街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,花、紅葉見ごろ,滋賀

【滋賀県・長浜市 2024.5.3】毎年なんどか山登りを共にするHさんと今年のGWはどこに出かけるか打ち合わせていたところ、ひょっこり「菅浦」という地名が出てきました。自分の不勉強というよりも、この地名は知っている人がむしろ少ないと思います。地理的には琵琶湖の北端より南に突き出した岬の、その西側の入り江一帯にあたります。歴史的にはずいぶんコアです。神様にそなえる食事を神饌(しんせん)といいますが、天皇にそなえる食事は贄(にえ)とよばれます。この贄を供する役目の人を贄人(にえびと)と呼ぶそうですが、この贄人が移り住み定着したのがこの地の起源だということです。それだけでもなかなか由緒正しい歴史を感じさせますが、さらに地理的には岬の根本は山にふさがれ、すなわち近江であれ越前であれ平地から接近するには山に阻まれ、交通手段としては琵琶湖を船で漕いでくる以外にない隔絶された土地です。そのため隠れ里となり、淳仁天皇が孝謙上皇の怒りをかって廃帝のうえ追放されたさいにここに逃れ隠棲したとの言い伝えもあります。今日は、その菅浦をたずね、当地を隔絶していた山々をあるいて奥琵琶湖の散策をしてみたいと思います。 琵琶湖の湖岸にそってならぶ菅浦集落 JR永原駅から菅浦集落までの9km弱は、時間の関係で徒歩ではなく、はじめから地元のコミュニティバスに乗せてもらうつもりでした。ところがJR列車が車内でトラブルがあったとかで到着が遅れてしまい、駅の改札口を出たときにはバスはすでに出たあと。しかも駅舎内に記されたタクシー会社に電話したら、今日は葬式があるので車の手配ができないと、なんともローカルな理由で断られる始末。 西の四足門... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,岡山

【岡山県・備前市 2024.4.25】岡山県備前市の、瀬戸内海の入り江が深く入り込んだところ、まるでその入り江を見わたすかのような山上に富田松山城はあります。歴史を簡単に書いておきます。世が応仁の乱をへて戦国時代に突入したばかりのころ、備前の国では浦上氏が勃興します。父親が亡くなり、兄・政宗と弟・宗景が争いはじめます。ことの発端は、北から浸食してきた大勢力の尼子氏に対して政宗は従属することを選び、宗景は対抗することを主張します。この兄弟での争いのなかで宗景が天神山城を主城とし、富田松山城を支城としてつかっていたようです。さてこの兄弟争いの結果ですが、西の毛利氏の助勢をうけた宗景が勝利し備前一国、さらに一時は東の播磨にまで勢力をのばす戦国大名となります。ところが家臣であった宇喜多直家がしだいに頭角をあらわし、ついには浦上氏を追放、やがて富田松山城は廃城となります。 登城というよりほぼ登山 富田松山... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,城郭・史跡,奈良

【奈良県・桜井市 2024.4.13】御破裂山という奇妙な名前の山があります。多武峰(とうのみね)の山頂をそう呼ぶのですが、多武峰に関しては、神々が天からこの山の頂に降臨し、そこから天香久山(あまのかぐやま)へと下っていったという神話の世界にも登場します。御破裂山の名の由来については、醍醐天皇(後醍醐ではありません)の時代いらい天下に異変があると山全体が鳴動したとか。その回数は35回とか、50回超とか、資料によりまちまちなのが少々胡散臭い、いえいえ少々気にはなるのですが、かつてはその鳴動を注意深く聞くための拝所のような場所まであったというのですから、やはり由緒ある神山ともいえる山なのでしょう。その多武峰の南ふところに談山神社(たんざんじんじゃ)があります。飛鳥時代に蘇我氏が権勢をふるっていたころ、その専横ぶりに怒りを抱く中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が中大兄皇子を誘いひそかに談合した場所と言われており、この談合ののち蘇我氏を排除し(入鹿を暗殺、父の蝦夷は自害)ここから大化の改新が始まることになります。 神社へ バスを降りると、屋形橋をわたる 東大門... Read More | Share it now!

