運行しています) 【アクセス】錦帯橋を渡った地点から山城まで徒歩30分、下りは20分【料金】錦帯橋:往復310円、岩国城・天守入城料:270円【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!
羽衣石はハゴロモ石、羽衣石城はウエシ城
【鳥取県・東伯郡湯梨浜町 2025.3.1】鳥取県は東西に長細い地形ですが、ちょうど中央あたりの日本海寄りに東郷池があります。最寄りの駅はJR松崎駅、そこから内陸にむかって1時間余り歩くと羽衣石うえし山に着きます。その山腹には天女が舞い降りて羽衣をそこに掛け水浴びをしたとの伝説がのこる羽衣石はごろもいしがあります。羽衣石の伝説から羽衣石うえし山の名がのこり、その山上に築かれた城ゆえ羽衣石うえし城と呼ばれることになったのでしょう。 羽衣石城は南北朝時代の出雲の守護・塩治高貞の次男・南条貞宗が築城し、この貞宗がのちに伯耆一円の有力国人として名をのこす南条氏の始祖とされています。南条氏はこの羽衣石城を拠点にして主に東伯耆の支配をはかりますが、戦国時代になると山陰地方の各地がそうであったように尼子氏、大内氏、毛利氏、織田氏が入り乱れ、幾たびかの攻防の末に最期は南条氏が属する関ヶ原の戦いで西軍が敗れたために廃城、230年の歴史に幕を引きます。 羽衣石山にむかって 歩くのは公道ですが、車はほとんど走っていません 中央の盛り上がった山が羽衣石山 羽衣石山をのぼる 中腹まで車で上がれます... Read More | Share it now!
日本で一番大きい池・湖山池をあるいて一周する
【鳥取市 2025.2.27】鳥取駅から北東に5kmほどのところに、いまでは駅周辺の中心街よりもむしろ開けた感のある湖山の街があります。家内の実家がこの湖山にあるのですが、家内が里帰りしている期間中に私も訪ねることにしました。じつはこの家にはほぼ人間と同等にくらす犬犬がいます。私が訪ねるおもな目的はこの犬犬の世話ということになります。 ケンタ・柴 ソウタ・豆柴 湖山池について 犬犬と湖山池を散歩する 家内の実家から300mほどのところに湖山池があります。周囲18kmの、池と呼ばれるものの中では日本でもっとも大きな湖沼です。この湖山池をあるいて一周するのも今回の目標のひとつでした。天気もよいので今日こそと考えていたのですが、犬犬の日頃の運動量からして散歩がてらに一周歩かせるのはとても無理だろうということで、残念ながら犬犬はいったん家にもどし、ひとりで歩くことにします。 湖山池公園オアシスパークをあるく 池中央右寄りに青島が見える いったん公道に出ます... Read More | Share it now!
行基上人の足跡をたどって、堺から狭山へ
【大阪府・堺市~大阪狭山市 2025.1.20】行基上人は正真正銘のえらい人だと思います。14歳(15歳?)で出家し薬師寺(奈良市)で法相宗を学び名を行基とあらためます。そこまではフツーの出家者なのですが、やがて自分だけがどれだけ学ぼうがこれでは誰ひとり救えないと思いいたります。飛鳥時代当時の僧侶の役割とは、中国(隋または唐)から仏教を取り入れそれを学問としてまなび、知識として吸収し寺院を建立することでその教えを定着させることでした。そんな時代に行基は寺から俗世にでて民衆に辻説法をおこないます。僧侶が直接民衆に説法をおこなうのは禁じられていた時代です。まず寺院が騒ぎ立てますが行基人気は高まるばかり、その説法の場にはときに一千人もがあつまるほどになり、ついに寺院は朝廷に讒言ざんげんしてまで弾圧をつよめます。行基はといえば弾圧なんぞどこ吹く風、説法であつまった人々を指導し先ずは布施屋(貧しい人たちの救護施設であり宿泊施設)をつくり、さらに民衆のための土木事業にも着手し、橋をかけ用水路を掘り溜池をつくります。※井上薫氏の「行基事典」をもとに国土交通省が作成した図表には、行基がたずさわったインフラとして、池(溜池)15、溝(用水路)6、堀4、樋(水門)3、道1、橋6、船息(港)2、布施屋9とありました。 開口あぐち神社 赤鳥居 本殿 神仏習合の時代には寺と社が混在した<境内の案内図より抜粋> 開口あぐち神社は奈良と堺をむすぶ日本最古の官道(国道)である竹内街道の西端に位置し、堺の港を守るために建立されたと伝えられています。かつては広大な敷地内に行基が建立した念仏寺が存在したそうです。いまは念仏寺は廃寺となり痕跡すらありませんが、いまも神社でありながら当時の愛称から「大寺さん」とも呼ばれていると説明板にありました。 堺をあるくと古墳にあたる 大きな交差点を越えて東南方向へ陸橋の錆び具合からも自治体の困窮ぶりが伺えます 仁徳天皇陵の脇をかすめ、 大仙公園から履中天皇陵をのぞみ、 文殊塚古墳のまえを通る 家願寺えばらじ 本堂... Read More | Share it now!