城郭・史跡,三重

【三重県・鳥羽市 2023.4.10】九鬼嘉隆(くきよしたか)は、伊勢志摩を中心に活動する熊野海賊衆の一部である九鬼氏の11代目当主です。ここでいう海賊衆とは強盗団としての海賊ではなく、自前の船で水先案内もすれば、物資も運び、要請があれば武器をもって戦の助太刀にもむかいます。すなわちガイドに、運送に、傭兵に、言うなれば船をもった便利屋です。そうでした、その船も自前でつくるので造船業もこなしています。その九鬼氏のなかで、九鬼嘉隆が頭角をあらわしたのは織田信長の配下となり、長島一向一揆の鎮圧などに貢献したことによります。さらに摂津での石山本願寺との戦いでは、巨大な船体に鉄板をはって防御した安宅船をつくり、ろう城する摂津本願寺に兵糧を運び込もうとする毛利水軍を完膚なきまでに殲滅し、これを機に本願寺側の抵抗は急速に衰えてゆきます。本能寺の変で信長が横死してからは秀吉に仕えることになり、朝鮮出兵のさいには大型船をつくって水軍の総大将として出兵するなどの活躍をしています。なおこの時期に、南北朝時代からの遺構としてのこる城跡にあらたに鳥羽城の築城をおこなったようです。豊臣家と徳川家の争乱のなかで九鬼氏も運命に翻弄されます。関ヶ原の戦いにおいて嘉隆は九鬼家を存続させるため、家督をつがせた次男の守隆には東軍(徳川方)につかせ、隠居した自分は西軍(豊臣方)につきます。どちらが勝っても負けても、父か息子のどちらかは生き残れる策であり、これは信州の真田氏も同じことをしています。もちろん勝ったのは東軍。嘉隆は自害しますが、嘉隆にしたがっていた末弟はのがれてのちに四日市に腰をすえ回船業をはじめます。さらに武士をすてて商売に精をだすのですが、当時四日市周辺に菜種が生えひろがっていることに着目し、油づくりをはじめます。いま四日市に本社をかまえ、ひろくゴマ製品なかでもごま油を主に製造販売する老舗会社の九鬼産業は、そんなことで九鬼嘉隆をルーツにしているそうです。 鳥羽城・三の丸広場から 三の丸跡が現在の入口になります 現在の城跡の案内図... Read More | Share it now!

城郭・史跡,神奈川

【横浜市 2024.4.2】小机城が歴史の表舞台にはじめて登場するのは長尾景春の乱においてではないでしょうか。室町幕府が京都にありながら関東10ヵ国を統治するため設置したのが鎌倉府であり、その長官が鎌倉公方です。鎌倉公方とは役職名というよりも、京都の室町幕府将軍にたいして鎌倉すなわち関東の将軍といったようなものです。それゆえ鎌倉公方は足利将軍家の直系が世襲しており、じっさいに執務をとりしきるのは補佐役の関東管領、その職は上杉氏が世襲していました。その上杉氏が山内上杉家、扇谷上杉家に分かれており、さらに有力家臣である長尾氏も白井長尾家、惣社長尾家、犬懸長尾家、鎌倉長尾家にわかれ、関東管領を直接補佐する最重要ポストの家宰職を持ちまわりで務めていました。こんな状況なら跡目争いがおきるのは必定で、案の上白井長尾家の家督をついだ景春は自分に家宰職が回ってこなかったことに不満をだき、さらに白井長尾家に家宰職が回らないことで既得権益をうしなう周りのものに後押しされ、ついに挙兵します。このとき景春を支持する豊嶋某が立てこもったのが小机城なのですが、それだけであれば後世にさほど注目されることもなかったでしょう。ここに太田道灌が登場します。扇谷上杉家の重臣であり、武だけでなく文にも秀で、また江戸城の原型をつくったとも伝わる有能な武将ですが、自信過剰で人を食ったような面もあり、最後は仕えていた扇谷上杉家の手で暗殺されています。よほど目に余るものがあり主家として危機感を抱いたのでしょうか。その太田道灌がこの小机城を攻め落とすことになるのですが、その際に「小机はまず手習ひのはじめにて、いろはにほへと、ちりぢりとなる」と戯れ歌をうたっています。小机はこの地の地名ですが、それを子供が勉強につかう小さな机にかけ、「小机城ごときは手習いはじめのように、いろはにほへと書くほどにたやすく散り散りとなる(落城する)だろう」と小馬鹿にしたわけです。いろはにほへとの小机城を訪ねてみることにしました。 小机城へむかって 日産スタジアムの横を通って 小机城へ行くには小机駅が最寄になりますが、今夕大阪へもどる都合で新横浜駅のコインロッカーに荷物を預けました。小机駅は一駅だけ先、わざわざ電車に乗り直すこともないので新横浜駅から歩くことにしました。 前方の丘陵が小机城址 現在は、小机城址市民の森なる公園です 小机城 小机城跡の第一の特徴は、この竹林です もっとも当時から竹林があったのかは不明 大がかりな空堀 竹があると斜面をいかにも登りやすいので 竹林は当時はなかったものと考えるべきでしょう 二の丸広場 二の丸から本丸へと向かいます 防御と言えば堀と土塁だけ、そのぶん堀は大がかり 本丸広場 本丸は二の丸とどっこいどっこいの広さ、位置的にも横に並んでいるだけで、資料によるとどちらが主となる曲輪なのかはっきりしないそうです。 本丸から櫓跡へむかいます 天守がない代わりに、ここに遠望するための櫓があった いろはにほへと、の内に落とせるとは思えませんが、それほどの堅城というイメージはありませんでした。それにしても「市民の森」となっており近くに住宅がひしめいているにもかかわらず、散歩する人すら見かけませんでした。密生する竹林と木立のため、たしかに憩いの場とするにはふさわしい雰囲気ではないかもしれません。 茅ヶ崎城へむかって 小机城から6kmほどあるいて茅ヶ崎城を訪ねます。茅ヶ崎城は横浜市の港北ニュータウンを開発中にみつけられた遺跡のひとつで、どうやら小机城の支城だったのではないかと考えられています。小机城のその後はというと、後北条氏が勢力を拡大すると相模から武蔵へ進出してゆく拠点として整備しなおしたようで、茅ヶ崎城もやはり支城のひとつとして使われていたようです。※鎌倉時代の執権・北条氏は相模北条氏とよばれ、北条早雲にはじまる北条氏は小田原北条氏または後北条氏として区別されています。 港北ニュータウンのマンション群を抜けて 戸建て住宅地に出ると、やがて茅ヶ崎城につきます ここは茅ヶ崎城址公園となっています 現地にあった案内板より抜粋 茅ヶ崎城 案内板のある北曲輪(郭) 西曲輪へ向かいます このあたりが西曲輪と思われます 中曲輪... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,神奈川

【神奈川県・鎌倉市 2024.3.31~4.1】過去に訪れたことのない鎌倉を訪ねました。一日半をまるまる鎌倉見物にあてましたが、とてもすべてをじっくり見てまわることはできませんでした。こだわって見て歩いたのは、鎌倉時代初期の頼朝、実朝ゆかりの地。そして幕府倒幕にかかわる後醍醐天皇の皇子・護良親王と足利尊氏ゆかりの地。鎌倉幕府を立ちあげたのは源頼朝ですが、3代目将軍・源実朝が26歳の若さで暗殺され頼朝の血筋は絶え、その後は執権・北条氏による統制(というよりも支配)の時代がながく続きます。その北条氏の出過ぎた執政に業を煮やして王政復古をとなえ行動をおこしたのが後醍醐天皇であり、その勅命にこたえて参集したのが、関東では足利尊氏であり新田義貞であり、畿内では楠木正成です。ところが北条氏をたおして鎌倉幕府を地上から葬り去ったものの、その後はそれぞれの野心や思惑がぞろぞろと顔をだし複雑にからみ合い、ついに足利尊氏の弟で好戦家の直義が、後醍醐天皇の皇子で行動家の護良親王(もりよししんのう)を殺してしまうところから、後醍醐天皇(のちの南朝)vs... Read More | Share it now!

城郭・史跡,三重

【三重県・玉城町 2024.3.21】「日本100名城」はよく知られていますが、そのあと「続日本名100城」も選定されています。これらを合わせると、「日本200名城」ということになるのですが、そもそも日本全国には2万5千ほどの城があったといわれているので、そのうちの200に選ばれたのであればずいぶん名誉なことではあります。もっともその200のなかには、単独で世界遺産に登録されるほど著名な姫路城もあれば、天空の城として有名になった竹田城、どうする家康ゆかりの城として脚光をあびた浜松城や岡崎城、あるいは県庁所在地の地名がそのまま城名になっているためそこそこ知られている福井城や津城など、その知名度にもずいぶんな差があります。城の人気ランキングというのがありますが、あまりに影がうすく地元の人以外にはほとんど知られていないような城もこの200のなかには相当数あるわけで、その意味では「知名度を無視した人気ランキング」とすべきでしょう。ところで田丸城、ご存じですか? 田丸城跡へ 城跡のまえに保育園と役場 JR田丸駅から徒歩10分ほどで田丸城に着きますが、まず目にはいってきたこの光景を見たときには、(わざわざ訪ねてきて)失敗した、と思いました。 玉城町教育委員会発行のマップより 田丸城の存在は織田信長の次男・信雄について調べている過程で知りました。ネットで調べてみて興味は覚えたのですが、わざわざ見に行くほどのものなのかと迷いはあり、さらに検索したところ石垣や堀など興味深い画像を目にしました。それでもこの城のみ単独で見に行くことには躊躇があり、近隣にまだ見たことのない日本100名城のひとつ松坂城があることからセットで訪ねることにしました。 田丸城 石垣と水堀 このあたりには石垣はなく、大掛かりな土塁が さきに石垣のない北方面を見て回ります ここからも上がれるようで、土塁と虎口が見えます 西側に回ってきました... Read More | Share it now!

城郭・史跡,三重

【三重県、松阪市 2024.3.21】まずさきに書いておきます。三重県の松阪市は「まつざかし」ではなく「まつさかし」と読みます。そこにある城は、大阪市にある城が大坂城であるように、松阪市にある松坂城とかいて「まつさかじょう」と読みます。ちなみに私の世代に親しみのある女優の松坂慶子も元プロ野球選手の松坂大輔も、名前と顔の一致しない松坂桃李も「まつざか」です。ちなみにのあとは文字どおり余談ですが。 さて松坂城ですが、織田信長に早くからその才を認められていた蒲生氏郷により築城されました。蒲生氏郷は信長の死後は秀吉に重用され、現在の滋賀県日野町にわずかに遺構がのこる日野城からここ松阪(当時は松坂)に12万石で転封されます。当初は海沿いの、信長の次男・信雄が築いた松ヶ島城に入りますが、使い勝手が悪かったのかすぐに移転を決め、あらたに松坂城をつくります。この松坂城は日本百名城にも選定されているものの、築城主の蒲生氏郷がクセもなくアクもないあまりに優等生然としているためとんと興味を覚えず、いまのいままで訪ねることもありませんでした。 松阪といえば松阪牛 JR松阪駅前にあるマンホール蓋 JR松阪駅をでたところで、さっそく牛のマンホール蓋を発見しました。時間は正午過ぎ、ふと松阪牛がたべたい、と思いました。松坂城までは駅から歩いて15分ほどですが、途中に松阪牛料理で有名な店があります。ためしに、と思って通りすがりに店前のメニューブックをのぞいてみました。昼食なら「円3ケタ」が予算ですが、「円4ケタ」すらありません。思わず足早に立ち去りました。 松坂城 御城番屋敷と土蔵 裏門前の常夜灯 松坂城郭内の案内板より 逆に裏門入口より常夜灯をみる  なぜか裏門の方が立派なのでここから入ります 裏門の虎口... Read More | Share it now!

山登り,神社・仏閣,城郭・史跡,滋賀

【滋賀県・米原市 2024.3.18】琵琶湖の北東、岐阜県との県境ちかくに名峰・伊吹山はそびえています。その伊吹山ですが、昨年夏の大雨で登山道というよりも斜面そのものが広範囲に崩落し、現在も登山禁止になっています。この崩落の様子はネットで『伊吹山 崩落』で検索し『画像』をクリックすれば生々しい現場写真を見ることができ、さすがに好きこのんで登ろうとは思いません。ところが山をよほどあまく見ているのか、あるいは禁止されると逆に登りたくなるのか、登山禁止になって以後もこの伊吹山の山頂をめざす人は絶えることなく、とうとう今年2月に、アルパイン登山(岩登り+山登り)をしていたとの情報もありますが、登山客が落石にあい死亡する事故がありました。伊吹山の登山道が復旧するのは公式にも長期間を要するとされており、いつになるのか気長に待つしかないのが現状です。ところで、その伊吹山の南尾根というか、南前面にこんもり隆起した山があります。伊吹山がそびえているのに対して、この山はまるで伊吹山の前衛山のようにどっしり構えています。それが弥高山です。 弥高山へ JR近江長岡駅から伊吹山をのぞむ 伊吹山の手前の山系、右のピークが弥高山 上平寺までは近江長岡駅から6km、歩いて来れます 弥高山へはここ上平寺から登ることになります。ところで上平寺登山口は、弥高山のピークを越えて伊吹山に登るためのものと想定されており、わざわざ弥高山だけにのぼる登山客はほとんどいません。そのため登山口には「伊吹山は落石のため登山禁止」と札がありロープが張られています。崩壊、落石は弥高山ピークより先であることは確認していますので、申し訳ないのですがロープをくぐって先に進みました。 京極氏遺跡・上平寺城跡 上平寺村にあった案内板より抜粋 太平記(原本ではなく、吉川英治『私本太平記』)を読んでいたところ、バサラ大名として知られる佐々木道誉(ささきどうよ)が六波羅探題からの要請で、不穏な動きで入洛をめざす東国の兵を検めるため「伊吹の城」でかまえて監視する場面がでてきます。さらに逆心をいだく足利高氏(のちの尊氏)が単身で「伊吹の城」を訪れ、歓談のうちに道誉を倒幕側にひきこむという場面もあります。そこから「伊吹の城」に俄然興味を抱いてしらべたところ、この上平寺城にたどりついた次第です。 案内板からもわかるように、上平寺城は弥高山の麓から山頂近くまで斜面にそって展開し、さらに山頂から反対側には弥高寺跡がのこっています。 登山口を入ると、道両側に曲輪跡が並びます 歴代京極氏の墓、右は伊吹神社の殿 その伊吹神社へ上る階段、雰囲気が良いので 下から上から撮影しました 崖沿いですが道幅があるので危険はない 坂は徐々にきつくなります 落石とか崩落とは縁のない穏やかな山登り やがて雰囲気が変わってきます 山上の上平寺城跡 竪堀 広大な曲輪跡 城跡にたてられた案内板から抜粋 佐々木氏は59代宇多天皇の流れをくむ近江の氏族で、鎌倉時代にいくつもの分家をし、そのなかで六角氏と京極氏がもっとも著名なのではないでしょうか。六角氏は六角(京洛中の地名)に屋敷があり、京極氏はおなじく京極に屋敷があったため、各々そう呼ばれていますが、正式にはともに佐々木氏です。そして佐々木道誉は京極家に属しているので、この京極遺跡である上平寺城は、太平記のなかで佐々木道誉が東国からくる討幕軍を牽制するためにこもった城であることはまちがいありません。 曲輪から曲輪の間にはもとは堀切があった 堀をほり土塁をあげて虎口をつくっている 曲輪の周囲を土塁で囲んでいる ここが本丸に相当する曲輪... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,福井

【福井県・敦賀市 2024.3.15】明日3月16日に北陸新幹線が延長開業され、東の金沢から福井・敦賀までの運行が始まります。しばらくの間は新幹線開通祝いの余波で敦賀も観光客で混むのではないかと懸念し、なんとかそれまでにと思いながら伸ばし伸ばしになっていたのですが、ぎりぎり前日になって青空にも恵まれることを確認しました。それでは出発します。 JR敦賀駅 JR敦賀駅前は、明日からのイベント準備中 開業初日もいろいろ新鮮な光景が見られるのでしょうが、開業前日もなかなか興味深いものが見れました。ちなみに駅構内でも以下のとおり... Read More | Share it now!